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RAIDERS(海兵強襲部隊)

ニュージョージアキャンペーン最終幕:バイロコ

 同時期の第148歩兵連隊第3大隊はと言えば、更にろくでもない状況でした。

 7月6日、第1強襲大隊の進軍ルートから別れ、7月8日にムンダとバイロコを結ぶ山道を遮断する拠点を確保するために移動を開始したのですが、その進軍は地形と相成って血まみれの進軍を彼らに強要したのです。加えて分厚いジャングル、役に立たない地図が唯一の頼みの空中投下による再補給を妨げ、病気と戦闘による死傷者が兵士たちを蝕んでいきました。

 7月13日、リヴァセッジ大佐は第145歩兵連隊第3大隊から増強された分遣中隊を率いていましたが、作戦が上手くいかないために、これ以上、前哨地点の強化や再補給が不可能であるとし、トリリまでの撤退を決定しました。そこで部隊はバイロコへ向けて移動するために回復しつつ、時たま、パトロールを実施してムンダとバイロコ間の日本軍の活動を妨害することとなります。

 7月18日夜明け前に4隻のAPDが第4強襲大隊と補給物資をエノガイまで運んできました。リヴァセッジ大佐は、これにより増援を与えられたのは確かですが、第4強襲大隊の人員はこれまでの戦いによる損失で既に200名を割っていました。このため第1強襲大隊のA及びC中隊を最小限度の人員編成にし、その代わり、B及びDの二個中隊が完全編成にするという処置が行われます。大佐が率いていた第145歩兵連隊第3大隊分遣中隊はライス・アンカレッジに残留。

 一方、バイロコの日本軍は既にアメリカ軍の動きを把握しており、周辺防御陣地の強化を始めていました。これは7月中旬、海兵隊のパトロール部隊により確認されています。

 計画では7月20日朝、第1強襲大隊二個中隊と第4強襲大隊全てがエノガイから、第148歩兵連隊第3大隊がトリリとバイロコを結ぶ道に沿って進軍を開始て二方向から日本軍へ接近。残りの陸軍大隊はトリリを防衛し、第1強襲大隊のA及びC中隊がエノガイを守備すると同時に予備部隊となる。更に大佐は攻撃開始と同時に航空支援を行うよう要請しましたが、これは却下されました。

 7月20日0800時。バイロコへ向かう行動が開始。一時間後第1強襲大隊は日本軍の前哨地点と接触。B中隊とD中隊が即座に前線へと配置につき、日本軍外縁の守備部隊を突破、正午までにグリフィス中佐の部隊は港からちょうど数百ヤード平行に走る珊瑚の丘に設けられた四つの主力防衛戦に到達します。しかし、そこは掩蔽壕が相互に支援し、ココナツの丸太と珊瑚で守られ、それぞれが機関銃などを備えており、ここで第1強襲大隊の進軍は完全に停止させられます。

 リヴァセッジ大佐は、第4強襲大隊を迂回させ、日本軍の側面に回り込ませようとしましたが、彼らもまた日本軍の激しい抵抗に遭遇して前進を止められます。

 強襲部隊は、ゆっくりと前進を続け、正午過ぎには最初の二つを占領し、突破しますが、そこからの前進中に日本軍の迫撃砲により、多数の死傷者を出しました。

 一方、南部から攻める陸軍大隊もバイロコから1,000ヤードの地点で日本軍と接触。しかし、地の利は日本軍にあり、アメリカ軍の方は礁湖の片側と深い沼地以外に兵力を展開する場所が無く、レイダース副官の承認を受けて、陸軍大隊は先頭部隊を後退させるしかなく、その後、81mm迫撃砲を日本軍拠点に撃ち込む方法に切り替えざるを得ませんでした。

 16:00時に南方面の攻撃が停止した報せを受け取ったリヴァセッジ大佐はグリフィス中佐とカーリン中佐に部隊の投入を要請しましたが、強襲部隊は重要な-本来必須の火力支援も無く、弾薬も水も予備部隊も使い果たした上に多数の死傷者を抱え、彼ら負傷者の搬送のために必要な人員確保が精一杯という状態となっていました。

 その時点で、強襲部隊が到達した高地からは僅か数百ヤード先の港が一望できましたが、遙かなる数百ヤードでした。

 その数百ヤードを突破する価値があるか?

