名誉勲章受章者-L-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ジェームズ・D・ラ=ベル |
一等兵 |
1945 |
硫黄島 |
ハワード・V・リー |
大尉 |
1966 |
ベトナム |
ジョン・H・レイムス |
少尉 |
1945 |
硫黄島 |
ジョセフ・レオナルド |
兵 |
1901 |
フィリピン |
ハーバート・A・リトルトン |
一等兵 |
1951 |
朝鮮 |
ジェームズ・E・リヴィングストン |
大尉 |
1968 |
ベトナム |
バルドメロ・ロペス |
中尉 |
1951 |
朝鮮 |
ジャクリン・H・ルーカス |
一等兵 |
1945 |
硫黄島 |
ジャック・ラムス |
中尉 |
1945 |
硫黄島 |
受賞者K-2 |
ジェームズ・D・ラベル一等兵
1945年:硫黄島
第5海兵師団第27海兵連隊武器中隊
1925年11月22日 | ミネソタ州コロンビアハイツで生まれる |
1943年11月18日 | 海兵隊予備役 |
1945年3月8日 | 戦死 |
感状:
1945年3月8日、火山列島内硫黄島の攻略中、敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第27海兵連隊武器中隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
戦いの重要な局面の間に前線内の間隙を満たし、ラベル一等兵は他の二人の海兵隊員と共にたこつぼの中を丹念に調べ、そして手榴弾と共に我々の前線を通り抜け、道を爆破しようというしつこい試みの気味の悪さに気付き、危険な夜の間、不寝番の見張りを抜け目なく行い続けて、着実に集中すると共に彼自身専念した。
突然、敵軍の手榴弾が彼のたこつぼ内へ飛び越えて来て落下した。素早く状況を判断し、彼はもし可能であるなら、他の人々を救おうと決心し、大声で警告を発し、そして即座にミサイルの上に飛び込み、彼自身の身体によって爆発の衝撃を吸収し、そしてそれにより致命傷から彼の戦友たちを守った。
勇敢そして不屈の彼は躊躇うことなく彼自身の生き残りのチャンスを譲り、彼の同僚の海兵隊員たちが熱狂的な敵に対する情け容赦のない戦闘へ向かわせる力となり、そして彼の不屈の勇気、冷静な決意と確実な死に直面しての献身の勇敢な精神はラベル一等兵と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ハワード・V・リー大尉
1966年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第2大隊E中隊長
1933年8月1日 | ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれる |
1955年12月 | 海兵隊予備役少尉 |
1958年1月 | 海兵隊正規入隊(中尉) |
1966年4月 | 第4海兵連隊第2大隊E中隊長 |
1966年8月 | 名誉勲章 |
1970年6月 | 二度目のベトナムにて二つ目のブロンズスター(V) |
1975年 | 中佐にて退役 |
感状:
1966年8月8日及び9日、ベトナム共和国カム・ロー近郊にて第3海兵師団第4海兵連隊E中隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
リー少佐(当時大尉)の中隊の一個小隊が、敵勢力圏に深く入った作戦中に、大規模なベトナム軍部隊によって攻撃され、そして包囲された。
部隊が多数の死傷者を生じていたことを悟り、効果的なリーダーシップが奪われ、そして、完全に敵によってその時更に激しい攻撃下に小隊がいたことを知り、リー少佐は7人の部下を連れて行き、そしてヘリコプターによって包囲された小隊を増強することを次に実施した。
リー少佐は、彼の部下の二人と共にヘリコプターから降りると、壊滅的な敵の銃撃を恐れることなく、防御戦の中へと彼らを導き、そこで彼は大胆に陣地から陣地へと移動して酷使された兵士たちを指揮し、そして激励した。
敵はそれらの部隊の完全な力でそれから大規模な攻撃を開始した。
彼の目も含めて、彼の身体のいく箇所かは敵の手榴弾からの破片によってひどく負傷していたにもかかわらず、リー少佐は怯むことなく夜を徹しての勇敢な防衛を指揮し、支援砲撃を調整し、そして小隊の窮地を高位の通知へ報せ続けた。
翌朝、彼は彼の負傷によって倒れ、そして指揮の断念を強いられた。
しかしながら、海兵隊員の小さな一団は彼らの陣地を確保し続け、そして次の朝に撤退がもたらされるまで彼らは厳しい6時間ずっと、繰り返し多くの凶暴な敵の攻撃を撃退していた。
リー少佐の戦いは捕獲から彼の部下を救い、生命の損失を最小にし、そして敵に厳しい敗北を与えた。
