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RAIDERS(海兵強襲部隊)

ツラギ:Turagi.


ツラギ島

「エドソンは、私がかつて見た中で最高の部隊指揮官の一人だ」

第1海兵師団長アレキサンダー・A・ヴァンデグリフト少将がホルコム司令官に送った手紙の一節

 1942年5月、ニミッツ提督はツラギの日本軍水上機基地に対する攻撃を提案しました。しかし、当時の情勢はそれを実行可能な状況でもなく、一部-ダグラス・マッカーサー大将及びダグラス・マッカーサー大将。そしてダグラス・マッカーサー大将など-の反対もあって、作戦は見送られます。

 しかし、オーストラリアに対する海上輸送ルートにとってツラギの水上機基地が驚異であるのも事実でしたが。

 しかし、ミッドウェー海戦の勝利によって、連合軍側に攻勢へ転じる余裕ができた頃、ソロモン諸島に日本軍が飛行場を建設し始めたという情報がもたらされました。

 6月下旬に統合参謀本部は、マッカーサー将軍の司令部とニミッツ提督の司令部の担当地域を入れ替えた上で、ガダルカナルそしてツラギの奪取を命じます。

 このウォッチタワー作戦で第1強襲大隊は、第1目標であるガダルカナルの飛行場奪取を行う第1海兵師団北方集団の指揮下に入り、ツラギの攻略を行うことになりました。

北方集団ウィリアム・H・ルーパタス准将
フロリダ島攻略(ロバート・ヒル少佐) 第2海兵連隊第1大隊
ガブツ島攻略(ロバート・ウィリアムズ少佐) 第1空挺大隊
ツラギ攻略(メリット・エドソン中佐) 第1強襲大隊
第5海兵連隊第2大隊
第3防空大隊分遣隊

 エドソン中佐と、その大隊は7月3日にサモアにて合流し、ニューカレドニアへ移動します。81mm迫撃砲小隊は案の定留守番でしたが。

 7月20日、ウォッチタワー作戦参加の命令が正式に伝えられ、彼らは第5海兵連隊第2大隊の支援の元ツラギを攻略することが決定しました。

 この時、エドソン中佐は、目標に対する水陸両用偵察パトロールの編成を提案しますが、現地の情報については、島に詳しい三人の植民地職員であるオーストラリア人(多分、全員ブルース)からもたらされることになっていたために却下されました。

 ツラギ島の上陸地点は、長さ4,000ヤード、幅1,000ヤード未満と狭い上に、南東部末端を除けば高い峰が沿うように走っており、更に周辺は珊瑚礁に囲まれているため、上陸地点は南東部と中央の鞍部のどちからしかありません。

 更に情報将校の推定で、同地を守るのは実戦経験豊富で装備も優秀な海軍陸戦隊の精鋭がおり、航空偵察で彼らが上陸可能な地点に塹壕を構築し、守備を固めていることが明らかとなります。

※実際には、鈴木正明中佐を指揮官とする下記の編成。
第八十四警備部隊(第八根拠地隊麾下)本部 
約200名
第十四設営隊一部
88名
その他
56名
以上
約350名

 作戦計画者は、これらの情報に基づき、強襲大隊の上陸は中央部のブルービーチと同様に選択された西海岸へ強襲上陸をかけることを決定し、こうしてレイダースはアメリカ群発の水陸両用強襲を敵の攻撃ではなく、自然の要害に対して行うこととなりました。

 部隊は7月23日にニューカレドニアを出発し、フィジーのコロ島で行われた演習に参加します。ともかく、物資、兵員、経験と何から何まで不足していて、作戦立案者たち自ら、正規の作戦名ウォッチタワーではなく、シューストリングスと呼んでいる状況でしたので、この上陸演習では不手際を通り越して大失敗としか言いようの無い結果が出ましたが、事は急を要するために些細なことは無視されました。

 このまま作戦を決行して大丈夫なのかすら、あやふやな中、厳しい訓練を受けたエドソンレイダースの隊員たちは、ヒギンズボートにゴムボートを積み込みました。

 8月7日早朝、機動部隊は鉄底海峡と呼ばれることになる場所へ錨を降ろし、上陸を開始しました。

 ツラギ守備隊は、0412時に第八艦隊司令長官宛に、「敵猛爆中」と最初の緊急電を発信。

 4分後の0416時に、巡洋艦サンファン、駆逐艦モンセンおよびブキャナンによる艦砲射撃が開始。

同日ツラギより発進された緊急電
0425時 敵機動部隊見ユ。
同時刻 敵機動部隊二十隻「ツラギ」ニ来襲、敵空爆中、上陸準備中、救援求ム。
0435時 (浜空司令発)敵空母一、巡洋艦四見ユ。
同時刻 敵はハ「ツラギ」に上陸ヲ開始。
0529時 我艦砲射撃ヲ受ク。
0535時 戦艦一、巡洋艦三、駆逐艦十五、其ノ他輸送船。
同時刻 敵兵力大、最後ノ一兵迄守ル、武運長久ヲ祈ル。
0603時 至近弾、電信室死守ス。(最後の電信)