 日本軍は火力に勝り、堅牢な陣地を構築している。

 リヴァセッジ大佐は、1700時に答えを出しました。これ以上の継続的な攻撃は兵力の浪費に過ぎない。

 こうして全大隊に対し、夜間に準備を整え、翌朝、エノガイとトリリへ向けて退却する命令が下りました。

 翌7月21日。強襲部隊はドラゴンズ半島を横切って撤退を開始しました。攻撃時には現れなかった航空機が前日のリヴァセッジ大佐の要請に基づいて現れ、バイロコに対して250ソーティに及ぶ出撃を行い撤退を援護します。

 攻撃時には無かった援護を受けたこともあり、日本軍の追跡もなかったものの地形は厳しく、水も不足し、全員が交替で担架を運ぶために進軍は数百ヤードごとに停止するなど撤退の縦列は極めてゆっくりとしたものとなりました。

 しかし、午後になって、ゴムボートが負傷者の大半を回収して後方へ運んで以降は順調となり、全部隊がエノガイとトリリの飛び地へと帰還することができました。

 そこで負傷者を回収するためにPBYが飛来しましたが、離陸後に運悪く二機の零戦に襲われ、一機が損傷してエノガイ湾へ引き返すことを強制されました。

 この作戦におけるアメリカ軍全体の死傷者は戦死49名、負傷者約200名。そして行方不明者2名で、そのほとんどがレイダースの隊員たちでした。

 この作戦失敗と甚大な損失は、一つは兵站と火力の欠如が原因とされ、これを下に、統合参謀本部では、

「軽武装の兵士たちでは重自動火器、迫撃砲、そして重砲によって防御された固定地点への攻撃は期待できない」

 という見解を述べました。


60mm迫撃砲を撃つレイダース隊員
これ以上の重火器を持たない強襲大隊ではバイロコ攻略は不可能だったと結論されました。

 そしてもう一つの失敗の原因が、奇襲が失敗したこと。強襲部隊はバイロコへ攻略を行う際に、海からの攻撃を想定して守りを固めた結果、陸路から攻略されたエノガイと同様の方法を用いて接近したのですが、エノガイ陥落によってバイロコの駐屯部隊は次は自分たちであることを悟り、アメリカ軍が行動を開始した時点で既に海路からの攻撃ではなく、陸路からの攻撃に対する備えを万全にしていました。

 これにより、奇襲の効果は薄れ、損害さえ度外視すれば攻略は可能でしたが、バイロコにそこまでの価値はありませんでした。

 第1強襲連隊と各大隊は、この作戦以降は、時たま、日本軍航空機の攻撃を受け、時たま、バイロコに対してパトロールを派遣する以外の活動は行わずに7月の残りを過ごします。

 8月になると強襲部隊はムンダ-バイロコ間を結ぶ地点に新しい防御陣地を構築。8月9日に、四日前にムンダ飛行場を陥落させた南部上陸グループの陸軍部隊と接触しました。

 8月の終わり。陸軍の二個大隊がバイロコへ向けて慎重に前進し、時折、孤立した日本軍哨戒所と交戦しつつ前進。しかし、日本軍主力部隊は既に海路で撤退した後で、陸軍部隊は8月24日に港を占領しました。

 一方で強襲連隊は8月28日に輸送船へ乗り込み、ガダルカナルへ出航。

 この一連の軍事行動に参加した各強襲大隊は、戦闘によって25パーセント以上の死傷者を出し、更に大多数が疾病を抱えた状態となり、撤退の時点で第1強襲大隊の実働人員は245名。第4強襲大隊に至っては154名だけとなっていました。

 こうして高く付いたニュージョージアキャンペーンは幕を閉じました。

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