年 |
海兵隊の出来事 |
世界での出来事 |
海兵隊司令官 |
1931 | 上陸作戦マニュアル作成開始 |
満州事変(9/18) |
ベン・H・フラー少将 1930.5.9-1934.2.28 |
1932 |
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第1次上海事変(1/28) 満州国成立(3/1) |
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1933 | 海兵隊装備委員会クアンティコに設置 海軍省令241。海兵隊、艦隊海兵軍(FMF)誕生(12/7) |
ヒトラー首相に就任(1/30) 日本国際連盟脱退(7/15) ドイツ国際連盟脱退(10/14) |
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1934 | 上陸作戦マニュアル草案完成 |
ヒトラー、SAを厳粛(6/30) ヒトラー総統を兼任(8/2) |
ジョン・H・ラッセル少将 1934.3.1-1936.11.30 |
1935 | 艦隊上陸演習(FLEX)第1回 |
ドイツの再軍備(3/16) |
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1936 | 艦隊上陸演習(FLEX)第2回 |
226事件(2/26) ドイツ軍ラインラント進駐(3/7) スペイン内戦(10/3-39/4/1) |
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1937 | 艦隊上陸演習(FLEX)第3回 海軍訓練教範167号「上陸作戦ドクトリン」採用 ドナルド・ローブリングの水陸両用トラクターLIFE誌に掲載(10/4) |
スターリンの軍部粛清(-1938) 日華事変(7/7) 日独伊三国防共協定(11/6) |
トーマス・ホルコム中将 1936.12.1-1943.12.31 |
1938 | 艦隊上陸演習(FLEX)第4回 |
ドイツ軍、オーストリア進駐(3/12) |
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1939 | 艦隊上陸演習(FLEX)第5回 装備委員会委員長E・P・モーゼス准将、発明家ドナルド・ローブリングに水陸両用車の試作依頼(10/) |
ドイツ軍、チェコスロヴァキア進駐(3/14) ノモンハン事件(5/12-9/15) 独ソ不可侵条約(8/23) ドイツ軍とソ連軍、ポーランドへ侵攻(9/1-9/27) イギリスとフランス、ドイツへ宣戦布告(9/3) ソビエトのフィンランド侵略(冬戦争)(11/30-40/3/13) |
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1940 | 艦隊上陸演習(FLEX)第6回 LVT(LandingVehicleTracked:装軌上陸車)試作型「クロコダイル」完成 |
ヴェーゼル演習作戦(4/7-4/27) イギリス軍、アイスランド上陸(5/10) ドイツ軍、フランス侵攻(5/10-6/22) ソ連、ルーマニア侵攻(6/26) タラント空襲(11/11) |
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1941 | 艦隊上陸演習(FLEX)第7回にて、LVTデビュー(1/) 大西洋艦隊、太平洋艦隊、アジア艦隊に再編成(2/1) 第1及び第2海兵師団の誕生(2/1) 水陸両用トラクター分遣隊編成(5/) 海兵隊空挺部隊編成(5/15) LVT量産型1号車完成(6/) 第1海兵旅団、アイスランドへ上陸(7/7) ウェーキ島の攻防(12/8-12/23) グアム陥落 フィリピン陥落 |
