RAIDERS(海兵強襲部隊)
ニュージョージアキャンペーン第3幕:エノガイ
7月5日、第1強襲連隊司令部は第1強襲大隊と共にニュージョージア攻略作戦に参加しました。既にライス・アンカレッジが無防備であることを事前偵察で確認していた彼らは北部集団の夜間上陸の先鋒として案内役を務めることになります。
ドラゴンズ半島
作戦計画では、ドラゴンズ半島上には500名の日本兵が配置されているとされており、第1強襲大隊(リヴァセッジ連隊長と連隊司令部も同行)がライス・アンカレッジからドラゴンズ半島、エノガイそしてバイロコの日本軍基地の攻略を陸路で前進して行い、同時に陸軍の第148歩兵連隊第3大隊が更に内陸へと進軍してムンダとともにエノガイとバリオコを結ぶ山道を切断するための拠点を設営し、そしてもう一つの陸軍大隊(第145歩兵連隊第3大隊)の半分が橋頭堡を守り、残りの半分が予備部隊として留めおかれることになっていました。
7月5日、偵察活動のためにしばらく島で活動していたレイダースのクレイ・A・ボイド大尉率いる偵察部隊と、彼に協力していた港湾監視員や島民たちの案内で第一波は上陸を果たします。この間、エノガイとコロムバンガラから日本軍の沿岸砲がAPDに向かって撃ち込まれましたが、土砂降りの天候だったために精度は悪く、この砲撃の驚異はそれほどではありませんでしたが、日本軍の駆逐艦の魚雷によって輸送艦一隻が撃沈されました。
それでも、兵士たち、彼らの装備や補給物資の大半は揚陸に成功し、夜明けによって日本軍の反撃が始まる前に水陸両用部隊は撤収することができました。
強襲部隊は事前準備として島民たちが切り開いたエノガイ入り江の先端ギザギザ河までの新たな道を進み、夕暮れ前に橋梁地帯の7マイルを進むことに成功しました。
しかし、日暮れと共に天候は悪化し、激しい雨によってギザギザの沼地を抜ける道は消え、更にタムコ河の増水によって渡河は不可能となり、結局、翌日はタムコ河を横断する場所を探すために1マイルを移動しながら、一日を費やし、更にもう一晩雨に耐えながら過ごすはめとなりました。
ということで7月7日。この日、始めて強襲部隊の前衛が日本軍と遭遇し、緒戦で日本軍2名を殺害し、更にマラヌサ村近郊で小規模の日本軍斥候5名を捕虜にすることに成功します。
そこから1マイルほどの険しい珊瑚の丘の山腹を進む途中、丘の西端トリリの村で前衛部隊が、また日本軍部隊と交戦。この戦いでは日本軍は11名を失いましたが、海兵隊側も3名が戦死し、4名が負傷しました。
この日、部隊はトリリ周辺で攻撃準備を行うと村に入り、道に沿って待ち伏せを設定。
翌7月8日の夜明け、日本軍はバリオコで道を遮断し、D中隊の一個小隊と戦闘に入ります。この戦いはC中隊が現場に到着する朝の間続き、日本軍は50名の戦死者を残して撤退しました。
この戦いの後、陸軍中隊がトリリを確保し、強襲部隊は彼らに後を任せて午後にエノガイへ向けての移動を開始します。
が、選択した道は入り江の南端に沿ってそのまま沼の中へと続いていました。大隊長グリフィス中佐は、これは駄目だとトリリへ引き返し、翌日別なルートで出直すことに決めました。これにより、バリオコで再反撃のために集結していた日本軍は引き返してきたB中隊の一個小隊に側面に忍び寄られ、撤退するという結果を生みました。
7月9日朝、第1強襲大隊はエノガイへ向けて別な道を進軍し始めました。今度は沼地を渡るのに都合が良いルートで、それは目的地占領のために有利な場所へと続いていました。
1500時、C中隊が日本軍の防衛部隊と接触。C中隊の左翼リーランド礁湖にA中隊が入り、B中隊が右翼につきます。分厚いジャングルの天蓋が迫撃砲の使用を妨げましたが、薄暗い最小限の下生えに覆われた地形は小火器による射撃には好都合でした。
日本軍にとって。
A中隊とC中隊は間もなく釘付けにされ、B中隊のみが接触が無いことを報告しました。この攻撃も日が暮れるにつれて次第に止んでいくことになります。
翌早朝、B中隊のパトロールが前方で占領されていない区域を発見すると、グリフィス中佐は右翼部隊に入り江近くの開けた地形を抜けて攻撃するように命じました。B中隊は迫撃砲の支援を受けて素早く進むと、日本軍の側面に回り込み日本軍にリーランド礁湖の砂州の方へ追い出し、そこへA中隊の機関銃が掃射を加えてなぎ倒しますが、それでも日本軍は激しい抵抗を続け、海兵隊の突破を許しませんでした。最終的に夕暮れまでに強襲部隊は包囲を完了し、最後の掃討は7月11日の夜明けにD中隊が手榴弾を手に行って完了させます。
このエノガイの戦闘でアメリカ軍は戦死54名、負傷者91名。対し、日本軍は350名の損失。更に機関銃23挺、140mm沿岸防衛砲4門がアメリカ軍の手に落ちました。
強襲部隊が鹵獲した140mm砲
この戦いにおいて、アメリカ軍は地形の障害もあり、必要なだけの食料や弾薬を運べず、このため第1強襲大隊はトリリで補給物資が空中投下されるまで一日以上を食料無しに過ごし、火力支援も一回の空襲を例外とすればもっぱら一握りの60mm迫撃砲に頼っていました。
同様にエノガイを占領するまで、負傷者を病院まで後送する手段もなく、7月11日になってようやくPBY三機が死傷者の回収を行うために着水しました。この作業中に日本軍機による機銃掃射が行われたものの損害は軽微でした。攻撃後にPBYは第4強襲大隊に対する再補給の改善を申し立てるためにリヴァセッジ大佐の幹部将校二人を乗せて飛び立ちました。