1791-1810
年 |
海兵隊の出来事 |
世界での出来事 |
海兵隊司令官 |
1791 | |||
1792 | |||
1793 | フランス革命 |
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1794 | |||
1795 | |||
1796 | |||
1797 | |||
1798 | 海兵隊再編成(7/11) |
フランスとの準戦争 (-1800) アブキール海戦にてネルソン、フランス海軍を壊滅(8/1) |
ウィリアム・W・バローズ中佐 1798.7.12-1804.3.6 |
1799 | ボナパルト将軍によるクーデター(11/9) |
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1800 | サント・ドミンゴ上陸 |
エジプト遠征フランス軍、イギリス軍に降伏(9/1) |
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1801 | 海兵隊軍楽隊、大統領官邸まで行進し、コンサートを開催(1/1) 海兵隊軍楽隊、トマス・ジェファーソン大統領(3代)の就任演説で演奏(3/4) 海兵隊地中海分隊(リチャード・デール少佐指揮)派遣。トリポリの海賊討伐(?32年まで) |
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1802 | アミアン条約(3/) |
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1803 | |||
1804 | アレキサンドリア上陸(11/29) |
ナポレオン・ボナパルト、フランス皇帝ナポレオン一世になる(12/2) |
フランクリン・ウォルトン中佐 1804.3.7-1818.9.1 |
1805 | カイロ到着(1/8) プレスリー・N・オバノン中尉、トリポリに星条旗を翻す(4/27) |
トラファルガー海戦にてネルソン、フランス海軍を壊滅(10/21) |
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1806 | |||
1807 | |||
1808 | |||
1809 | |||
1810 |
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トリポリに翻る星条旗
1793年、アメリカで独立運動を支援したフランス軍将校たちが原動力ともなって、フランス革命が勃発しました。
イギリスは、フランス王朝を支援するために軍隊を派遣するとともに、各地に海軍を配備し始めます。
また、アメリカも独立を果たし、最大の目的だったイギリス軍を追い払うことには成功したものの各国との貿易摩擦が生じ始めていました。
革命直後にフランスが、イギリスへ宣戦布告をします。1778年にアメリカがフランスと結んだ条約には、イギリスと戦争状態になった場合、支援することが定められていたために、対岸の火事と放っておく訳にはいかなくなっていました。
しかし、当時、アメリカの財政は逼迫しており、この状況で戦争など支援すれば国家そのものが崩壊しかねません。
ここで、確かに革命を手助けしてもらった恩はあるもののアメリカは、中立を宣言しました。これにより、フランスとは「準戦争」と呼ばれる緊張状態が1800年代まで続きます。
こうなるとアメリカとしても、軍隊を復活させるしかなく、1798年4月に海軍省が復活し、また7月11日に海兵隊も再建されました。この日は、1921年に当時の総司令官レジューン少将が定めるまで、海兵隊の創立記念日として祝われていました。
※大尉4名、中・少尉28名、軍曹48名、伍長48名、鼓手32名(当時必須の兵士)、兵卒720名。将校は上院による任命制で、兵の任期は3年。
同時に総司令官に任命されたバローズ中佐は、アメリカ軍に存在していなかった組織を誕生させます。
こうして、アメリカ軍最古だけではなく、アメリカ最古の音楽組織として「Marine Band」が誕生しました。海兵隊軍楽隊は、1801年1月1日、大統領府へ行進し、ジョージ・アダムス大統領(2代目)のためのコンサートを開催します。
これ以降、大統領のために演奏できるのは、海兵隊軍楽隊Marine Bandのみに与えられた名誉となります。
さらに、この年の3月4日、3代目の大統領として、トマス・ジェファーソンの就任演説の際に、海兵隊軍楽隊が演奏を行い、「President's Own」の称号を賜ります。以降、全ての大統領就任演説で、「The President's Own United States Marine Band」が演奏を行うこととなりました。
さて、内部では海兵隊としての地位を確保しつつ、その割に国民には存在を知られていない海兵隊は、海軍とともに80隻の船を拿捕することに成功し、フランスに和平を考えさせることにも成功しました。
幸いというか、フランス革命政府は、王政派だけを殺すだけでは飽きたらず、身内の処刑も始めました。その状況で、ボナパルト将軍がエジプト遠征に送り出され、その結果、地中海でネルソン提督率いるイギリス海軍が、フランス海軍を壊滅させます。
これにより、ボナパルト将軍は急遽フランスに帰還することになり、11月9日、クーデターにより、元老員を掌握し、権力を手中にします。権力を手にしたボナパルト将軍は、アメリカとの関係改善の道を模索し、この結果、1800年に準戦争は終わりました。
準戦争が終わるとジェファーソン大統領は、海兵隊の縮小を決定、これにより500名規模に縮小。それでも、恒久的な海兵隊兵舎をワシントン南西に建てる基金と許可を承認されました。
※承認されましたが、予算不足で、結局、海兵隊は自分たちで兵舎を建築することになりました。なお、この当時の将校の衣服は、世界各国、どこも「自前」です。このため、将校には、ある程度の財力が必要とされました。その中で、唯一海兵隊で支給されていたのが、革のカラーで、これが「LEATHERNECK」というあだ名を誕生させることになります。
フランスとの問題が解決したアメリカですが、次に問題となったのはトリポリを中心とした海賊たちでした。
海賊と言っても実態はトルコから、正式に通行権の徴収などを承認されていますから、彼ら―いえ、当時の私掠船は基本的に、どこかの国から権利を買っていますので、ほとんど全ての私掠船―からすれば正当な商売です。
トリポリの海賊に対しては、あの当時最強の海軍を持つイギリスですら、通行料を素直に支払っていました。その方が安上がりだったからです。これはアメリカも同様でした。
しかし、この海賊たちが、アメリカ商船を襲撃するようになっただけでなく、キリスト教徒の捕虜を奴隷として転売するために買い始めるという行動を取ろうとし始めたので、アメリカは、地中海に戦列艦10隻を派遣するようになりました。
※イギリス海軍も、この時期は海賊討伐と密輸の取り締まりに奔走しています。この辺りの事情は、ホーンブロワーシリーズやボライソーシリーズなどで描かれています。主役はイギリス軍ですが、当時の海軍や海兵隊がどういうものだったかを知るには良い資料になります。
これ以降、1832年になるまで海兵隊の主な敵は海賊となります。
1804年に、海兵隊はアレキサンドリアに上陸し、カイロに向かって進軍します(到着は翌年1月8日)。
その後、部隊は更に進み1805年4月27日、プレスリー・N・オバノン中尉の部隊がトリポリの要塞に星条旗を翻します。
プレスリー・N・オバノン中尉
この事実は、海兵隊賛歌で、「トリポリの海岸まで」と歌われるとともに、このとき、マッムルーク剣が与えられたことにより以降、以後、その剣の改良型は海兵隊将校の儀礼刀としてだけでなく戦闘剣として現在にまで受け継がれています。
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