イギリス軍コマンドゥによるロフォーテン諸島強襲(3/4) アメリカ軍、グリーンランドを占領(4/12) クレタ島降下作戦(5/20-6/1) バルバロッサ作戦(6/22-) タイフーン作戦(10/2-) 真珠湾攻撃(12/8) 日本陸軍、フィリピン、マレー半島、香港へ侵攻(12/8) プリンスオブウェールズ、レパルス撃沈(12/10) イギリス軍コマンドゥ、ロフォーテン諸島強襲(12/26) |
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1942 | ガダルカナル上陸作戦ウォッチタワー(監視塔)(8/7-43/2/7) 第3海兵師団創設(9/16) |
イギリス軍コマンドゥ、サン・ナザールを奇襲(3/28) ドゥーリットル中佐の日本初爆撃(4/18) 日本軍フィリピンを占領(5/6) 珊瑚海海戦(5/7) ミッドウェー海戦(6/3) ドイツ軍、青作戦(6/28) ディエップ上陸作戦(8/19) トーチ作戦(11/8) |
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1943 | 第4海兵師団創設(8/16) タラワ環礁上陸作戦ガルヴァニック(電撃)(11/20-23) |
スターリングラードでドイツ第6軍降伏(1/31) カティンの森で、ソ連軍に虐殺されたポーランド軍将校の死体発見(4/13) ツィタデレ作戦(7/5-13) ハスキー作戦(7/9) イタリア降伏(9/8) |
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1944 |
第5海兵師団創設(1/21) クウェゼリン環礁侵攻作戦フリントロック(火打ち石)(1/31-2/2) エニウェトク環礁上陸作戦キャッチポール(法執行官)(2/17-19) 第1空挺連隊パラマリーン解散(2/29) マリアナ攻略作戦フォリジャー(略奪者)(6/15-8/1) グアム島上陸作戦スティーブドール(荷役人)(7/21-8/10) 第6海兵師団創設(9/7) ペリリュー島上陸作戦スティルメイトII(詰み2)(9/15-11/27) |
オーヴァーロード作戦(6/6) マリアナ沖海戦(6/18) ヒトラー暗殺未遂(7/20) パリ解放(8/25) マーケットガーデン作戦(9/17-25) サマール沖海戦(10/25) バルジの戦い(12/16-) |
アレキサンダー・ A・ヴァンダーグリフト大将 1944.1.1-1947.12.31 |
1945 |
第4海兵連隊、横須賀上陸(8/30) 第5海兵師団、佐世保上陸(9/22) |
ルソン島上陸(1/9) ドイツ軍、最後の作戦「春の嵐」(3/6) 東京大空襲(3/10) ドイツ降伏(5/8) 広島に原爆投下(8/6) ソ連軍、満州侵略(8/8) 日本降伏(9/2) |
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1946 | 第5海兵師団日本からの撤退を開始 LVTの開発者ドナルド・ローブリング、LVT開発の功績によりメリット勲章授与(12/18) |
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1947 |
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チャック・イェーガー、X1で世界初の音速突破 |
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1948 |
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クリフトン・B・ケイツ大将 1948.1.1-1951.12.31 |
1949 | 硫黄島の砂公開 |
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1950 | 釜山上陸(8/2) キーン作戦(8/7-12) 仁川上陸作戦クロマイト(9/15) スレッジハンマー作戦(9/16-28) 第1海兵師団の敵中突破(12/1-11) |
