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Korean War:朝鮮戦争1950年6月-1953年7月

 第2次世界大戦が海兵隊の伝説を築き上げた戦いならば、朝鮮戦争は海兵隊の存在意義を見事に示した戦いといえるでしょう。

 第2次世界大戦で、伝説を築いた海兵隊でしたが、直後の軍縮に加えて、核兵器の登場により、一気にその地位が危うくなります。これは海兵隊に限らず、陸軍も海軍も同様でした。

※海軍など、戦略爆撃機に敗退して、CVB-58ユナイテッドステーツを1948年に発注、起工まで入っていたのにキャンセルするはめにもなっています。

 戦争が終わると同時に、ハリウッドでは戦争映画が無数に作られるようになり、その中で1949年に公開されたジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」は海兵隊の協力により、撮影され、その年のアカデミー賞にもノミネートされる大作となりました。これによって、海兵隊のかつての栄光が人々の中に思い出されましたが……組織存続に対しては、それほど貢献したわけでもなし。

 各軍がどうやって生き残るかを模索し、海兵隊でも第1強襲大隊長として、ガダルカナルのムカデ高地の戦いにより名誉勲章を受章したメリット・エドソン少将が中心となってロビー活動に奮戦している時、突如として半島の付け根の土地の武装集団が、先端へ向けて侵略を開始します。

 第2次世界大戦時の最優秀戦車とも言われるソビエトのT34を主力にした北朝鮮軍は有効な対戦車兵器を持たない韓国軍を瞬殺。当時、朝鮮半島に駐留していた第8軍も、総崩れとなり、瞬く間に半島の片隅へ追い詰められていきます。

 これに日本駐留軍司令官マッカーサー元帥は、急遽、増援を派遣すると共に第1海兵旅団の投入を決定。

 当初、反撃の一部として使われる予定の第1海兵旅団でしたが、状況はそれを許さず、第5海兵連隊は到着後すぐに火消し役として活躍しなければなりませんでした。

 一ヶ月が経過すると北朝鮮軍も息切れしてきますが、楽観できる状況ではなく、海兵隊も、砲兵部隊200名が全滅するなど少なからぬ損害を受けながら、防衛戦を守り続けました。

 その頃、マッカーサー元帥の下に到着した第1海兵師団長のオリバー・スミス少将は、元帥の口から驚くべき計画を聞かされます。ソウル近郊にある仁川。干潮と満潮の差が10メートル。海岸線は岸壁。突き出た島が一つ。上陸作戦を実施するには、あまりにも条件の悪すぎる地点への上陸作戦計画です。

 当初は、反対していた海兵隊側ですが、Semper Fidelisをモットーとし、また毎回、存続の危機に奔走されている海兵隊として、また戦略的には確かに形勢逆転が可能な仁川上陸作戦を実行することを決定します。

 この作戦準備中に、前線から、第5海兵連隊が引き抜かれ、マッカーサー元帥とウォーカー中将との間に多少のやりとりがありましたが、何しろ、マッカーサー元帥です。そこはごり押しで、第5海兵連隊を引き抜き、第1海兵連隊と第7海兵連隊と合流します。

 第1海兵師団と上陸するのは、太平洋でも海兵隊と共に戦った第7歩兵師団。

※編成されたのは第10軍。

 その日1950年9月15日の朝は、上陸前の景気づけでありながら、縁起の悪い食事とも呼ばれるステーキなどの豪華なメニューではなく、普段通りのコンビーフハッシュにゆで卵が提供されました。


日本製のはしごで上陸する海兵隊員
岸壁を上りきろうとしている中央の人物は名誉勲章受章者ロペス中尉

 第1海兵師団と第7歩兵師団が、仁川へと向かい、日本製のハシゴを岸壁にかけ、また爆薬で穴を開けて彼らは次々と上陸。守備部隊も少なく、多少の混乱は例によってあった物のその日の内に上陸部隊は仁川を制圧します。

 これに伴い釜山方面の第8軍も反撃を開始しますが、20日まで戦況は変化が無く、北への進軍も同様。

 陸軍が投入されるという話を聞いた海兵隊は名誉もかけてソウル方面への攻勢を開始、26日にソウル市街に突入し、28日に奪回。この作戦により、海兵隊は遂にアメリカ軍に必要不可欠な軍としての地位を―やっと―確保します。

 作戦完了後、10月5日に仁川まで帰還した海兵隊は次に元山上陸作戦を行います。しかし、機雷処理に手間取っている間に地上部隊が上陸地点を占領。更に10月7日に、国連総会によって国連軍(アメリカ以外にイギリス、トルコ、カナダ、オーストラリア、フィリピン、オランダなど)の38度線越えがあり、10月20日に平壌を攻略していたために平壌攻略を狙った作戦は開始する前に終わっていました。

