RAIDERS(海兵強襲部隊)
閑話休題
レイダー養成所
Raider Training Center
1942年末、第3強襲大隊の次に第4強襲大隊の組織化が認可されると同時にレイダーストレーニングセンターの創設も許可され、1943年2月5日に、将校2名と下士官兵26名が教官として任命されました。
センターの目的は、標準的なレイダーとして志願者を訓練し、海外に派遣されている各大隊の補充要員を要請することにありました。それ以前では各大隊が個別に(相変わらず他の部隊から)志願者を募り、直接組織の中に組み込む形式でした。当然ながら、こうして入隊した者のほとんどが基礎訓練だけを受けた状態で、強襲部隊は、やはり個別に彼らに対し、かなりの労力を割いて改めて鍛え直すという方法をとっていました。
当然、能率が悪いばかりか、この形式だと戦闘任務による損失を補充することが全くできない最大の問題を改善すべく、サミュエル・B・グリフィスII中佐が中心人物となって新たなシステムを提唱していくことになります。
こうして定められた訓練期間は8週間。この際、カールソン中佐の考え―もっと正確に言えばジェームズ・ルーズベルト中佐の存在が訓練計画に多大な影響を与えていました。
主眼は、ゲリラ戦術と、カールソン中佐が盲目的信仰を抱いていた"個人の調理法"の才能でした。
※カールソン中佐に言わせると通常部隊は、無駄に規模の大きなフィールドキッチンに頼りすぎている、ということだそうで。
訓練コースの中には、主力と二つのゲリラ部隊に生徒たちを分割し、敵味方に分かれて行う一週間の演習があり、更にゴムボートを用いた上陸作戦にはスケジュールの大半が割り振られました。これ以外には伝統的な個別技能と小規模部隊戦術、射撃技術、斥候技能、哨戒技能、身体調整、そして単独戦闘などに焦点を合わせて訓練は行われました。
真剣故に笑えるのが訓練の写真 | |
重要視された長距離行軍訓練 |
強襲部隊の特殊装備 The toy of the RAIDERS.
側面警戒を行うレイダース。右の隊員は、ボイス対戦車ライフルを持つ
現在の特殊部隊にも、特有の装備が与えられ―或いは自主的に用意するようにレイダースも、特別な調達優先権を与えられていたために独自に武器や装備を調達していました。
※創設に尽力した人=大統領の息子=一番の支持者=大統領
その結果、特有の装備のコレクションとなり、攻勢のコレクターを泣かせ、或いは喜ばせることとなります。
有名な中にはレイダースナイフと呼ばれるもので、一つは"ガン・ホー"ナイフと呼ばれる9インチのブレードを持つボウイナイフ。これは第2強襲大隊に主に用いられました。
もう一つは両刃のスティレットナイフで、元祖であるイギリス強襲部隊コマンドゥが用いたフェアヴァーン・サイクス戦闘ナイフをモデルにしていました。こちらは四つの大隊全てに支給されたのですが、隊員からは使ってみたところ軽すぎると不評でした。
※この手のタイプは、言うまでもなく人を刺す以外の使い道はまずありません。
強襲大隊は素早い移動を徒歩で行うため、重装備を持つことはなく、このため軽量ながら、火力に勝る武器の獲得が重視されました。このため、重機関銃や81mm迫撃砲は拒絶され、81mm迫撃砲など部隊ごと後方に置き去りにされたくらいです。
強襲大隊に与えられたお墨付きにより、第2強襲大隊はM1自動小銃を最初に支給される海兵隊部隊の一つとなりました。しかし、第1強襲大隊は、他の海兵隊部隊同様に1908年に採用されたM1903ボルトアクションライフルでガダルカナル戦の初期を戦うことになります。この他にブローニングオートマティックライフル(BAR)、作動不良が多く不評だったレイジングサブマシンガン、支給が本格的に始まるとあっさりとそれを駆逐した漢の銃トムソンサブマシンガンは特に好まれ、BARとトムソンサブマシンガンを持つ射撃チームが大隊の誇りとされたくらいです。
そして、イギリス軍が後世の笑いを取るために開発したボイスMKI対戦車ライフル(全長1,614mm、銃身長915mm、重量16,560g、口径.55インチ(14mm)、装弾数5発)。
