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RAIDERS(海兵強襲部隊)

強襲部隊の研ぎ直し:Reshaping the Raiders.


1943年ニューカレドニアにてヴァンデグリフト少将の閲兵を受ける第2強襲大隊
 少将(写真右側中央)の左に写るのが、2代目第2強襲大隊長としてカールソン中佐の"ガン・ホー"実験にとどめを刺したシャプリー中佐。

 1942年10月、ニューカレドニアのキャンプ・ベイリーに帰還した第1強襲大隊は川を見下ろす山腹にある敷地にテントを張り、クリスマス休暇の一ヶ月間をニュージーランドで過ごしました。

 第2強襲大隊も12月15日にエスピリッツ・サントのキャンプ・ガン・ホーに帰還し、川岸に沿った椰子の木立にテントを張り直し、1943年2月に交代要員が到着すると彼らも二週間の休暇のためにニュージーランドへと向かいました。

 1942年9月から、ターナー提督はレイダースに新たに一個大隊を加えるために、各海兵連隊に圧力を加えている最中で、見かねたホルコム将軍はニミッツ提督の指示を受けて、その内政干渉を辞めさせました。とはいえ、ホルコム将軍は第3及び第4強襲大隊の創設を許可していました。

 1942年9月20日、サモアにて第3強襲大隊が誕生し、指揮官には1920年と1924年におけるオリンピック砲丸投げ選手ハリー・B・"ハリー・ザ・ホース"リヴァセッジ中佐が指揮官として選ばれ、同大隊はサモアで、以前に第1と第2大隊から、僅かな転属を受け入れると同時に、その第1と第2大隊がやったように同地の海兵隊部隊から志願者を引き抜きました。

リヴァセッジ大佐
ハリー・B・"ハリー・ザ・ホース"リヴァセッジ大佐

 1942年9月に第3強襲大隊長となり、1943年3月15日に初代第1強襲連隊長に就任。 1920年と1924年のオリンピック砲丸投げ選手で、後に第5海兵師団第28海兵連隊長として摺鉢山に星条旗を掲げるように命令した人物。

 写真は1943年11月10日の海兵隊創立168周年式典で、強襲部隊のためにケーキカットを行うところ。

 更に1942年10月23日に南カリフォルニアにて、レイダース編成以前から深い関わりを持っているルーズベルト少佐を指揮官とする第4強襲大隊が創設されました。

 両大隊は1943年2月にエスピリッツ・サントに到着することになります。

 この時点で、強襲部隊には、共通した組織表は存在していなかったために、第1大隊長のグリフィス中佐は4人の隊員で構成される射撃チーム構想を採用したものの、エドソン大佐が確立させた四個ライフル中隊と一個武器中隊編成を維持し、第2大隊もカールソン中佐の定めた六個ライフル中隊編成(一個ライフル中隊は二個ライフル小隊と一個武器小隊によって構成)を維持。第3と第4は四個ライフル中隊に武器中隊一個でしたが、ルーズベルト少佐の第4大隊は破壊小隊一個と整備中隊一個も保有していました。

 第2強襲大隊創立記念日にカールソンは、"ガン・ホー"ミーティングにおいて演説すると共に、プレスリリースも行い、海兵強襲部隊創立記念日の制定と、大隊の最初の一年間の活動に対する批評も行いました。これによれば、将校と部下が"ガン・ホー"の哲学を学び、それを実行しようと努力したときに、彼自身の士気がときたま低調だったことを指摘し、

「マキンは、生存と訓練の我々の手段の物語を世界にもたらした。おそらくこの事実は襲撃の物質的価値より大きな重要性があった」

ルーズベルト少佐
ジェームズ・ルーズベルト少佐

 レイダース計画の提唱者の一人で、第2強襲大隊の副官としてマキン上陸、ガダルカナルの長距離パトロールに参加した古強者。

 しかし、大統領の息子という立場故に、前線勤務を望む本人と平等に扱おうとする海兵隊の意志とは裏腹に、特別扱いしたがる軍上層部の思惑で念願の第一線部隊の指揮官を僅か一ヶ月で取り上げられる。

  ルーズベルト少佐の着用しているサスペンダーがM1941ではなく、陸軍のM1936であることに注目。フック式のM1941サスペンダーは不評で、当時、海兵隊では、このサスペンダーを大量に購入して支給していました。

 戦後は下院議員として活躍。

 と精神力が、部隊の戦術的成功に影響を与えなかったと述べました。しかし、カールソン中佐が強襲部隊に影響力を持つ時間は、それほど残されていませんでした。

 1943年3月15日に強襲大隊を統括する第1強襲連隊(コードネーム:ベルモント)が創設され、リヴァセッジ大佐が連隊長に任命されました。一週間後の22日には、カールソン中佐の後任としてアラン・シャプリー中佐が第2強襲大隊長として着任。カールソン中佐は、当初は連隊の幹部将校として残っていましたが、マラリアと黄疸で入院し、まもなく本国送還となりました。

※シャプリー中佐は、1941年12月7日-つまり、真珠湾攻撃の際に戦艦アリゾナ(BB39)に搭乗しており、そこでの活躍により海軍十字勲章を授与されています。

 更に一ヶ月後、強襲部隊を考案し、自ら育て上げてきたルーズベルト中佐(10月30日昇進)も第4強襲大隊を去り、マイケル・S・カーリン中佐が後任となりました。

 シャプリー中佐もカーリン中佐も、いわるゆ伝統的視点を持つ将校であり、特にシャプリー中佐は、マキン襲撃を大失敗と見なし、第2大隊の精神であった"ガン・ホー"にも感心がなく、第2強襲大隊を通常大隊に編成替えすることを躊躇ず、これによりカールソン中佐の"ガン・ホー"実験は終焉を迎えました。

 こうして第1強襲連隊はエドソン大佐とカールソン中佐のアイデアをまとめあげ、各大隊を通常の組織編成に変えました。とはいえ、この時点で海兵隊の歩兵部隊自体がエドソン大佐の構想を下に再編成が行われていましたが。

 このため、各強襲大隊は共通して四個ライフル中隊(三個ライフル小隊と一個武器小隊で構成)と一個武器中隊という編成になりました。それでも、高度な訓練を積んだ彼らが、前線大隊の代わりを務める、或いは特殊任務を達成するための軽装備部隊といった従来の戦術概念というエドソン大佐の構想の痕跡は残していました。

 しかし、再編成された第1強襲連隊は、以前のようなゲリラ部隊ではありませんでした。これはガダルカナルの戦いにおいて、太平洋戦争が小規模部隊の撹乱戦術ではなく、それまで海兵隊が培ってきた敵部隊によって狭い島に築かれた堅固な防御戦を攻略する水陸両用作戦が必要とされたためで、この問題に対する解答がゲリラ戦術では得られなかったのが理由とされています。

 そして、この頃、海兵隊には、水陸両用偵察大隊という新たな部隊が編成されていました。

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