名誉勲章受章者-M-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ジョン・F・マッキー |
伍長 |
1862 |
フォート・ダーリン |
ヘンリー・L・マクニール |
兵 |
1898 |
キューバ |
ハリー・L・マーティン |
中尉 |
1945 |
硫黄島 |
ジェームズ・マーティン |
軍曹 |
1864 |
モーガン砦 |
ガリー・W・マーティニ |
一等兵 |
1967 |
ベトナム |
レオナルド・F・メイソン |
一等兵 |
1944 |
グアム |
クレランス・エドワード・マシアス |
兵 |
1900 |
中国(天津) |
ダニエル・P・マシューズ |
軍曹 |
1953 |
朝鮮 |
フレデリック・W・マウザート三世 |
軍曹 |
1951 |
朝鮮 |
ラリー・L・マクサム |
伍長 |
1968 |
ベトナム |
受賞者L |
ジョン・F・マッキー伍長
1862年:フォート・ダーリン
USSカリーナ海軍分遣隊17号
※海兵隊初の名誉勲章受章者
1836年 | ニューヨーク州ニューヨークで生まれる |
1861年4月24日 | 海兵隊入隊 |
1862年5月15日 | 名誉勲章 |
1865年8月23日 | 名誉除隊 |
1910年6月18日 | 死去 |
感状:
1862年5月15日、ダーリンの絶壁で、フォート・ダーリンの攻撃においてUSSカリーナに乗船中していた。敵の砲火が彼の船の甲板を薙ぎ払った際、マッキー伍長は恐れることなく彼のマスケット銃を海岸に沿った射撃口に対して撃ち続け、戦闘において負傷者と戦死者によって生じた銃の間隙を埋めるように命じたとき、巧みに武器と人員を配置した。
ヘンリー・L・マクニール兵
1898年:キューバ
USSブルックリン海軍分遣隊526号
1875年3月22日 | ペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれる |
1896年11月15日 | 海兵隊入隊 |
1899年8月9日 | 名誉勲章 |
1901年12月26日 | 除隊後、再志願 |
1906年2月15日 | 逃亡 |
1950年3月13日 | 死去 |
感状:
1898年7月3日、サンティアゴ・ド・キューバの戦いの戦闘中、USSブルックリンに乗船していた。
敵の銃撃に勇敢に立ち向かいマクニールは、この戦いを通じて勇敢な行為を示した。
ハリー・L・マーティン中尉
1945年:硫黄島
第5海兵師団第27海兵連隊武器中隊
1925年11月22日 | ミネソタ州コロンビアハイツで生まれる |
1943年8月25日 | 海兵隊予備役少尉 |
1945年3月1日 | 中尉昇進 |
1945年3月26日 | 戦死 |
※硫黄島で、最後に名誉勲章を受章し、そして最後に戦死した人物。
感状:
1945年3月26日、火山列島硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第5工兵大隊C中隊所属の小隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
夜明けの数分前に始まった激しい敵の攻撃によって突破された第5工兵大隊野営地の彼の戦区で、マーティン中尉は彼のたこつぼの最も近くの海兵隊員たちとともに直ちに火線を組織化し、そしてじきに日本軍の向こう見ずな突進を阻止することに成功した。
敵により突破された陣地において閉じこめられた彼の部下の数人を救う決意を固め、彼は包囲された海兵隊員たちまで日本軍を通過できるまで激しい敵軍の銃撃に抵抗した。
二つのひどい怪我を負ったにもかかわらず、彼は彼を阻止しようと試みた日本軍を壊滅させ、彼の包囲された部下を突き止め、彼らを自身の前線まで導いた。
侵入している敵4名が、放棄された機関銃ピットを占領し、そして彼の戦区に手榴弾の弾幕を投げ付けたとき、マーティン中尉は単独で、そしてピストルだけで武装し、大胆に敵軍陣地へ突進し、そしてその全ての占有者を殺害した。
彼の残った戦友が、もう一つの組織的な攻撃を撃退できなかったことを悟り、彼は彼の部下へ続くように呼び掛け、そして、それから頑強な敵部隊の真っ直中へと突進し、彼が手榴弾によって致命傷を負い倒れるまで、彼の武器を撃ち続け、そしてそれらを追い散らした。
彼の際立った勇気、不屈の闘争心と、圧倒的な勝算に直面しての断固とした決意により、マーティン中尉は調整された日本軍の攻撃を永久に混乱させ、そして彼自身と隣接した小隊における生命の更なる損失を妨げ、そして彼の鼓舞するリーダーシップと揺るぎない忠誠は彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジェームズ・マーティン軍曹
1864年:モーガン砦
USSリッチモンド海軍分遣隊45号
1826年 | アイルランド デリーで生まれる |
