RAIDERS(海兵強襲部隊)
マタニカウの敗北
エドソンリッジの戦い後、55%の損耗率に達した空挺部隊は9月17日、第7海兵連隊を運んできた船団に乗り込みガダルカナルからニューカレドニアへと帰還していきました。
第1強襲大隊は33%の死傷者を出していたもののガダルカナルに残留し、彼らには貴重な短い休息が与えられます。
エドソンリッジの戦いのちょうど六日後。ヴァンデグリフト少将はエドソンリッジの南で偵察を行い、全日本軍の落伍者を掃討するよう命令を下します。
強襲大隊は、第7海兵連隊が強固に守りを固めるかつての自分たちの陣地を通り、日本軍の遺棄したトラック、武器そして遺体といった痕跡をたどって追跡していきます。
今回の追跡で、エドソン中佐は、抵抗の兆候が僅かにあっても砲撃と隊員たちの持つ武器によって自由に反撃していいと許可を出していました。この追跡劇でレイダースは3人の負傷者を出しただけで、解体された曲射砲一門を鹵獲し、更に日本軍19名を殺害しました。
ところが、この作戦の最大の危機は最後の最後で訪れました。戦場に到着したばかりの新参第7海兵連隊は、帰還してきたレイダースを日本軍と見誤り、一斉射撃を開始してしまったのです。幸い新参故の射撃の下手さか、弾は誰にも当たりませんでしたが。
この日、ヴァンデグリフト少将は、何人か余分な大佐を解任し、師団の幹部クラスの再編成を行いました。これにより、第1強襲大隊長"レッドマイク"エドソン中佐は、第5海兵連隊長となり、強襲大隊の指揮はグリフィス少佐に委ねられます。
エドソン中佐は強襲大隊を去ったとはいえ、大隊に対する影響まで無くなった訳ではありませんでした。
9月23日。新参第7海兵連隊第1大隊を率いるルイス・B・"チェスター"プラー中佐はマタニカウ河近郊から日本軍を掃討する作戦のために防衛陣地を後にしました。
この作戦は一端完了しますが、この際、日本軍が舞い戻ることを阻止し、それにより、空港を日本軍砲兵部隊の射程外へ置くためにコクムボナ近郊の前哨地点にレイダースを配置されることが求められました。
24日に第1大隊は日本軍部隊を奇襲して追い出すことに成功しますが、この戦いで7人が戦死し、25名が負傷。師団はプラー中佐が大隊のほとんどを死傷者の搬出のために使わなければならなくなったために第5海兵連隊第2大隊を救援部隊として送り込みました。
プラー中佐は手元にライフル中隊を残して第2大隊と残留し、この合同部隊は9月26日にマタニカウに到着。東の土手の下方へ向かって、河口の砂州を渡ろうとした時、日本軍の中隊が激しい銃撃を浴びせて、これを阻止し、彼らを後退させました。
同時に別な中隊が単独で、上流に向かい、そこから丸木橋西端の防御陣地へ移動中でしたが、海兵隊側はこれを察知していませんでした。
午後、ヴァンデグリフト少将はエドソン中佐に、作戦指揮を命じ、支援部隊としてレイダースを預けました。
エドソン中佐とプラー中佐は、その夜共同で新たな計画を立案。
計画は、朝、レイダースは上流へと移動して橋を渡り、河口側面を占領するために戻ってくるだろう日本軍を待ち伏せする。
|
|||||||
9/26-9/27にかけての動き |
第5海兵連隊第2大隊は日本軍を罠に封じ込めることを確実にするため、砂州の向こう側から攻勢をかけて押し出し、最終的に第7海兵連隊第1大隊が防衛線内に死傷者を撤退させた後に残された退却路を閉じ、クルツポイントに水陸両用上陸を果たす。
この意欲的な計画は師団から承認されました。結果的には不幸にも。
夜。天候は悪化して豪雨となりました。第2大隊は河口において攻撃を開始しますが、日本軍の激しい抵抗によって全く前進できず、プラー中佐の一個中隊による増強を受けて川をさかのぼったレイダースも気が付けば、増水した川の満々たる水と急勾配の丘の間の砂州で自ら封じ込められている始末で、更に日本軍は、この地点に機関銃と迫撃砲の照準を合わせていました。
エドソンリッジで、
