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RAIDERS(海兵強襲部隊)

ニュージョージアキャンペーン第1幕:ヴィルを攻略せよ

 ラッセルで第3強襲大隊が自然を相手に戦っている間、ハルゼー提督は次の作戦準備を開始していました。これを受けて、ラッセル島の偵察が上手く行ったことに味を占めた海兵隊は2月末に海軍大尉とレイダース6名をニュージョージア島ロヴィアナ礁湖に上陸させ、港湾監視員と現地人の支援の下、水路の状態、日本軍の守備位置、そして地形についての情報収集を三週間行いました。

 3月21日、コンソリードテッド・カタリナPBY飛行艇で4名のレイダースパトロール部隊がニュージョージア島のセギポイントに上陸し、そこからコロムヴァンガラ、ヴァングルを偵察するために島民を案内役にカヌーに乗って扇状に展開。別なグループは、次の三ヶ月間に、これらの地域とレンドヴァの偵察を行いました。こうした偵察により、上陸計画に必要な情報を収集した後、最終グループがガイドを務めるために指定された海岸近くに小規模の分遣隊を配置しました。

 一方、日本軍は5月から6月にかけて、中央ソロモン諸島の守備部隊の増強を開始。しかし、11,000名では、(アメリカ軍から言わせれば)領域内に多数ある大きな島全ての地上基地を守るには著しく数が不足しおり、こうしてハルゼーは、全ての防備が手薄、或いは全く無い目標に対する襲撃を自由に選べる柔軟性を得ることとなりました。

 ニュージョージア島攻略D-Dayに、東部上陸部隊(第4強襲大隊及び陸軍第103歩兵連隊により構成)はウィッカム・アンカレッジ、セギポイントそしてヴィル港の占拠。北部上陸集団(第1強襲連隊司令部、第1強襲大隊、そして二個陸軍大隊)はライス・アンカレッジに同時に向かい、そこからの艀によって増援部隊と補給物資の運搬を行う日本軍を妨害するためにエノガイ入り江とバリオコ港を確保するために陸路で進軍。作戦の最終段階では、レンドヴァの北端とその遠隔の島々の占領を南部上陸集団が実施するとされ、このD+4に実施する作戦では第43歩兵師団が、ニュージョージア島の無防備なザナナとピアラカの海岸も含め海岸から海岸へと攻撃を行うこととされました。

 また、これら陸路を進む陸軍連隊の支援はセギポイントからの航空支援と、レンドヴァ橋頭堡の砲兵隊により行われることも決まります。

 そして、作戦決行日D-Dayは6月30日に決定しました。

 準備を進めている間、日本軍もただ待っていた訳ではなく、6月中にニュージョージア島の防備を固めるために増援部隊の一部を使うと共に、それらの部隊によってセギ近郊で作戦中の現地人部隊の掃討を実施するためにヴィルまで向かうように大隊に命令を下していました。

 当時、ソロモン島民たちはドナルド・G・ケネディ港湾監視員の指揮下で日本軍の前哨部隊等の小規模部隊に対する攻撃を繰り返すゲリラ活動を行っていましたが、日本軍の大隊がセギポイントに現れるとケネディは支援の要請を行いました。

 こうしてことは計画どおりに進まなくなりました。

 ケネディの支援要請を受けて、ターナー提督は第4強襲大隊長カーリン中佐に命じ、彼の第4強襲大隊の半数を即座にガダルカナルからセギまで移動させました。派遣されたのはO及びP中隊で命令を受けたその日にAPDへ乗り込み、翌朝に抵抗を受けずに上陸を果たし、6月22日には陸軍二個中隊と飛行場建設部隊の先遣隊が拠点強化のために上陸しました。

 こうして予定より早くヴィル攻略が始まったのですが、この港は3インチ沿岸砲が据え付けられた高い崖に入り口の両側面を挟まれ、更に13mm機関砲を含めた多数の機関銃による陣地が設けられていました。しかし、守備の大半は海からの攻撃に備えていたため、アメリカ軍は-アラビアのロレンスよろしく-陸路を迅速に移動し、港に背後から接近することに決めました。とはいえ、その道程も山道という困難さもあって容易ではありませんでしたが。