 ツラギでは、巡洋艦と駆逐艦が島に準備砲撃を加えた後、B中隊とD中隊がヒギンズボートからゴムボートを押し出して乗り込み、第一波として海岸へと向かいます。

 最後の100ヤードは珊瑚礁に阻まれ、彼らは歩くはめになりましたが、翌年のベティオ島とは違い、日本軍からの攻撃はありませんでした。

ルイス
ツラギ島南東部を守るルイス式機関銃

 A中隊とC中隊が即座に彼らの後を追って上陸すると、すぐさま、四個ライフル小隊が島を横断して展開、南東部への前進を開始します。

 これらの動きを見て鈴木中佐は部隊を西海岸の208高地の洞窟陣地に配置し、待ち構える姿勢を整えました。

 上陸部隊は峰の末端で、前進予定線Aに達するまでは、時たま、狙撃を受ける以外の抵抗を受けないまま予定地点に到達し、海軍が艦砲射撃を日本軍の防衛戦に加えたときに予定どおり停止。

 正午前に攻撃は再開され、今度は日本軍による激しい抵抗があり、この戦いで海兵隊員は日本軍の立てこもる洞窟やバンカーを潰すために最適な武器が何かを悟りました。

 アンガス・H・ゴス軍曹と彼の破壊小隊は、先端にTNT爆薬を取り付けた棹を作ると、これによって日本軍の拠点を一つ一つ破壊していきます。

ゴス軍曹
アンガス・H・ゴス軍曹(左の人物)

 1943年、強襲隊員に対し、爆薬の取り扱いを教えているところ。

ゴス軍曹と彼の武器小隊は、日本軍の立てこもる洞窟に対し、棹の先端にTNTを取り付けた武器を考案。ツラギ島の攻略に重要な役割を果たしました。

 一時間の戦闘の後、日本軍は208高地を放棄。281高地に後退。

 日暮れまでに大隊は島の南東部先端の小さな峰-281高地を囲んで防衛線を構築し、既に島の残りの掃討を終えた第5海兵連隊第2大隊もレイダースの背後に陣を張りました。

 日本軍は、2200時頃から、夜襲を開始し、これにより、強襲大隊のA及びC中隊の間に小さいながらも間隙を作ることに成功すると、A中隊前線に対する総攻撃を止め、その間隙を狙って二度目の突撃が行われます。

 しかし、レイダースは前線を維持し続け、日本軍の攻撃は失敗に終わり、その夜の残りの時間は、個人或いは小規模グループによってアメリカ軍の背後に回り込む戦術に切り替えました。

 この作戦は成功し、日本軍は第5海兵連隊第2大隊司令部と応急処置所の双方の襲撃に成功し、強襲部隊司令部の50ヤード以内にまで接近に成功します。

 エドソン中佐は増援部隊の要請を試みますが、通信圏外で失敗。

 それでも、どうにか朝を迎え。その時点で状況は遙かに好転し、0900時に第5海兵連隊の二個中隊が、強襲部隊の前線を声、281高地南へ進みました。

 この時点で、日本軍の残存へ威力は孤立化しており、E中隊の60mm迫撃砲とライフル大隊の81mm迫撃砲による長時間の弾幕射撃の後に最後の敵拠点へ向け、双方の部隊は前進を開始。この際、手榴弾とダイナマイトが日本軍の立てこもる洞窟と防空壕に対する攻撃に使用されました。

 第1強襲大隊は、果敢に戦闘を行いケネス・D・ベイリー少佐はD-Day当日に、機関銃で前進が阻まれるとバンカーを包囲させ、自ら大腿部に被弾しながらも手榴弾を手に接近すると火点に投げ込んで破壊する活躍を見せ、また、指揮官エドソン中佐自身、日本軍の銃弾が飛び交う中、最前線に止まり続け、恐れ知らずの名声を獲得しました。

 これらの活躍により、1500時にエドソン中佐は、島の占領を宣言しますが、戦闘は継続中で、この後も日本軍の夜襲は続き、その度に部隊はそれを退け、この戦いは日本軍が全滅するまで続きました。

 強襲部隊の死傷者は、88名(戦死33名、負傷者55名)。一方、日本軍は(海兵隊公式戦史によれば)捕虜3名を除く350人全員が戦死。

※日本側資料によれば、フロリダ島へ約40名が泳いで脱出したとも伝えられています。2,200名のアメリカ軍に対し、守備側とはいえ350名で立ち向かい、これだけの損害を与えたことになります。

 さて、占領宣言の行われた、その夜、ラバウルから来訪した三川艦隊がソロモンに姿を現しました。第1次ソロモン海戦(サボ島沖海戦)において、アメリカ海軍及びオーストラリア海軍はこてんぱんに叩きのめされます。当時から非難されたように三川提督は、巡洋艦と駆逐艦を葬り去った後に撤退し、輸送船の攻撃を行わなかったのですが、連合軍の方も、このまま止まるか、揚陸を中止するかの決断に迫られ、結局、翌日、ほとんどの輸送船が積み荷を貨物室に半分以上残したままソロモンから撤退しました。

※輸送船団を撃滅しなくても、翌日にはいなくなってしまったのですから、三川提督は目的を達成したと考えていいような気もしますが。

 輸送船団の撤退で、取り残された各上陸部隊の中でも強襲部隊の場合は、一層、深刻でした。まず、計画では島を占領した後、同地に止まらずに直ちに撤退することになっていたため、レイダースは僅かなレーションを持っただけで上陸していたこと、そしてD+1まで唯一使用可能な海岸から、日本軍を一掃することができずに戸惑ったため、積み荷の揚陸作業がほとんど進んでいなかったためです。

 これにより、輸送船団が戻ってくる8月19日まで第1強襲大隊に限らず、第1海兵師団全体が-幸い日本軍の食料を手に入れたものの-僅かな食糧配給で過ごすことになります。

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