「お前らはここで死ね」
と言って部下を鼓舞したベイリー少佐は、この危機的状況でも同様に彼特有の流儀で、部下を鼓舞し、致命傷を負うまで襲撃の先導を行いました。
※少佐はエドソンリッジの戦いにおいて名誉勲章。
グリフィス少佐はC中隊に丘を登って側面を迂回して日本軍に迫るように命じますが、この部隊の接近は察知されて阻止されることになります。
この戦闘の最中、大隊長グリフィス少佐は、直接戦闘を観測するために稜線に立ちます。
その瞬間、日本軍の狙撃兵が発砲。グリフィス少佐の肩に見事に命中させます。
外部からの火力支援を受けられないレイダースは、塹壕に立てこもる日本軍によって完全に前進を阻止され、更に伝達手段が限定されていたことが事態の悪化に拍車をかけます。
エドソン中佐はレイダースからの連絡を誤解し、部隊が川の向こう側にいると判断しました。中佐は増強された迫撃砲と37mm対戦車砲の支援と共に別な襲撃のため第7海兵連隊第2大隊の上陸を行いますが、彼らは先人たちの試みと同じ運命に陥りました。
第7海兵連隊第1大隊も、日本軍の後方に上陸するや否や、そこに野営していた日本軍の大規模部隊に包囲され、その上、通信機を持ってこなかったために師団に自分たちの苦境を知らせることができず、結局、支援航空機に航空パネルを使って信号を送ってやっとどういう状況に陥っているかを知らせることができるというていたらくでした。
この状況がプラー中佐に届いた時、中佐は第2大隊から圧力を反らせるための攻撃を再開することを望みましたが、エドソン中佐は正面攻撃には望みがないため、これ以上の死傷者を出すわけにはいかないとこれを拒絶しました。
この包囲された部隊は、最後には腕木信号でメッセージを伝え(いつの時代の戦争なのやら……)、海軍の砲撃による支援によって脱出することになります。
エドソン中佐は、1/7の撤退後、レイダースに、双方の部隊が師団の防衛線まで後退するのを待って第5海兵連隊第2大隊と合流するため河口まで退却するよう命じました。
このマタニカウを巡る戦いで、海兵隊側は67名が戦死し、125名が負傷。この中止された戦いは、ガダルカナルキャンペーンにおける海兵隊が唯一経験する敗北となりました。
丸一日続いた戦闘で、レイダースの損害は戦死2名と負傷者11名と軽微でしたが、死者の中にはベイリー少佐、負傷者の中には肩を狙撃された大隊長グリフィス少佐が含まれ、大隊の指揮はアイラ・J・"ジェイク"アーウィン大尉が執っている状況でした。
この時点で、強襲大隊はガダルカナルにいるどの部隊よりも実戦経験豊富な部隊になっていましたが、2ヶ月に及ぶ戦闘行動に加え、多数の隊員がマラリアなどの風土病に冒され、闘病中と大隊の戦闘能力は大幅に減少していました。
この自分たちの姿を、一人のレイダースは後に、
「多くが病気持ちで、汚れきった海兵隊の粗末な群れは見付けにくかっただろう」
と回想し、既にガダルカナルを後にした第1空挺大隊のように自分たちも島を離れるだろうという噂が囁かれ始めました。
が、もう一つの戦いが第1強襲大隊には残されていました。
10月初旬。情報によって日本軍がマタニカウの西で、新たな攻撃準備を行っていることが察知されました。
師団司令部は川の向こう岸を確実に確保するために先制攻撃を決定。作戦計画自体は、前回を思い出させる-縁起のいい思い出ではない-もので、第5海兵連隊の二個大隊が沿岸路を玖珂ってマタニカウ近くの土手を確保し、日本軍の注意を引き付ける。
他の三個大隊はマタニカウ河を渡って、北-海に向けて進軍。彼らが川の向こう側を掃討すると同時にコクムボナに守備部隊を配置し、一帯における日本軍の展開を妨害。
前回の失敗で懲りているのか、今回は突撃部隊は増強され、更に十分な火力支援を提供する手筈が整えられました。
翌朝、攻撃に着手する準備が整えられ、10月7日には各部隊は所定の配置につく予定でした。
緑は10月7日 青は10月9日 |
|
10/7-10/9にかけての動き |