 偵察を行い司令部と協議した結果、カーリン中佐は強襲部隊をレギまでゴムボートで運び、そこから残りの行程を始めることにしました。ヴィル襲撃は二重包囲網によって行うとし、タスクフォースBと命名されたデヴィロ・W・ブラウン中尉の第3小隊が港の東側にあるトムベの守りの薄い村の占拠を受け持ちます。他の部隊は反対側の海岸で、テテマラの日本軍主力防御陣地を攻撃するとされ、こうして安全が確保されたと同時に陸軍歩兵二個中隊がAPDによって揚陸されたうえで、D-Day本来の予定時刻に開始するはずでした。

 6月27日の夜、強襲大隊はセギを出発し、ちょうど真夜中過ぎにレギに上陸。数時間後に細い山道上の進軍を開始します。P中隊が先導に立ち、O中隊がそれに続き、現地人スカウトが案内役と斥候を務めました。

 しかし、沼地で進路を見失いほとんど進めないまま、三時間が過ぎた頃、縦列の終端で銃声が鳴り響きました(上の図右のX印の地点)。地域内を哨戒していた日本軍のパトロール部隊の一つと遭遇したためですが、レイダースは日本軍4名を殺害し、自分たちは死傷者を出さずに追い払うことに成功。しかし、約一時間後に約20名の-おそらくは先程と同部隊の-日本軍部隊が小道からはい上がってくると後衛側面に向かって攻撃を開始。

 一時間続いた銃撃戦の後、日本軍は戦闘を打ち切りました。この戦闘では双方共に死傷者を出すことはありませんでしたが、レイダースの後衛5人が部隊とはぐれ、実質的に失われた状態になりました(彼らは後にセギに無事帰還しています)。

 午後遅く、レイダースはモヒ河を渡り、その晩の防衛線の準備を行いましたが、「ろくでもない地形と二度の強制された停止」によって、カーリン中佐は自分たちがD-Dayまでにヴィルに到達することが不可能だと悟らせました。しかし、無線機全てが既に使用不可能となっており、このため第4強襲大隊の攻撃は一日遅れるという伝言を現地人にたくし、ケネディのもとへと伝令に走らせました。

 その夜、雨が降り、惨めな気分で迎えた朝、海兵隊は行動を再開し、午前中にチョウイ河に到着しました。渡河を開始し、後衛部隊が横断を開始すると大隊の側面300ヤード先にある丘にいた日本軍部隊が機関銃とライフルによる激しい攻撃を始め、カーリン中佐はまたもや部隊を停止させ、事態の把握に努めるしかありませんでした。

 戦闘開始から約三時間後、どうも後衛部隊が別な日本軍の小部隊を誘い込むことに成功していたことが判明し、中佐は残りの部隊をその方向へと進めました。

 レイダースは蛇行したチョウイ河を二回以上渡り、1800時、日が暮れたために部隊は停止。2100時には第3小隊が彼らの防衛線に到着します。第3小隊は既に5名が戦死し、別な一人が負傷する一方で、日本軍には18名の戦死者を与えたとしています。


いくつもの河を渡る強襲部隊。
先頭と左から三番目の隊員が持つのが悪名高いボイスライフル

 こういう状況のため、既にヴィルの日本軍は海兵隊の存在に気付いている可能性が高いことと現地人スカウトが、港の北の地域は通過できないと主張したためにカーリン中佐は、日本軍が東からの攻撃に備えてトムベを増強すると考え、第3小隊の損失を考慮した攻撃計画を立てます。

 これによりアンソニー・"コールドスティール"ウォーカー大尉が彼のP中隊二個小隊をトムベへ向けて先行することとなりましたが、地形と連絡手段の困難さが、包囲網の左右の調整は不可能かもしれないため、ウォーカー大尉は、7月1日の夜明けに大尉がいつ攻撃しようが自由となりました。

 こうした最終的な計画により、強襲大隊は、またもや夜になって降り出した雨の中、配置に付きました。

 翌朝早く大隊は進軍を再開し、ウォーカー大尉の部隊はトムベへの近道を取るために脇へとそれていきました。

 主力部隊はその日の進路で、幾つもの丘、更にヴィル河とチタ河を渡り、全員が-重火器の弾薬を運搬していた現地人も含め、疲労困憊の様相を帯びてきました。

 大隊は薄明かりの中、マンゴーの土手を越え、流れが速いだけではなく、最も浅いところでも深さ6フィートの幅が広い河を人間の鎖を組んで渡りました。どうにか事故もなく河を越えると丘が姿を消した代わりに腰まで浸かるマングローブの沼地が現れました。レイダースは真っ暗闇の中、水、木の根、そして泥に足を取られながら前進を続けていきます。この際、現地人が腐って発光するようになったジャングルの植物を背中につけるように提案し、少なくとも各隊員が前方を歩く仲間を見失うことは避けられました。