彼の不屈の闘争心、素晴らしいリーダーシップ、そして恐ろしい見込みに直面しての偉大な個人的勇気は、彼自身に最高の名誉をもたらし、そして海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を維持した。
リンドン・B・ジョンソン
ジョン・H・レイムズ少尉
1945年:硫黄島
第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊B中隊長
1921年6月8日 | イリノイ州シカゴで生まれる |
1942年11月27日 | 海兵隊予備役 |
1944年3月1日 | 少尉任官 |
1945年3月8日 | 名誉勲章 |
1946年1月25日 | 予備役 |
1962年7月1日 | 大尉にて退役 |
1985年6月 | 死去 |
感状:
1945年3月8日、火山列島硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第3海兵師団第9回兵連隊第1大隊B中隊の指揮官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
優勢な日本軍の丘陣地の岩に囲まれた要塞に対する奇襲攻撃を開始し、レイムズ少尉は不屈の決意と共に彼の中隊の前進に拍車をかけ、そして巧みな指揮で彼の突撃小隊を洞窟に陣取る敵兵士と重厚に要塞化された掩蔽壕に向け、午後遅くに目標を確保することに成功した。
彼の突撃小隊が、この新たに勝ち取った陣地で、隣接した部隊の約400ヤード前方と司令部との全ての連絡が途絶え、孤立したことが明確になったとき、彼は自ら前進し、そして掃射を受けている地域の広々とした場所を横切り、電話線を引いた。
彼が前方の小隊に合流した後、彼の司令部は撤退を命じ、彼はただちに従い、彼の兵士たちを巧みに何事もなく撤退させた。
後方に到着するや否や、彼は数人の死傷者が前線向こうの放棄された丘陣地に残されていたと言うことを知らされた。
戦いの緊張と極度の疲労からひどく苦しんでいたにもかかわらず、彼は直ちに暗闇と敵の機関銃火が激しく撃ち込まれているにもかかわらず前進した。
一人の重傷を負った海兵隊員を捜し出して無事に運び、そしてそれから、その夜、三度、敵の銃撃の激しい攻撃に対して走り、再び彼の銃弾で穴だらけにされた死の罠への曲がりくねった道に取りかかり、そして他の彼の負傷した部下を救出した。
一人の勇敢なリーダーが、常に彼の部下の福利のために、レイムズ少尉が極めて困難な状況下で彼の戦闘で疲労した中隊の力を調整して堅実に維持し、そして彼の大胆な戦術によって攻撃性を維持し、そして全ての個人的危険を英雄的に無視し、この極めて重要な日本軍基地に対する彼の師団の作戦の成功に不可欠な貢献をした。
彼の熱狂的な抵抗に直面しての勇敢な行為は合衆国海兵隊の最高の伝統を維持し、そして高めた。
ハリー・S・トルーマン
ジョセフ・レオナルド兵
1901年:フィリピン
海軍分遣隊55号
1876年8月28日 | ニューヨーク州シェルビーセンターで生まれる |
感状:
1899年3月25日、27日、そして29日、及び4月4日に第8陸軍軍団とともに戦いにおいて、敵の面前での抜群の行為による。
ハーバート・A・リトルトン一等兵
1951年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊C中隊
1930年7月1日 | アーカンソー州メナで生まれる |
1948年7月29日 | 海兵隊予備役 |
1951年4月22日 | 戦死 |
感状:
1951年4月22日、韓国の敵侵略者部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第1大隊C中隊の砲兵前線観測チーム所属の通信員として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
巧妙に隠蔽され、そして数において優勢な敵部隊が彼の中隊に対する陣地側近くから、激しい夜襲を開始したとき、当直していたリトルトン一等兵は素早く前方の観測チームに警告を発し、そして直ちに敵軍部隊の上への砲撃命令を支援するために有利な陣地へと移動した。
チームの残りが打擲した直後に彼の好位置の中へ敵の手榴弾が投げ入れられたとき、彼は躊躇うことなく死のミサイルの上に彼自身を投げ出し、彼自身の身体によって、その完全な粉砕する衝撃を吸収した。
彼の機敏な行動と自己犠牲の英雄的精神によって、彼は重傷或いは死から彼のチームの他のメンバーを救い、そして彼らに敵の攻撃の撃退において結果的に極めて重要な作戦を続けることができるようにした。
彼のほぼ確実な死に直面しての不屈の勇気は、リトルトン一等兵と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジェームズ・E・リヴィングストン大尉
