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RAIDERS(海兵強襲部隊)

最後の戦い:ブーゲンビル

  ニュージョージア島が陥落した結果、連合軍は周辺のアランデル、ヴェラ・ラヴェラ、そしてコロムバンガラ島などの島々も占領しました。

 この後、ラバウルの包囲を確固たる物とするべく、幾つかの選択肢から、ソロモン初冬最大の島ブーゲンビルの上陸が諸般の都合(マッカーサーの我が儘、マッカーサーの我が儘、マッカーサーの我が儘などによる)によって選ばれました。

 一ヶ月後にマッカーサーの部隊がニューブリテン島グロースター岬を攻撃することになっており、ブーゲンビル攻略とともに二方向から、ラバウルは連合軍地上基地から飛び立つ航空機の航続圏となり、制空権を掌握してラバウルを無力化し、迂回することを可能になります。

 1943年11月1日。この日がブーゲンビル上陸のD-dayと決定しました。

 ただ、この作戦を実行するにあたり、ハルゼー提督の手元にある輸送船と海兵隊員では島の北と南から同時の侵攻は数が足りず、その時点で利用可能な航空基地の位置からも考えるとブーゲンビルの南に上陸するのが一番効果的な支援を行えることから、計画中に島の西側オーガスタ女王湾-トロキナ岬一帯に注目が集まりました。そこは防備が手薄で、例え日本軍が上陸に気付いても地形が妨げとなって迅速な対応を不可能にするという点が魅力的でした。

 ここを拠点として島全体を占領するという計画に落ち着き、取り敢えず偵察のために9月末に潜水艦によってパトロール部隊が送り込まれます。彼らはそこで上陸する海岸のすぐ向こうが多数の沼地となっていることを発見し、更に10月には航空偵察によって日本軍が新たな防御拠点を建設中であることが判明しますが、これらの事実は(例によって、と言うべきか)、計画変更とはなりませんでした。

 この時点で第1強襲連隊は再編成中で強襲部隊の実働部隊は第2及び第3強襲大隊でした。そこで、この二つの大隊を統合した第2強襲連隊を組織化。指揮官は第2大隊長のシャプレー中佐が務め、中佐の後任としてジョセフ・P・マキャフェリー中佐が大隊長となります。

 作戦計画は、輸送船等の不足から、第一陣が第3海兵師団二個連隊(レイダースと第3防衛大隊により増強された第3及び第9海兵連隊)。第二陣が残りの海兵隊と陸軍第37歩兵師団と決定。


トロキナ岬(奥)とプルアタ島(手前)

 11月1日、第3海兵連隊と第9海兵連隊は第2強襲大隊の支援を受け、トロキナ岬から北西に向かう海岸一帯を確保。同時に第3強襲大隊(M中隊欠)がトロキナ岬からプルアタ島を襲撃。


戦闘の小休止中の記念撮影

 この地域の日本軍は75mm砲で支援された一個中隊から成り立ち、一個小隊がプルアタとトロキナ島を占有し、一方で残りの部隊は岬を要塞としていました。これらの部隊が上陸部隊に対する攻撃を行い、機関銃からの十字砲火によって、最初の突撃波右翼は大損害を受け、更に75mm砲が上陸舟艇四隻を破壊。第3海兵連隊第1大隊のロバート・A・オーウェンス軍曹が沈黙させるまで損害を与え続けました。

ロバート・A・オーウェンス軍曹は、この活躍により、死後名誉勲章。

 第2強襲大隊は、この1/3の左側に上陸しましたが、やはり、海岸で野砲、迫撃砲や機関銃による掃射を受けて損害を被りました。マキャフリー中佐は、日本軍の防衛に対し、掃討を開始できるまで部隊の体勢を整えることには成功しましたが、この過程で致命傷を負いました。

 一方で西に上陸した部隊は高波に翻弄される以外は、大した抵抗を受けることもなく上陸を果たしています。

 第3強襲大隊M中隊は第2強襲大隊に一時的に組み込まれ、午後に移動を開始し、海岸橋頭堡へ繋がる主要なピヴァ街道を1,500ヤード進んで防御地点を確保。


ピヴァ街道を進むレイダース

 第3強襲大隊自体は、D-dayにプルアタの掃討を終え、11月2日午後遅くまでに島の最後の防御地点を破壊し終えましたが、この時点で戦死3名と負傷者15名の損害を受けていました。

 次の数日間は、防衛線の拡張のため、内陸へ進むことでした。時折、日本軍の小規模の部隊と交戦する以上に、彼らの行動を阻んだのは、多くの海兵隊員が後に思い出すように、水面下全てを覆うかのように広がりまとわりつく深い泥といった沼地と密集したジャングルで成り立った地形でした。

 11月4日、別の部隊が第2強襲大隊と交替し、強襲連隊は第9海兵連隊の指揮下に入り、街道の道路封鎖任務を各中隊が交替で務めました。翌5日夜に、道路を封鎖するE中隊に対し、二回小規模な夜襲が行われ、二日後にH中隊に行われた攻撃は更に大規模で、G中隊が増援に駆け付けると日本軍は撤退しますが、その夜は延々と迫撃砲を撃ち混み続けて海兵隊員たちを悩ませました。

 11月8日朝、H中隊とM中隊が持ち場に着くと、最大の突撃が始まります。午後半ばE中隊とF中隊が前線を越えて反撃を与えると二時間後に日本軍は撤退。

 更に翌朝、IとM中隊が道路封鎖を行い、LとF中隊が準備砲撃の30分後に反撃を開始。日本軍は頑強に抵抗し、結局、I中隊とM中隊、更に第9海兵連隊が前進の支援を行うはめになりました。午後、日本軍は撤退したため、パトロール部隊が街道を進み、数百ヤード先で日本軍第二十三歩兵連隊の野営地を発見。この間、M中隊のヘンリー・ガーク一等兵が仲間を守るために手榴弾に覆い被さり、この行動により死後名誉勲章を授与されました。

 11月10日の海兵隊創立168周年を強襲連隊は師団予備として前線後方で祝いました。しばしばパトロールを派遣する程度で二週間、強襲部隊は平穏な日々を過ごす間、増援部隊が到着し、その陸軍第37歩兵師団に混ざって第1空挺大隊もブーゲンビルに到着しました。空挺部隊は軍団予備として、一時的に強襲部隊の指揮下に入ることになります。

 二日後、第2強襲大隊が防衛線を東へ拡張するための攻撃に参加しますが、これに対する日本軍の抵抗は僅かでした。

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