朝鮮戦争勃発(6/25) |
1911-1930へ |
1951-1970へ |
水陸両用作戦の完成。そして、第2次世界大戦。存続の危機と朝鮮戦争
1933年12月7日に、艦隊海兵軍(FMF)として新たな組織となった海兵隊では、1931年から、上陸作戦マニュアルの完成を目指します。これにはクアンティコの海兵学校の授業を中止してまで実施し、 1934年、
「上陸作戦マニュアル草案(Tentative Manual for Landing Operations)」
として完成し、1937年に海軍訓練教範167号「上陸作戦ドクトリン」として採用されます。後に、これを陸軍がコピーし、野戦教範31-5「敵対海岸への上陸作戦」として採用し、トーチ作戦(北アフリカ上陸)やハスキー作戦(シシリー上陸)、オーバーロード作戦(ノルマンディ上陸)に発展していきます。言うなれば、海兵隊こそが、第2次世界大戦全体の勝利へと導いた立役者だったといっても過言ではありません。
※陸軍における上陸作戦の権威は、戦車戦の権威として有名なジョージ・S・パットン大将でした。
海兵隊が、上陸作戦に何が必要かを模索していた1935年、フロリダで、とある発明家の開発した水陸両用車が沿岸警備隊に寄付され、その記事が、1937年10月4日号のLIFE誌に掲載されます。
これに目をつけた当時の司令官ホルコム少将は、装備委員会委員長のモーゼス准将に命じてドナルド・ローブリングに接触させます。
話はとんとん拍子で進み、金持ちのローブリングは軍から金をむしり取るようなことをせずに2万ドルで契約。
1940年、試作第1号アリゲーターが完成します。
試作車は1941年の艦隊上陸演習FLEX7にて使用され、その有効性を示し、即座に採用が決定します。
大量生産は、FMC社(後にM113APCや、M2ブラッドレーを開発する)で行われることが決定。5月には量産第1号が完成し、2月に編成された第1と第2海兵師団にそれぞれ水陸両用車両大隊が編成されます。
※製造開発権を売却する際、なんとローブリングはLVTの権利をたった1ドルで売却しました。
1941年2月1日、アメリカ海軍は、太平洋、大西洋及びアジアの三つの編成を行いました。同日、第1海兵旅団を基礎とする第1海兵師団(第1、第5、第7、第11(砲兵))と第2海兵旅団を基礎とする第2海兵師団(第2、第6、第8、第10(砲兵))が誕生します。
7月7日には、第1海兵旅団が初作戦となるアイスランド上陸を実行しました。ここにはイギリス軍も、5月10日に上陸し敵地を設置しており、大西洋の監視に重要な戦略拠点となっていました(現在も同様)。
着々とアメリカ軍は開戦の準備を行っており、海兵隊も例外ではないのですが、装備の改変は遅々として進みませんでした。陸軍に送れること5年、1941年にM1ライフルを海兵隊は採用しますが、未だにM1903ライフルが主力のまま、服も陸軍と同じものでした。ヘルメットも、41年に採用されたM1ヘルメットが支給されず、M1917ヘルメットのままです(陸軍もですが)。
期日は不明ですが、ある日、フィリピンの海軍基地に大統領からの特別命令がくだされました。一艘の船を購入して、カムラン湾の日本海軍連合艦隊を偵察せよというものでした。
早速、海軍中尉が、ヨット「ラニカイ」号を購入し、80年前の大砲を積むと20名の部下とともにマニラを出発します。
意図は不明です。結局、ラニカイ号が現地に到着する数日前に真珠湾を南雲提督率いる連合艦隊が奇襲攻撃を仕掛けたために、この事件は埋もれてしまいました。
12月8日は日曜日だったこともあり、真珠湾だけではなく、アメリカそのものが半分眠っているようなものでした。
日本大使館も同様で、これにより宣戦布告文書の翻訳が遅れるという事態を招きます。本来なら、これまでやったように宣戦布告同時攻撃(国際法上、問題の無い)になるはずでしたが、これにより攻撃後に宣戦布告ということになり、「Remember Alamo」に習い、