しかし、10月7日に前進位置についた第5海兵連隊は、砂州から内陸の川近郊で塹壕を掘る日本軍中隊と遭遇しました。
一方、エドソン中佐の第2大隊は更に離れた上流で配置につき、付近の安全を確保することに成功していましたが、第3大隊の方は入念に構築された防御陣地に遭遇し、突破を阻止されていました。
エドソン中佐はL中隊に対処を命じ、師団に無線連絡で連隊予備の再編成を行うための増援部隊を要求。
これにより、師団は第1強襲大隊A中隊に合図を送り、部隊はレッドマイクの司令部の隣に野営するため、海岸路を下り始めました。
夜。川に接近した日本軍が第5海兵連隊第3大隊の前線配置を徹底的に調べたうえで攻撃し、砂州に最も近い中隊を叩きのめしました。
10月8日早朝、エドソン中佐は日本軍拠点の弱体化のためにA中隊のレイダースを使うことを決定。エドソン中佐がA中隊の中隊長から引き抜いて、第5海兵連隊の作戦参謀にしたルイス・W・ウォルト少佐が作戦責任者に選ばれました。
レイダースは幾つかの前哨地点へ向かいはしたものの巧妙に偽装された日本軍拠点からの銃撃に進出を阻まれ、更に夜から豪雨となり、それが日中まで降り続いたために師団は川の横断を24時間延期。このため、ヴァンデグリフト少将は西の土手に対する包囲網と防衛線の回復という本来の計画の変更を決めました。
こうした状況の変化と、実際にA中隊の苦境を目の当たりにしたエドソン中佐は拠点に対する攻撃を中止させ、第3大隊の大部分で包囲網を敷き、A中隊は右翼の守りにつきました。
この際の陣形は左翼が第3大隊と連結、南が掩蔽壕の複合体に、西は砂場の中央、北は海岸、というU字型の馬蹄状となっていました。更に前線を増強するために迫撃砲要員と中隊司令部要員が左翼で配置に付きました。レイダースでは、河口の向こう側にいる日本軍の攻撃が包囲された橋頭堡に行われると予測し、そのため海兵隊では砂州の味方前線の終端に有刺鉄線を張り巡らせ、強襲大隊の残りは上流へ進み、予備部隊となりました。
夕闇が訪れた直後、日本軍は前線を突破するために突如として出現し、A中隊に奇襲をかけて左翼を突破。一部が後背からレイダースの前線中央を攻撃しました。
しかし、この攻撃は続かず、この狭い区域から脱出しようとした彼らは鉄条網に飛び込んでしまい、そこに配置に付いていた海兵隊からの掃射によってなぎ倒され、この間にレイダー中隊の指揮官である中尉は我に返り、海岸路に沿って新たな前線を構築しようと試みました。朝までに海兵隊のたこつぼに難を逃れた一握りの日本軍が現れて若干の戦いが生じました。
また、レイダースのC中隊が放棄された日本軍の拠点を占拠するために登ってくると残っていた日本兵三名を殺害します。そこで彼らは、日本軍の拠点が地下司令部まで繋がるトンネルによって、各塹壕と掩蔽壕が巧妙に入り組んで構築されていることを発見しました。
この戦いで、海兵隊は戦場と鉄条網で59体の遺体を確認。海兵隊側は12名が戦死し、22名が負傷しています。
そして、レイダースは、戦死者を一人追加しました。
ウォルター・J・バーク伍長。エドソン中佐の下で長年伝令を務め、中佐が第5海兵連隊に転出した際にも彼を伴っていましたが、10月9日、川に沿って伝令に走っている際、日本軍の機銃掃射がバーク伍長を捉え、ガダルカナルにおける第1強襲大隊最後の戦死者となりました。
10月13日に到着した輸送船団は陸軍第164歩兵連隊を連れてきました。船団は第164歩兵連隊を降ろすと、今度は第1強襲部隊の隊員たちを乗せてニューカレドニアへと出発します。
このとき、レイダースの実働兵員はガダルカナルに到着した時の規模の4分の1-僅か200名にまで減少していました。
こうして第1強襲大隊は不朽の伝説を築き上げてガダルカナルを後にし、ニューカレドニアで再編成に入ることとなります。
そして、ガダルカナルには、レイダースの伝説の一章を新たに書き加えるべく第2強襲大隊カールソンレイダースが到着します。