RAIDERS(海兵強襲部隊)
遺産
最後の戦場となったブーゲンビルに建てられた「海兵ドライブハイウェイ」看板
第2強襲連隊がブーゲンビルで戦っている間に、ニュージョージアキャンペーンに参加した各強襲部隊は再編成を受けた上で、訓練を行っていました。第1と第4大隊はその後ニューカレドニアへ帰還し、ベースキャンプに戻るとニュージーランドで一ヶ月の休暇を楽しみました。
一方、上層部の人事異動も行われ、連隊長リヴァセッジ大佐は指揮権を後任のサミュエル・D・プラー中佐(チェスター・プラー大佐の弟)に引き継ぎました。連隊は1月21日に、再度出発すると24日にガダルカナルに到着。
ブーゲンビルの戦いを終えた第2強襲連隊は、そこで合流すると共に僅か一ヶ月の歴史を終えて第1強襲連隊に吸収されると共に、再び唯一の強襲連隊となった第1連隊の指揮官はシャプリー大佐が務め、プラー中佐は副連隊長となりました。
このように再編成が行われたにもかかわらず、結局、ブーゲンビルがレイダースの最後の戦場でした。
1943年後半の時点で、海兵隊は既に四個師団へと成長し、また更に二個師団の増設が計画されていました。しかし、約50万の人員を要していたものの、その頃、既に大西洋でも反撃が開始されていたために新たな師団のための人員が確保できるかは疑問視されていました。
これ以上の人材確保が見込めないうえに損耗した人員の補充も行わなければならないとなれば人材の枯渇は目に見えており、海兵隊はそのための唯一の手段として既存の部隊-防衛大隊、空挺大隊、阻塞気球分遣隊、強襲大隊、そして他多数の専門部隊-を一つにまとめ始める決定をくだし、既に一部で吸収合併が始まっていました。
また、1943年11月24日のガルヴァニック作戦以降、防衛から一転し、攻勢に回った戦局では、1942年代のように日本軍の占領する地域深くに潜入し、攪乱攻撃を行う必要性も薄れ、しかも、実際にレイダースが実施したのはマキン強襲の一つだけで、その作戦自体も完全に成功したとは言い難い結果を生んでいました。
ガルヴァニック作戦の教訓から、水陸両用車や支援砲撃の改善が行われた結果、黎明期にホランド・スミス将軍が提唱した軽突撃部隊の必要性も無くなり、偵察任務は同様の理論で創設されていた水陸両用偵察大隊(現在のフォースリーコンの原形)が既に活動していました。更にこれらの事情から強襲部隊に与えられた任務も一般部隊と大差ないもので、これはブーゲンビルやパブブで彼らの訓練と能力が浪費されたことを意味すると考えられる要因ともなります。
また、軽歩兵であるレイダースは、それ故に迅速に行動することができたものの逆にそれが前線部隊の火力不足を招き、バリオコにおける失敗もそこに一部の原因があるとされました。
結局のところ、ガルヴァニック作戦以降、大規模な水陸両用作戦を行う状況下で巧妙に守られた島に対する軽歩兵部隊の強襲攻撃は必要と見なされず、加えてエリート部隊の中にエリート部隊が存在するという制度上の反対もありました。この原因となったのは、レイダース創設当初の二つの大隊に与えられた人員と装備の優先権で、この頃から優秀な人材と貴重な物資を引き抜く強襲部隊に対し、他の部隊からは敵意を抱かれており、攻勢に転じた戦局で、海兵隊組織の詳細に部外者からの干渉も生じ始めていました。
1943年12月中旬の時点で、既に、
「精選された部隊が(中略)他の部隊の士気にとって有害であることがあった」
という研究結果が出され、一週間後には海軍の作戦スタッフ主任の海兵隊将校からも、特定の作戦のために特定の訓練を受けた部隊を用いることは無用であり、標準的な部隊でも強襲部隊が実行した作戦は可能であると指摘されました。
こうして提案された内容にヴァンデグリフト中将は部隊の解散を決定しました。
1944年1月30日。同時期に誕生した空挺部隊よりも早くレイダースは、その僅かな歴史に幕を閉じます。
しかし、強襲部隊は完全に姿を消した訳ではありません。
翌2月1日。そっくりそのまま第1強襲連隊は、戦前は上海に駐留(1927-1941)し、初期にはバターンとコレヒドールで奮戦空しく捕虜となって消滅した連隊の伝統を引き継ぎ、第4海兵連隊という名前を与えられました。
第1強襲連隊 | >> | 第4海兵連隊 |
司令部中隊 | >> | 司令部及び事務中隊 |
第1大隊 | >> | 第1大隊 |
第2大隊 | >> | 武器中隊 |
第3大隊 | >> | 第3大隊 |
第4大隊 | >> | 第2大隊 |
この新生第4海兵連隊は、その後、グアムと沖縄に上陸し、更に戦後、日本占領軍に加わると旧第4海兵連隊の生存者たちを捕虜収容所から解放しました。
日本において旧第4海兵連隊のために行進を行う新第4海兵連隊の隊員たち
レイダー訓練センターの人員も、新たに組織された第5海兵師団に全員が異動となり、新たな人員とともに硫黄島で戦うことになります。
あの摺鉢山に星条旗を掲げた第28海兵連隊の連隊長はリヴァセッジ大佐であり、第1大隊長ジョンソン中佐、中佐に命じられ、旗を託されたシュリアー中尉、伝説となった二枚目の旗を掲揚したマイク・ストランク軍曹は強襲大隊の出身であり、またアイラ・ヘイズとハーロン・ブロックの二人は空挺部隊の出身者でした。
海兵隊の伝説であり、奮戦の象徴ともなった摺鉢山の星条旗を掲揚したのは皮肉なことに海兵隊から不要と判断された部隊に所属していた者たちによって成し遂げられたことになります。
太平洋戦域においてレイダースは、元祖であるコマンドゥのような運用はされませんでした。結局、レイダースの不幸は、部隊としての能力が劣っていたからではなく、海兵隊に限らず、軍全体としてこれらの特殊部隊の上手い運用方法を考えつけなかったことが要因といえるでしょう。しかし、
「それらエリート部隊の僅か千人の男たちの勇気と他のいかなる海兵大隊によっても凌ぐことのできなかった能力」
の遺産は残り、朝鮮戦争初期の戦況を一変させた仁川上陸作戦でも、強襲中隊が先遣隊として上陸を行っただけでなく、現在、レイダースと同じ作戦に備えて訓練された海兵隊の特殊作戦能力を有する大隊-各偵察大隊の中で、そのレイダースの精神は生き続けています。
「他の人間以上のことがやれないのなら、他の者より勝っているとはいえない」
Ballantine'sBooks"COMMANDO(1969)":ピーター・ヤング准将(退役)著より