「Remember Pearl Harbor」
の標語が生まれます。実際、アメリカが攻撃を受けたのは1812年の第2次英米戦争以来でしたし、やられた以上はやり返すのが主義です。
これにより、参戦には消極的だったアメリカの世論はひっくり返ります。
※ルーズベルト大統領の謀略説があります。ルーズベルト大統領は、当時の各国の人間同様、「大鑑巨砲主義者」でした。真珠湾攻撃を太平洋艦隊へ意図的に知らせなかったというものですが、そもそも、開戦前から太平洋艦隊は情報の伝達ルートには含まれていませんでしたし、緊急時には電報を用いるのも以前からの取り決めでした。
この攻撃によるアメリカは死傷者約4,000名(内海兵隊は戦死158名、負傷74名)。日本軍は64名の戦死と捕虜1名。
同日、フィリピンやウェーキにも攻撃が開始されます。
フィリピンでは、現地部隊との連携がうまくいかず、戦線は崩壊、撤退に次ぐ撤退となります。
この中で、ウェーキに駐留する海兵隊は奮闘しました。12月11日には、駆逐艦2隻(如月、疾風)を撃沈し、日本軍の上陸を阻止、退却させます。
アメリカ軍は、この奮闘する彼らの救出作戦を計画しますが、結局、彼らを見捨てるしかありませんでした。一ヶ月の抵抗を続けた後、23日、日本軍に降伏しました。
翌年、勢いに乗った日本軍は各地に進行を続けます。ここでオーストラリア攻略のかなめとしてポートモレスビー攻略のため、「MO作戦」が実行に移されます。
アメリカ海軍は、実のところ、準備不足でやる気は無かったのですが、まさか、連敗中に、「できません」と言う訳にもいかず、動かせるヨークタウン級2隻(ヨークタウン及びレキシントン)を急派します。
ここに相手の姿を見ない航空戦力だけの海戦が行われた結果、アメリカ海軍はレキシントンを失い、ヨークタウンも小破します。対して日本軍は軽空母一隻撃沈と正規空母一隻中破で、勝者は間違いなく日本軍でしたが、結果的にはMO作戦は中止となったため、戦略的には辛うじてアメリカ軍の勝利となりました。
次に日本軍はミッドウェーを狙います。平文打電で日本軍の意図を察知したアメリカ軍は、突貫工事で修理したヨークタウンを含むヨークタウン級3隻(ヨークタウン、エンタープライズ及びサラトガ)を中心とした空母部隊を派遣。
対する日本軍も空母4隻を持ってミッドウェーを襲います。
ここに駐留していたのが、海兵隊航空隊(第22海兵隊航空群)でした。当時、海軍はF2Aから、F4Fに機種変換を行っていましたが、海兵隊は相変わらずF2Aが主力でした。当時の日本海軍の零戦と比べて遙かに劣った凡作機で、当然、次々と落とされると思いきや、意外にも奮闘します。奮闘しますが、やはり、次々と落とされていく中、ここに有名な南雲長官の得意技が炸裂します。
ミッドウェー基地の海兵隊航空隊の奮闘により、南雲提督は爆弾換装の命令を出しますが、直後、空母部隊の発見により、魚雷換装命令が出されたことにより、各空母は混乱の極みに達します。
かつてインド洋で同じ状況に陥った時のような幸運はありませんでした。アメリカ海軍雷撃機デバステーターは到達前にほとんど叩き落とされましたが、急降下爆撃部隊の投下した爆弾が甲板に命中し、これにより南雲艦隊は空母三隻を瞬時に失うことになります(加賀と蒼龍は作戦中に轟沈。赤城は魚雷処分)。
最終的にアメリカ海軍は残った飛龍も撃沈しますが、ヨークタウンを失います。日本海軍は4隻を喪失。それ以上に、優秀なパイロットを多数失ったことが大きな痛手でした。
ミッドウェー海戦の翌月ガダルカナルでは7月16日より、日本軍による飛行場建設が始まっていました。ここに基地を設置すればオーストラリア封殺が可能となるためです。
当時、
「ガダルカナル?」
と誰もが初めて聞く名に首を傾げる無名の島が、日米の激戦地として世にその名を知らしめることになります。
ラバウルからですら、遙かに遠い―だからこそ、選ばれた土地に日本軍が飛行場を建設していることを察知したアメリカ軍は、オーストラリアを孤立させないために、ガダルカナルの奪還計画を立案します。
