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略史

 1740年、イギリスは植民地海兵隊の編制を承認し、第43グーク連隊が誕生。

 その後、7年戦争を経た1770年代。イギリス本土と植民地との関係は次第に悪化し、税金を巡って更に悪化。植民地側は当時の国王ジョージ三世に逆らっている意識はなく、イギリス議会に逆らっているつもりですが、実際に独立などに反対していたのはジョージ三世でした。

 ともかく、イギリス軍と民兵との間に飛んだ一発の銃弾。これにより独立戦争が勃発。

 1775年、大陸会議は大陸軍の編制を決定し、11月10日にはイギリス海兵隊を意識-というより真似をして艦内警備及び艦隊戦の戦闘員として大陸海兵隊二個大隊の編制を承認しました。

 ここにContinental Marineこと大陸海兵隊。後のアメリカ合衆国海兵隊の元祖が誕生します。

 海兵隊の当初の敵は、むしろ、味方でした。一般への認知度も全くない海軍の厄介者。軍(特に海軍)からは、再三、廃止の要求が出されています。この冷遇時代は、なんと第1次世界大戦で名をあげるまでの約140年も続きます。

 何しろ、世間が、海兵隊の存在を認識したのが、1908年のセオドア・ルーズベルト大統領が、海兵隊の乗艦勤務を廃止する大統領指令969号で起きた廃止の是非を問う論争のおかげだったというくらいです。

 1909年、どうにか廃止を免れた海兵隊の任務が、海軍条例に艦上勤務、外国への介入、外国部隊の訓練、陸軍の支援、国内外のアメリカ国民と財産の保護、前身基地の防御と規定されました。つまり、創立してから130年、明確な規定がないまま存在していた訳です……いい加減だなあ(笑)

 1914年に勃発した第1次世界大戦に、当初、アメリカは中立を保っていましたが、1917年4月6日、ドイツの無差別通商破壊作戦を宣言したために参戦することとなりました。当時は、ヨーロッパの問題は関係ないというモンロー主義をとっており、これが後に第2次世界大戦への参戦も遅らせる要因となります。

※モンロー主義は、現在も尾を引いている面もあり、これは日本が鎖国政策を若干引きずっているのとどこか似ています。

 さて、1917年、当時の海兵隊司令官ジョージ・バーネット少将は、これを海兵隊の地位を盤石とする千載一遇の好機と考えました。パーシング将軍を始めとした陸軍の反対の中、戦争局を説得して、海兵2個連隊(6,000人)を無理矢理遠征軍に組み込ませます。

 この戦争によって、海兵隊は奮闘し、遂にその存在を確固たるものとしました。

 が、第1次世界大戦終戦(11月11日です)の際、75,000名まで増員された海兵隊は、あっさりと15,000人まで削減されます。陸軍ですら、300万から225,000まで削減されたので、軍全体が同じ目に遭っている訳ですが。

 ここに登場するのが、アール・H・エリス少佐です。彼は太平洋の戦いが、日本軍の急襲であると予測し、それに対抗する手段として、アジア大陸や日本本土ではなく、海と空の軍事力で敵の軍事力を太平洋で破る「海をもって陸を叩く」構想を打ち立てます。「水陸両用作戦(Amphibious Operations)」と名付けられた新たな任務は、海兵隊に新たな使命として与えられました。  1921年7月23日、この構想が「作戦計画712D」として承認されます。

 この一方で、海兵隊はカリブ海諸国や中米地域でアメリカ外交政策の力の象徴として出動と派兵を繰り返しながら、中国では在外公館の警備を担当しています。

 1939年にドイツのポーランド侵攻を理由に、イギリスとフランスが宣戦布告し、第2次世界大戦が勃発しましたが、アメリカはモンロー主義により、消極的でした。政府ができたのは軍需物資の提供や、義勇兵として兵士を派遣させる程度の支援しかできませんでした。