当時は、まだM1対戦車ロケット(バズーカ)が完成していなかったためにエドソン中佐は受けを狙って有効な対戦車兵器として、このイギリス軍の冗談ならたちが悪いが、真剣なので余計たちが悪い兵器をライセンス生産していたカナダのJ.イングリス社から引き取りました。1,000ヤード先まで正確に狙えるこの化け物は、アンチマテリアルライフルとして実際マキンにおいて二機の日本軍水上機を破壊する実績を残しましたが、M1バズーカの支給が始まると、さっさと廃棄されました。
※余談ですが、現在M82バレットライフル(12.7mm)に代表されるアンチマテリアルライフルによる狙撃を実戦で始めて行ったのは、同銃を用いたイギリス軍だ、とイギリス人はのたまっていたりします。なお、開発したイギリスでは、少しでも兵士の負担を軽くしようと軽量化モデルを開発して、更に兵士の負担を増やしつつ、次のお笑い対戦車兵器PIAT支給後もいろいろやっていました。
これ以外に、強襲部隊では折り畳み自転車から、腸を守るためのバンドまであらゆる奇妙な装備の実験も行いました。
第1強襲大隊では携帯式の野戦ストーブや先端にループが付きペグが通された8フィートのトグルロープを所持し、ロープは崖の登攀などで活躍しました。
第2強襲大隊では"ガン・ホー"ジャケットと命名されたハンティングジャケットを利用しました。
そして、両大隊の兵士たちは共通して、ヘルメットの輪郭をぼかすためにカモフラージュパターンのユニフォームやバーラップをばらして取り付けていました。
高速輸送駆逐艦
輸送駆逐艦の最初の要求は、艦隊上陸演習FLEX3に参加した第1海兵旅団の戦闘報告によって行われました。
ジェームズ・J・ミード准将は1937年2月の文書で、駆逐艦により水陸両用輸送車と火力支援という当時抱えていた二つの問題を一挙に解決できるかも知れないと提案しました。
海軍は、一応、この意見に同意して、第1次世界大戦中に多数建造されて大半が退役間近だった四本煙突の平甲板を持つ駆逐艦の一隻を使って実験することを決定しました。
ということで、1938年11月に海軍は駆逐艦マンレー(DD74) を補助艦(AG28)に分類し直し、慌ただしく作業を進めた後にカリブ海で海兵隊の輸送任務に従事し、1939年秋に、全ての魚雷発射管、砲一門、ボイラー二つとそれらの煙突二本を撤去し、兵員と物資を収容する貨物室を船隊中央に設けました。
作業は突貫で行われ、1940年初頭のFLEX6に彼女は参加し、第5海兵連隊第1大隊A中隊は改装されたマンレーに最初に乗り込む部隊となり、1940年2月23日、ゴムボートを用いた強襲上陸を行いました。
輸送駆逐艦の実用性に海軍は満足し、このクラスの一番艦としてマンレーにAPD1の制式名称を与えました。
なお、改修作業は突貫で行われたために乗り込む海兵隊員たちへの配慮は行き届き、1942年夏にAPD艦隊に乗り込んだエドソン中佐の部下たちは、130人の兵員に対し、四つも洗面台がある以外は換気装置も寝台も無い居住区画に驚愕し、感激した一人は下院議員に手紙を書き、これにより後に居住空間の改善が行われました。
それでも、彼女たち最初のAPD6隻が真珠湾攻撃の余波で混乱する海軍がまともに利用できる唯一の存在でした。
最初の6隻-マンレー(APD1)、カルホーン(APD2)、グレゴリー(APD3)、リトル(APD4)、マッキーン(APD5)、そしてスティンハム(APD6)の全てがソロモン諸島を巡る戦いに従事しましたが、生き残ったのはマンレーとスティンハムの二隻だけでした。1942年8月20日にカルホーンは日本軍の爆撃機に、1942年9月5日にはサボ島の偵察任務を支援していたグレゴリーとリトルが日本軍の駆逐艦によって、1943年11月17日にブーゲンビルへの輸送任務を行っていたマッキーンが雷撃機の攻撃により撃沈されました。
それでも、戦争が終わるまでに更に133隻の駆逐艦と護衛駆逐艦が輸送任務に従事するようになりました。
また、1945年7月30日に伊号第五八潜水艦(橋本以行艦長)によって撃沈された巡洋艦インディアナポリス(CA35:チャールズ・マグヴェイ艦長。乗組員は海兵隊34名を含む1196名)の8月2日からの海兵隊9名を含む316名の生存者救出作戦において、輸送駆逐艦バセット(APD37)、レジスター(APD92)、リングネス(APD100)が、その高速性と収容力を生かし、この中でバセットが生存者316名中151名(内海兵隊9名)を救助し、この救援作戦の名誉を受けることになります。