1941年に第1海兵師団長に就任したヴァンデグリフト少将は、「6週間前に作戦計画を渡された」ことに不満を抱いたそうです。確かに移動期間を考えれば、訓練する時間がほとんどありません。
肝心のLVTの編成も順調とは言い難く、採用してから一年経つのに未だにM1ライフルが支給されません。
隊員たちは、ないないづくしの作戦に、皮肉を込めて、
「Shoestrings(靴ひも)」
という呼び名をつけました。皮肉なことに靴紐すら、満足に支給できない状況でしたが。
それでも、1942年8月7日。アメリカ海兵隊第1海兵師団は、ガダルカナルに上陸しました。
海兵隊は、この日、一日で1万トンの物資を揚陸しました。
その作業中、LVTが活躍したのですが、次々と自滅していきます。足回りの脆弱性がいざ動かした途端に露呈した訳ですが、これによりLVT2の開発が決定しました。
二日目にラバウルからの空襲があったために珊瑚海海戦でレキシントン、ミッドウェー海戦でヨークタウンと二隻の空母を失ったことから、夜間は安全圏に空母を引き上げる方針をとっていた海軍は空母を撤退させます。
更には、サボ島沖海戦(第1次ソロモン海戦)で、アメリカ、イギリス及びオーストラリア海軍はこてんぱんにやられます。特にアメリカ海軍は、ペンキと航空燃料が燃えることを知らなかったらしく、日本海軍の命中弾により、次々と炎上、4隻の巡洋艦を失うはめになります。
三川艦隊は、そこで進出をやめて引き上げます。これは当時から批判を受けた決定でしたが、三川艦隊からすれば海戦で時間を浪費し、更に戦隊の再編成にも時間を浪費したことで、空母がどこにいるか分からない以上、早々に引き上げる必要がありました。
こうして、海兵隊はガダルカナルに取り残され、飛行場を中心とした防御態勢に入り、日本軍との激戦が始まりました。
12月に第2海兵師団と第25歩兵師団に任務を引き継いだ第1海兵師団の実に3分の1が、戦闘任務に適さずと診断された状態で第1師団は休暇に入ります。
翌年2月に、日本軍はガダルカナルより撤退。
この間行われた地上戦では兵力を、海上で行われたいわゆるソロモン海戦では多数の船を日本軍は失い、以後、この傷から立ち直ることはできませんでした。
ガダルカナルを確保したアメリカ軍は、太平洋の制海権及び制空権を拡張するために、次にマーシャル諸島に目をつけます。
そのための前哨基地としてギルバート諸島にあるタラワ環礁攻略が決定しました。
ガルヴァニック作戦と名付けられたタラワ環礁攻略作戦は11月20日に決行されます。
これは海兵隊にとって、初の敵前上陸であり、同時に最初の激戦となりました。
これに先立ちLVTの確保に動いた第2師団長ホランド・"ハウリングマッド"・スミス少将は見事に、大量のLVTを分捕ることに成功します。
そして、装甲が無いという素敵な設計のLVT1と、装甲は申し訳程度についているLVT2の装甲を現地改造で強化して準備を整えます。
※そもそも、LVTは水陸両用輸送トラックであり、戦闘車両ではありませんでしたが。
11月20日に上陸を開始し、76時間後にタラワは陥落、諸島全体は一週間後に占領が完了しますが、その損失はアメリカ国民を呆然とさせます(戦死980名、負傷2,050名)。
軍でも、即座に不手際の原因究明に動き出します。結果、LVTの脆弱性、無線設備の不備、海軍の砲撃の下手さ、上陸地点の事前調査の必要性などが明らかになりました。
LVTは、装甲を施したLVT3とLVT4の開発が急遽行われました。また、上陸直後の支援の不備を補うために水陸両用戦車の開発も始まります。
その一方で、クェゼリンなどに上陸作戦を行い要所要所を潰していった海兵隊は、次にマリアナを狙います。目標は、サイパンとテニアン。
まずサイパン島に上陸し、これを攻略した後にテニアン島を陥落。
この後、アメリカ軍ではマッカーサーのごり押しもあってフィリピン攻略が始まりました。
それに関連して、海兵隊では、ペリリュー攻略が決定します。参加は久しぶりの第1海兵師団。