 沼地が終わると、また丘が現れ、2分の1マイルの登攀を行ってから、部隊は休息し、攻撃準備を整えました。

 そして、また降り出した雨と険しい坂によって前進を阻まれながらも、大隊は最終的に平坦な土地へと夕暮れまでにどうにか到着し、夜明けまで待機しました。

 カーリン中佐たちが悪路に四苦八苦している頃、彼らレイダースが知らない間にヴィルを占領するための襲撃が決行されていました。地上攻撃の日を改めるようにというカーリン中佐の伝言を知っていながら、海軍指揮官は6月30日にAPD艦隊を港へと接近させましたが、日本軍が即座に3インチ砲によって反撃し、あっさりと門前払いを受けました。この日、ヴィルの日本軍はアメリカ軍の上陸を阻止したと報告しましたが、一方でアメリカ軍司令部ではカーリン中佐との連絡が取れなくなっていたため、APDによって陸軍部隊をレイダースの目指す地点の側に上陸させる新たな作戦を立てていました。この作戦は困難に直面しながら陸路を移動する海兵隊を支援することが目的でした。

 7月1日早朝、強襲部隊の両翼が移動を開始し、ウォーカー大尉の分遣隊は発見されないままトムベ郊外に到達して、配置に付くと小さな村へ銃撃を開始し、一気に前進。この最初の攻撃で日本軍の大半が戦死し、二つの海兵小隊は一人も死傷者を出さずに村を確保し、そこで13名の日本兵の遺体を数えました。

 この戦闘が終わった直後に6機のアメリカ軍機が港上空に現れました。実のところ、当初計画には無かった出来事でしたが、司令部の方では強襲部隊の攻撃が遅れると見越して計画を柔軟に変更していました。予定外で協調性も無い航空支援は下手をすると大惨事を招く可能性もありましたが、実際には上手く行き、航空機はトムベを無視してテテマラへ攻撃を集中させ、これにより日本軍は防御陣地の幾つか放棄して内陸へ退きました。

 撤退した彼らは、不運にもそのままレイダースが移動してくる通り道の中へと入り込み、これによりカーリン中佐のいた地点は爆撃直後に日本軍と接触することとなりました。O中隊が大隊を先導し、素早く道を跨いで設けた前線に二個小隊を配置しつつ、レイダースは前進を続け、日本軍の前哨部隊を壊滅させます。しかし、今度は逆に日本軍主力部隊と遭遇。断続的な豪雨とともに部隊の前進は次第に、そして確実に遅くなっていきました。

 O中隊の予備小隊が左翼で配置に付き、日本軍の反撃に備える間に右翼の部隊が港を見下ろせる高所で停止するまで日本軍を後退させ、カーリン中佐は前線にP中隊のマシンガンを配置し、そこから右翼に残りの小隊を配置させ、爆破班が日本軍の機関銃拠点に対処するために前進しました。

 午後半ば、一握りの日本軍が海兵隊左翼に対し、短時間の万歳突撃を敢行、この奮闘を撃退したカーリン中佐は敵の左翼に対し、P中隊マルコム・N・マッカーシー中尉の小隊を配置に付かせる一方で、O中隊に火力の基盤を起きました。マッカーシーの小隊は素早く3インチ砲台を突破し、日本軍の守備部隊が北西に後退するにつれ、まもなく包囲を完了しました。

 この戦闘で、日本軍は48名が戦死し、強襲部隊は16丁の機関銃と一握りの重火器を鹵獲。そして海兵隊の損失は8名が戦死、15名の負傷でした。

 第4強襲大隊は、ヴィルの守りを固めると次の数日間、周辺地域のパトロールを行いました。

 7月4日、トムベに陸軍二個中隊がレギ近郊に上陸し、7月9日には続々と海軍は陸軍部隊を上陸させ、そして任務を終えた強襲部隊はガダルカナル行きのLCIへ乗り込みました。

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