1968年:ベトナム
第9水陸両用旅団第4海兵連隊第2大隊E中隊長
1940年1月12日 | ジョージア州テルフェア群タウンズで生まれる |
1962年6月 | 海兵隊少尉 |
1968年5月2日 | 名誉勲章 |
1975年4月30日 | ベトナム撤退作戦フリークウェントウィンド作戦の作戦将校 |
1991年7月8日 | 第4海兵師団長(暫定) |
1994年10月 | 海兵隊予備役司令官 |
1995年9月1日 | 少将にて退役 |
感状:
ベトナム共和国における敵部隊に対する戦闘において第9水陸両用旅団第4海兵連隊第2大隊E中隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1968年5月2日、E中隊が大隊の残りから前の晩に孤立した一個海兵中隊が敵によって襲撃を受けたとき、ダイ・ドーの非常に防備を固めた村への決然とした襲撃を開始した。
選別した要員を巧みに用いてリヴィングストン大尉は激しい敵の銃撃下、危険な見通しの良い水田の500メートル向こう側の突撃陣地まで彼の部下を移動させた。
彼の近くに敵の弾が着弾するのを無視し、彼は村の中で敵の銃座に対する激しい突撃において彼の部下を恐れることなく導いた。
支援兵器の銃撃を聴視しつつ、リヴィングストン大尉は最も激しい抵抗の地点へと移動し、彼の海兵隊員たちへ激励の言葉を叫び、彼らの銃撃を指揮し、そして時たま、繰り返される攻撃の勢いの現象に拍車をかけた。
手榴弾の破片によって二度ひどい傷を負ったにもかかわらず、彼は医療処理を拒絶し、そして100を越える相互に支援する掩蔽壕の破壊へと彼の部下を勇敢に導き、彼らの陣地から残った敵を追い出し、そして立ち往生した海兵中隊に対する圧力を和らげた。
二個中隊が陣地を固め、そして死傷者を避難させたとき、三つ目の中隊がディン・トーの隣接した村に襲撃を開始しようと友軍前線を越えていったが、その結果、敵大隊の激しい反撃によって停止させられた。
迅速に状況を算定し、そして激しく大量の敵の銃撃を無視し、リヴィングストン大尉は大胆に彼の中隊の残っている実働可能な部下を動かし、激しい交戦を行う海兵隊員とともに協力し、敵の反撃を阻止した。
三つ目の負傷で、歩くことが不可能となった彼は断固として危険にさらされた地域に留まり、より攻撃に耐えうる場所へ彼の部下を配置し、そして死傷者の撤退を指揮した。
彼の部下の安全の確信が得られたとき、彼は彼自身の避難を許した。
リヴィングストン大尉の勇敢な行為は海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を高めた。
リチャード・M・ニクソン
バルドメロ・ロペス中尉
1950年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊A中隊
1925年8月23日 | フロリダ州タンパで生まれる |
1943年7月8日 | 海軍入隊(-1944年6月11日まで) |
1947年6月6日 | 海軍士官学校卒業 |
1950年9月15日 | 戦死 |
感状:
1950年9月15日、韓国仁川侵攻中、敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第5回兵連隊第1大隊A中隊のライフル小隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の小隊と共に、突撃波で上陸した後、ロペス中尉は即座に敵海岸防衛の減少において交戦した。
敵軍の銃撃に彼自身をさらけ出し、彼は掩蔽壕に平行して前に進み、そして海岸の、その区域で釘付けにしていた次の機関銃座の中に手榴弾を投げる準備をした。
敵の自動火器によって銃撃下に捕らえられ、そして彼が投げるために彼の腕を持ち上げたとき、右肩と胸に被弾し、彼は仰向けに倒れ、致命的ミサイルを落とした。
僅かな後、彼は手榴弾を取り戻すための努力で彼の身体を前方へひねって引きずり、そしてそれを投げようとした。
痛みと失血からの危篤状態で、そしてそれを投げるために十分しっかりと手榴弾を握ることができない彼は、彼の部下の生命を危険にさらすよりむしろ自らを犠牲にすることを決め、そして彼の傷ついた右腕の掃くような動作で、彼の下に手榴弾を抱き抱え、そして爆発の完全な衝撃を吸収した。
彼の並外れた勇気、不屈の精神と義務への忠誠はロペス中尉と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジャクリン・H・ルーカス一等兵
1945年:硫黄島
第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊
1928年2月14日 | ノースカロライナ州プリマスで生まれる |
1942年8月6日 | 海兵隊予備役(17歳と偽称) |
1943年11月4日 | VAC第6兵站基地 |
1945年1月10日 | 戦闘部隊に加わるために脱走 |
1945年2月8日 | 硫黄島へ向かうUSSディーエルの中で自首。そのまま第5海兵師団司令部中隊に編入 |
1945年2月14日 | 名誉勲章 |
1945年8月 | 脱走の記録抹消 |
1945年9月18日 | 除隊 |
2002年 | ドキュメンタリー番組平和の価値に出演。硫黄島再来訪 |
2008年6月5日 | 死去 |
感状:
1945年2月20日、火山列島硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘の間、第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
Dプラス1日に危険な密接したごく近い寄り添った渓谷の流動的ではっきりしない前線を通って忍び寄る間を通じ、ルーカス一等兵と他の三人は突然ライフルの銃撃と手榴弾と共に獰猛に攻撃する敵軍パトロールによる待ち伏せを受けた。
小規模の集団の生命が彼らの正面に落下した二つの手榴弾によって危険にさらされたとき、迅速に行動し、ルーカス一等兵は躊躇うことなく一つの手榴弾の上に彼の戦友たちを越えて彼自身を投げ出し、そしてもう一つの手榴弾を彼の下へと引き込み、衝撃と非常に危険な飛んでくる破片から彼の仲間たちを保護するために彼自身の身体に爆発の爆風の力の全てを吸収した。
彼の鼓舞する行動と自己犠牲の勇敢な精神により、彼は彼の戦友たちを致命傷或いは確実な死から守っただけではなく、彼らに日本軍パトロールを潰走させ、そして前進を続けられるようにした。
彼の非常に勇敢な自主性と忠誠心はルーカス一等兵と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
ハリー・S・トルーマン
ジャック・ラマス中尉
1945年:硫黄島
第5海兵師団第27海兵連隊第2大隊E中隊
1915年10月22日 | テキサス州エニーで生まれる |
1937年 | テキサス軍 |
1941年 | ニューヨーク・ジャイアンツと選手契約 |
1942年1月30日 | 海兵隊予備役 |
1942年11月30日 | 少尉任官 |
1945年3月8日 | 戦死 |
感状:
1945年3月8日、火山列島硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第27海兵連隊第2大隊E中隊所属のライフル小隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
昼と夜の二日間を戦った後、大胆な決断で彼の突撃戦術を再開した。
ラムス中尉は相互に支援しあう陣地の連絡網に巧妙に確立された敵に対し、ゆっくりと彼の小隊を前進させた。
突如、敵軍の銃撃の激しい集中によって止められ、彼は日本軍陣地を無力化する努力で彼の前線を躊躇うことなく前進させた。
敵の手榴弾が間近で爆発したとき、地面に叩き付けられたが、彼は即座に立ち直り、そして再び激しい集中砲火にもかかわらず、前へと進ませ、迅速に使用されている銃座を攻撃し、そして破壊した。
すぐに支援する銃座の守備隊による銃撃下につかまり、そして更に敵軍のライフルの容赦なく激しい銃撃によって襲われ、彼は二個目の手榴弾の衝撃の下、倒されたが、勇敢に痛む肩の怪我を気にすることなく、忠実に彼の英雄的な単独突撃を継続し、そして二つ目の銃座へと突進し、全ての兵員を壊滅させた。
その後、彼の小隊陣地へと戻り、彼は前進するように彼の部下を励まし、他の頑強に持ち堪える日本軍砲座に対し、支援戦車の砲撃を指揮し、銃撃下の彼の前線を恐れることなく、渡り歩いた。
壊滅的な弾幕によって再び襲われ、彼は遮る物の無い場所へと再び移動し、三つ目のしっかりと要塞化された施設へ突進し、そして防御する敵を殺害した。
全ての抵抗を叩き潰す決意で、彼は彼の部下を断固として先導し、自ら彼のカービンとともに、そして狂信的な抵抗を組織的に制圧するまで、たこつぼと蜘蛛の巣を攻撃しているとき、地雷を踏み、彼は致命傷を負った。
彼の傑出した勇気、圧倒的な勝算に直面しての熟練した戦術と断固とした忍耐により、ラムス中尉は、彼の勇敢な海兵隊員たちを、北方へと情け容赦なく駆り立て続けさせるよう奮い立たせ、それによって彼の中隊の作戦の成功にいたる大きな要因となった。
彼の不屈のリーダーシップと義務を通しての不動の忠誠は合衆国海軍職務の最高の伝統を高め、そして支えた。
彼は彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
受賞者K-2 |