ところが、第1海兵師団は、当時、第2師団や新編成された第3、第4師団に人員を取られて、ガダルカナルを経験したベテランがほとんどいなくなっていました。また、水陸両用車両も不足し、その訓練もほとんど実施できていませんでした。
しかも、投入されるのは彼らのみ。
最終的にペリリューで、第1師団は壊滅的な打撃を受けます。結局、北部に日本軍主力を残したまま、第1海兵師団は任務を陸軍に引き継ぎ、ペリリューを後にするという実質的には海兵隊の敗北でした(戦死1,149名、負傷5,142名)。
フィリピン攻略のつけは次第に海兵隊を蝕んでいきます。
台湾攻略が考えられたものの、フィリピンとは違い現地の住民が日本に友好的であることも鑑み、これを断念したアメリカ軍は、サイパンから、東京に向かうルートの中継点に当たる硫黄島に目標を定めます。
硫黄島に上陸した直後に沖縄へも進出する計画が立てられましたが、ここで海軍は空母部隊による日本空襲を実施。十分な砲撃と空爆が硫黄島へは行われないことになりました。
2月19日、第4海兵師団と第5海兵師団の第1派が上陸を開始、第2派、第3派までは順調に進みます。
そして。
地獄が幕を開きました。
海兵隊初日の死者は501名(加えて負傷後死亡47名)。一日の犠牲者数で、これに次ぐのはベイルートの爆破テロ時の240名です。
入念に計算された防御陣地の攻略に海兵隊はセンチ単位の前進を行い三日かけて海岸線をようやく越えます。
当初、
「バンザイ突撃が行われ、数日で片がつく」
とみられていた作戦は栗林中将の意図により、36日間を要します。
結果的に海兵隊は、ここに3個師団を投入。
「硫黄島では、誰もがいっぺんの勇気を持つのが美徳だった」
海兵隊戦死6,821名、負傷20,865名、日本軍戦死19,900名、負傷1,033名。アメリカにとって最も高価な土地と呼ばれるゆえんです。
4月1日、アメリカ海兵隊(第1及び第6)と陸軍により編成された第10軍(指揮官バックナー中将)が、アメリカ軍最後の地上戦となる沖縄へと上陸を開始します。
これは史上最大の水陸両用作戦となりました(ノルマンディの方が規模は大きいが、海峡を渡るだけ)。
まず、陽動で第2師団が沖縄本島東南部で上陸の構えを見せます。
それによって関心が動いた隙をつき、アメリカ軍は背後から上陸を開始しました。
初日の揚陸人員は実に5万名。日本軍は陽動作戦と水際防御作戦の破棄により、これを見過ごします。兵力的にも、この時点では倍の10万を有していたこともあります。
海兵隊は対岸へと進出するとともに北部へと進軍を開始。
陽動の必要が無くなった第2師団も上陸します。
北部の攻略が完了し、南部の陸軍の戦線が停滞すると海兵隊は増援として南部の戦線へ移動します。
日本軍は頑強に抵抗を続け、また九州からは神風特攻隊が発進していきます。大和を中心とした艦隊特攻も行われました。
その中で日本軍は民間人を巻き込まないために軍とは別な場所へ移動させます。結果的には、軍が民間人を見放したということになってしまいますが。
6月に沖縄は陥落し、ここに第2次世界大戦における海兵隊の戦いは幕を閉じました。
8月6日に広島、8月8日にソビエトが持ち前の火事場泥棒根性を発揮して満州へ侵略、8月9日に長崎に原爆が投下され、8月15日にポツダム宣言を受諾。
8月30日に第4海兵連隊が、横須賀に対する上陸作戦を実行。この時点では抵抗があると懸念していたために、戦艦長門の奪取計画など詳細な作戦計画が立案されていました。
9月2日にミズーリ艦上にて降伏文書へ調印が行われ、ここに第2次世界大戦は幕を閉じました。
※日本軍の武装解除完了は9月12日
9月22日には第5海兵師団が九州佐世保に上陸。その後、九州の占領活動に入ります。
1945年中に、海兵隊は撤退を開始します。1946年までにはほとんどの部隊が日本を離れていました。
1946年12月18日、発明家ドナルド・ローブリングに対し、LVT開発の功績により、メリット勲章が授与されました。