 それでも、参戦を見越したアメリカ軍は軍の増強を計り、1941年までに陸軍は8個師団から36個師団へ増強。  そして、海兵隊でも、1941年に第1海兵師団及び第2海兵師団が編成されました。それまで海兵隊は、連隊規模でしかなく、その連隊ですら、第1海兵連隊の創設が1911年3月8日と割と遅めです。

 さて、どうにかして、ヨーロッパ戦況と増強する日本軍と決着をつけたいフランクリン・ルーズベルト大統領から、ある日、海軍に対して奇妙な特別命令が下りました。

「一隻の小船を雇って星条旗を掲げ、カムラン湾にいる日本艦隊を詳しく偵察せよ」  1人の海軍中尉が、その任務のため、フィリピンでヨットラニカイ号を手に入れ、80年前の大砲を搭載、下士官6名と現地人12名とともにマニラを出航。意図は不明ですが、どう考えても、

「スパイしてるから、撃沈してね(э。э)bうふっ」

 でしょう。真珠湾攻撃を行わなければ、と言うIF話がありますが、アメリカの方は、この例が示すように、この時点で、やる気満々です。

 結局、ラニカイ号がカムラン湾に到着するより、先に真珠湾攻撃が行われ、これまで参戦には否定的だった世論が一気に覆ります。アメリカ人が、殴られたら、殴り倒す気風の持ち主であることを当時の日本で理解している者はいなかったようですが、現在もその点で理解されているとは思えません(911もそうだったように)。

 第2次世界大戦中、アメリカ海兵隊は、ガダルカナルを始めとした数々の上陸作戦を実行。終戦時には6個師団、5個海兵航空団にまで拡大し、総数475,000名となっていました。  しかし、戦後、核兵器によって、海兵隊どころか、軍自体の存在意義が問われます。それもあってか、軍事縮小と予算削減で1950年には、現役2個師団、総兵力75,000人にまで規模は縮小されました。  ところが、1950年6月25日、ソ連と中国の後ろ盾を受けた北朝鮮軍が突如として侵略を開始。韓国軍は崩壊し、アメリカ陸軍も敗走、僅か二ヶ月で半島の先端に追い込まれた状況を食い止めるために臨時編成の第1海兵旅団が投入。

 ここに海兵隊は、「緊急展開部隊」としての存在価値を示します。初期の防衛線から、形勢逆転を果たした仁川上陸。中国軍介入による敗走の中の敵中突破。つまり、朝鮮戦争は海兵隊の存在意義を再認識させると同時に緊急時に即座に対応できる部隊としての存在価値を自らの奮闘によって勝ち取ったのです。

 終戦まで戦い続けた海兵隊は、次のベトナム上陸までの期間、戦争ではなく、日本でも自衛隊が被災地で実践しているように、その自己完結した組織力を持って、災害援助に活躍します。  そして、1965年。海兵隊第9遠征旅団が、ダナンへ上陸したことにより、アメリカの最も長い「ベトナム戦争」が始まりました。この際、敵ではなく歓迎団が花輪で出迎えたせいで、旅団長フレデリック・J・カーチ准将が花輪を首に下げ写真が撮られていますが……失礼ですが、憮然とした表情が笑えます。

※ちょうど20年前の少佐時代に第14海兵連隊(砲兵)参謀として、あの硫黄島の激戦を経験したカーチ准将からすれば釈然としないのも当然でしょう。

 ここにダナンを起点とし、ケサンやフエの攻防など海兵隊の激戦が始まり、1973年3月、捕虜の解放を持って終了するまでの8年間、精鋭北ベトナム軍を相手に戦い続けました。  しかし、ベトナムから撤退した直後からも、海兵隊は、キプロス島からの引き上げや、南ベトナム、カンボジアからの大使館員引き上げ、1975年のマヤゲス号事件、1982年のレバノンなど、災害救助や治安活動で世界各国に派遣され続けました。