※ちなみに、この時、機雷処理に当たったのが自衛隊(当時海上保安庁掃海隊)の掃海艇。

 10月25日、中国共産軍(建前上、義勇軍)が総兵力30万によって大攻勢を開始。予期していなかった国連軍は各地で撃破され、15%が全滅(死傷者25000名)。

 間の悪いことに敵の兵力を見誤った司令部の判断によって、11月24日にクリスマス攻勢が開始、これが完全に中国軍の攻勢を受けて戦線は完全に崩壊。中でも第2歩兵師団は10キロの後退路を進軍中に包囲され、事実上、壊滅し、旅順に到着するまでに5000名の兵員を失い、重機材のほとんどを失うというアメリカ陸軍史上最大の悲劇と呼ばれる事件が起きていました。

 一方で、海兵隊はユダム・ニまで第1海兵師団が進出していましたが、これによって孤立。撤退を開始しなければならなくなります。第2歩兵師団壊滅の直後だったために一端は空路による撤退を上層部は計画しますが、師団長オリバー・スミス少将は、これを拒否。最後まで残留する部隊がいなければならないことが海兵隊の伝統にそぐわないという理由でした。

 こうして12月1日、伝説となる敵中突破が開始。出発前に負傷者を空路で搬出した後に移動を開始。これに中国軍第9軍集団12個師団が包囲殲滅をはかろうと攻勢をかけます。

 海兵隊は航空支援を受けて、これを退け続け、12月11日、第3歩兵師団の待つ真興里に到達。兵力の50%の損失を受けたものの、逆に包囲殲滅を狙った中国軍第9軍集団12個師団の方は壊滅していました。

 翌年、中国軍は再度攻勢を開始しますが、この時、第9軍集団は参加できず、中途半端なものに終わります。

 しかし、この時期、ずたずたになった戦線を立て直すべく、奔走していたウォーカー中将が事故死。後任に選ばれたのは第18空挺軍団長の"喧嘩屋マック"の異名を持つマシュー・リッジウェー中将。

 将軍の就任と同時に第10軍団は第8軍に編入。12月31日の攻勢を支えきれなかった国連軍でしたが、第1海兵師団の包囲殲滅を行い逆に壊滅した中国軍第9軍集団は参加できず。

 海兵隊は、予備兵力としてゲリラ掃討作戦に従事。1951年1月11日からの作戦で、2月中旬までにゲリラをほぼ殲滅することに成功します。

 一方、中国軍の正月攻勢は1月15日に終息。これを機に反撃を試みますが、二月攻勢で再度国連軍は後退。それでも、一週間で返り討ちにします。

 ここでリッジウェー中将は、そのままずばりの作戦名「キラー」を発動。そのものずばりで、露骨すぎるという批判もありましたが、リッジウェー中将的には、普通の作戦名でしょう。

 第1海兵師団は第9軍集団の先鋒として進軍しますが、作戦開始直後からの悪天候などに悩まされ、作戦はぐだぐだの内に終了。反省したリッジウェー中将は、気分を変えるために「リッパー作戦」を発動。言葉が違うだけで、意味することは「殺し屋」だったりします。

 それで第1海兵師団長のスミス少将が、リッジウェー中将のセンスに感激したというのもどうかという世界ですが、この作戦も第187空挺連隊のパラシュート降下などが行われたものの敵の撤退の方が早く捕捉には失敗します。

 しかし、中国軍の息切れは明らかで、第1海兵師団は第1騎兵師団と交代して戦陣に立ち、4月4日のラグド作戦で38度線を突破します。

 このころ、マッカーサーと大統領の確執が深刻化。共和党候補を狙ったマッカーサーと民主党のトルーマン大統領ではそりが合うはずもなく、4月11日、マッカーサー元帥は解任となりました。

 その後任にリッジウェー中将の就任が決定しますが、その間に4月22日に中国軍の4月攻勢が始まります。

※リッジウェー中将はサスペンダーの手榴弾がトレードマークで、第2次世界大戦から、朝鮮戦争にいたるまでこのスタイルを通していました。羽田空港に降り立った時もサスペンダーには手榴弾が。出迎えの日本政府関係者は近寄るのを躊躇った逸話も残しました。

 4月攻勢が叩きつぶされ、5月攻勢が始まります。第1海兵師団は第10軍団に配置換えされ、中国軍の攻勢を跳ね返します。

 1952年7月を持って戦線は膠着。国連軍は攻勢をかけるものの中国軍は持ちこたえ、逆に中国軍の攻勢を国連軍は退け続けます。

 1952年5月12日、かつてイタリア戦線のアメリカ軍を率いたクラーク将軍が国連軍司令官に就任し、11月5日には英雄アイゼンハワーが大統領に就任。休戦に向けての交渉が進みます。

 1953年7月27日、休戦協定が調印。同日、休戦協定発令によって朝鮮の戦いは休戦に入ります。

※なお、現在も朝鮮戦争は継続中です。

参加人員
戦死
負傷
名誉勲章
約424,000
4,267
23,744
42
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