その後、軍縮が始まり、海兵隊も第1と第2を残し、一個を予備として3個師団が解散されます。
また、核兵器の誕生により、大部隊を動かしても核で一網打尽にされるという考えが広まったことにより、軍にとっては有り難くない状況に陥ります。
特に海兵隊は、長年、持てあまし続けてきた存在であったせいで、またもや、不要論が噴出してしまいます。
海兵隊というよりも、47年に陸軍から独立した空軍以外の軍が存続について悩み始めた中、大量にネタを仕入れたハリウッドでは戦争映画が次々と作られます。
その中でジョン・ウェインによる「硫黄島の砂」が作られ、1949年に公開されました。ラストの星条旗を掲げるシーンでは、実際に星条旗を立て、硫黄島の戦いを生き延びた三人が演じました。参加した三人は、映画の出来映えなどに不満―というより、明らかに怒り―を感じていたようですが、ともかく、この当時の記録映像を盛り込み、海兵隊の全面協力を得た映画はアカデミー賞を取るなどヒットしました。
それでも、各軍が生き残り策を模索していた1950年6月、突如として、北朝鮮が韓国に侵略を開始します。当時の韓国軍将兵の多くは日本軍によって鍛え上げられた精鋭でしたが、不意をつかれたことと有効な対戦車手段を持たなかったことにより、瞬く間に壊滅していきます。
現地にいたアメリカ軍も、北朝鮮のT34と人海戦術に対抗する術が無く次第に追い詰められていきます。
初めての実戦となる空軍は、急遽、日本からF51(元P51)の部隊を朝鮮へ飛ばします。
※F51は対地攻撃に用いるには致命的な脆弱性を持っていたために本音はP38を使いたかったのですが、この時期、P38は全機退役していました。これが悲劇にも繋がります。そして、海軍では対地攻撃に使われたF4Uコルセアが全く同じ脆弱性を抱えていました。
そして、第1海兵師団にも出動要請が行われました。まず臨時編成の第1旅団が朝鮮半島へ移動します。その間に、海兵隊は人員を文字通りかき集めます。
海兵隊が到着した頃、アメリカ軍と韓国軍は半島の一角に追い詰められていました。
海兵隊も、戦線の維持に奔走しますが、砲兵隊200名が待ち伏せによって全滅するなど戦況が改善する気配はありませんでした。
ここで第8軍司令官マッカーサー元帥が、周囲からすればとんでもない作戦を提案します。
場所は仁川。確かに成功すれば一気に形勢逆転できる作戦でしたが、その成功すらおぼつかない場所と周囲は見ていました。上陸するにはあまりにも無謀な地形だったためです。
しかし、マッカーサーはこれを強硬。第1海兵師団と第7歩兵師団がこれにより作戦準備に入ります。この際、第5海兵連隊は作戦行動中に引き抜かれ、現地の司令官がきれたこともありました。
こうして海兵隊最後の敵前上陸作戦クロマイトが実行されました。
予期しない場所に現れたアメリカ軍に有効な手立てを打つこともできずに北朝鮮軍は敗退し、一週間後にソウルも解放されます。
元々、長期的な計画も装備もなかった北朝鮮軍は各所で敗退し始め、逆に北へと追い詰められていきます。
10月25日、中国が義勇兵と称して部隊を投入。この猛攻に国連軍の戦線は崩壊し、撤退に次ぐ撤退が始まります。
12月。第1海兵師団はハガルリで作戦行動中でした。これを中国第9軍集団12個集団が、第1海兵師団を包囲します。
「退却だと? 違う。我々は敵へ向かって進軍しているだけだ」
第1海兵師団長スミス少将は豪語します。むちゃくちゃ言っているように思えますが、それで間違いありません(海兵隊的には)。
確保していた空港から、負傷者と死者を送り出して身軽になった師団は撤退を開始します。
結果的には、12月11日に海兵隊は撤退を完了します。包囲した第9軍集団は内乱を戦い抜いた精鋭でしたが、冬季装備を持たず、また、海兵隊の的確な反撃と、的確な空爆によって、なんと12個師団が壊滅しました。
1950年は、こうして一進一退のまま幕を閉じました。
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