 ベトナムでアメリカ軍が受けた傷がいやされたのは、ベトナムで苦渋を嘗めた将校たちが、佐官や将官として今度は軍を率いる立場になった1983年のグレナダでした。一方的に勝利したように思えますが、実際は久しぶりの大規模作戦で不手際が続出。損害も決して軽くはありませんでしたが、それでも、ベトナムの悪夢からの脱却に成功します。敗者は次に勝利するまで誇りを取り戻せない。それをアメリカ軍はグレナダで果たしたのです。

 それから、7年後の1990年8月2日、イラクがクウェートに侵略を行い一日で、これを占拠するという事件が起こりました。 「クウェートは、元々イラクの土地だ」、とイラクの侵略、略奪と残虐行為を支援する怪しい連中が電波をとばす中、アメリカを主体とする多国籍軍が編成されます。第1陣として、陸軍第82空挺師団「オールアメリカンズ」が派遣されますが、彼らは空挺部隊であるため、重火器の装備が無く、ここに海兵隊(第7WEB)へ展開命令が下されます。  8月10日に派遣が決定され、先遣隊は僅か二日後の12日に到着、25日までに全部隊がサウジアラビアへの上陸を完了しています。  翌2月28日に停戦するまでに海兵隊は、全ての作戦目標を達成し、クウェートを解放します。

 1992年には、ソマリアへ上陸。治安活動に入ります。1993年にひとまず治安が回復したことにより、海兵隊は撤退しますが、彼らから任務を引き継いだタスクフォース(レンジャー及びデルタフォースによる)の、映画「ブラックホークダウン」で有名なブラックシーの戦いをもって、ソマリアにおけるアメリカの治安活動は幕を閉じます。

※なお、海兵隊が派遣された際、武装勢力の指揮官アイディド将軍の息子が海兵隊将校として在籍しており、部隊とともにソマリアへ派遣されています。

 その後、クリントン大統領が、ひたすらミサイルを撃つだけの作戦に切り替え、それに併せて自分の浮気の証言を重ねるという世間の失笑を買うようなことをしている間に、まとまりかけていたイスラエルとパレスチナの和平が、ラビン首相暗殺で、一瞬にして打ち砕かれます。

 海兵隊では、1992年7月に太平洋海兵隊を新設するなど、前方展開能力の強化に努める一方、1994年9月にハワイの第1海兵遠征旅団司令部を解隊し、第3海兵遠征軍に指揮系統を統合するなど、組織の合理化に努めます。  1999年8月にはトルコ北西部大地震で救援活動のために、コソボで国連治安部隊任務にあった第26MEU2100名が派遣。

 そして、2001年9月11日、同時多発テロが発生。

 この直後に海兵隊は、持ち前の機動力を発揮し、アラビア海に第15MEUが派遣されました。実は、この派遣は、アフガン侵攻が目的ではなく、隣国パキスタンに対する圧力でした。

 このパキスタンへの圧力は、海兵隊が、軍事的圧力を相手国にかけるという政治的な運用もされるという一つの見本になります。

 2003年、イラクへの進行作戦で海兵隊は砂漠の進軍を第3歩兵師団に任せ、自らは地形が複雑な北部を進軍し、一ヶ月後にバグダッドの陥落を持って、ひとまず戦いは終了しました。

 以降、イラク国内の治安活動に従事し、2004年11月には陸軍第1歩兵師団、第1騎兵師団とともに第1海兵師団はファルージャに居座る武装勢力の掃討作戦fファントム・フューリーを実施しました。

 2005年10月、統合参謀本部議長マイヤーズ空軍大将の後任として、副議長ピーター・ペース大将が海兵隊としては初めて、全軍の最高機関の長として任命されました。

 2006年2月24日、これまで対テロ部隊や在外公使館警備を受け持っていた第4MEBが活動を停止し、変わりにMARSOCが活動を開始。

 2006年11月10日には、海兵隊の歴史ミュージアムが摺鉢山の星条旗掲揚をモチーフにした建物とともに新たな海兵隊の歴史を語る場所としてオープン。

 これとは別に沖縄の海兵隊のグアムへの移転が計画されるなど、組織の改編が行われようよしています。

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