「私が王であるならば、敵に加える一番ひどい刑罰はソロモン諸島への流刑だろう。
しかし、考え直してみると、例え王様であってもなくても、それだけは私にはできないと思った」
しかし、考え直してみると、例え王様であってもなくても、それだけは私にはできないと思った」
ジャック・ロンドン-「スナーク号の航海」1908
ガダルカナル
ミッドウェー海戦によって、勝利したアメリカ軍でしたが、戦況は未だ予断を許さない状況でした。
その中で、日本は珊瑚海海戦によって中止されたMO作戦の延長(というか代替え)として、SI作戦を実行し、ソロモン諸島に進出。オーストラリア封殺のために飛行場の建設を開始。
この情報を察知したアメリカ軍は、諸般の事情(マッカーサーの我が儘とか、マッカーサーの我が儘とか、マッカーサーの我が儘など)により、オーストラリア、ニュージーランドの孤立化を防ぐために、当時、ニュージーランドに移動していた第1海兵師団に急遽日本軍が飛行場を建設しているガダルカナル島への上陸を命令。
師団長ヴァンデグリフト少将ですら、自分の師団が作戦行動を行うのは1943年になってからだろうと思っていた矢先でした。
準備不足どころか、師団の一部はまだニュージーランドへ航海中という中で、どたばたと準備が進められ、必要な物資にすら事欠くことから、ウォッチタワー(監視塔)と名付けられた作戦は、あまりにも条件が悪い上に必要な物も手に入らないため、いつの間にか、幹部将校たちは、ないない尽くしのシューストリングス(靴ひも)作戦とこの作戦を呼ぶようになり定着しますが、その靴ひもすら足りない状況の中、僅か5週間で準備を終えた第1海兵師団はニュージーランドから、ソロモン諸島ガダルカナル島へと出航します。
戦局の一大転換となるソロモンキャンペーンはこうして始まります。