1847年7月9日 | 海兵隊入隊 |
1864年12月31日 | 名誉勲章 |
1879年3月27日 | 名誉除隊 |
1898年10月29日 | 死去 |
感状:
1864年8月5日、モビール湾における衝角艦テネシーとともに、砲艦そして反乱軍要塞に対する戦闘においてUSSリッチモンドに乗船する砲術長だった。
敵の砲撃が艦の甲板をかき回し、彼の船への莫大な損害と船内の多数の人の損失を与えたにもかかわらず、マーティン軍曹は激しい2時間の戦闘を通じて技術と勇気と共に彼の砲で戦い、モーガン砦の砲台の破壊と損害を与え、そして反乱軍衝角艦テネシーを奪取する結果をもたらした。
ガリー・W・マーティニ一等兵
1967年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊F中隊
1948年9月21日 | ヴァージニア州レキシントンで生まれる |
1966年3月3日 | 海兵隊入隊 |
1967年4月21日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国における第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊F中隊のライフルマンとして従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1967年4月21日のユニオン作戦中、F中隊の要員は、ビン・ソンに攻撃的な作戦を行い、堅固な塹壕の敵部隊と遭遇し、それらと交戦するために即座に配置に付いた。
マティーニ一等兵の小隊の海兵隊員たちが敵の塹壕線の20メートル内まで開けた水田を横切って突撃したとき、彼らは突然手榴弾、激しい小火器、自動火器、そして迫撃砲火によって打撃を受けた。
敵の猛攻撃は海兵隊員たちの14人を殺害し、そして18人を負傷させ、そして低い水田の畦道の背後へ降りた小隊の残りを釘付けにした。
差し迫った危機に直面し、マーティニ一等兵は敵軍の銃撃に絶えずさらされていた敵陣地の場所の15メートル以内の開けた場所を前進するため、直ちに畦道を匍匐で乗り越え、彼は手榴弾を投げ付けて、敵の何人かを殺害した。
強烈な銃撃を通って這い戻り、彼は塹壕線の比較的安全なところへ移動して待っていた彼の小隊と再び合流した。
この場所で彼は掃射されている水田の中で無力に横たわる彼の負傷した戦友の数人に気付いた。
彼は一人が既に殺害されていたことを知っていたにもかかわらず、負傷者の救出を試み、マーティン一等兵は開けた場所を大急ぎで通過し、味方陣地まで戦友を引きずり戻した。
この最初の勇気ある救出の間に重傷を負ったにもかかわらず、彼は敵塹壕線の前面僅か20メートルに負傷して横たわる他の仲間を救援するために再び絶えることのない激しい敵銃撃に勇敢に立ち向かった。
彼が倒れた海兵隊員に達したとき、彼は致命傷を受けたが、彼は自身の状態を無視し、彼は彼の小隊の陣地に向かって海兵隊員を引きずり始めた。
彼の部隊の者が彼の救援のため、彼らの陣地の防御を維持しようと試みていることに気づき、彼らの安全だけを気にかけ、彼は彼らを援護下に止まるように呼び掛け、そそして彼が負傷に屈し、彼が倒れる前に彼の傷ついた戦友を安全な場所まで引っ張ることが可能なところまで動かす最後の最高の努力を終えた。
勇敢な、そして不屈のマーティニ一等兵が躊躇うことなく彼の戦友二人を救い、そして彼の小隊の残りの安全を保証するために彼自身の生命を与えた。
彼の際立った勇気、英雄的な闘争心と義務への無私の忠誠は彼自身、海兵隊、そして合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リンドン・B・ジョンソン
レオナルド・F・メイソン一等兵
1944年:グアム
第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊
1920年2月2日 | ケンタッキー州ミドルスボロで生まれる |
1942年 | 海兵隊入隊 |
1944年 | ブーゲンビル上陸 |
1944年7月22日 | 名誉勲章 |
1944年7月23日 | 死亡 |
感状:
1944年7月22日、マーシャル諸島グアム島海岸アサン−アデルアップの敵日本軍部隊に対する戦闘において第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊所属の自動小銃兵として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
狭い峡谷を通り抜け、彼の小隊の前進を阻んでいる敵軍陣地を掃討する間に15ヤード以上離れた二挺の敵機関銃による銃撃下に突然つかまり、メイソン一等兵は単独で、そして完全に彼自身の自発性で峡谷の外へ登り、そして敵陣地の後方に向かってそれに平行して移動し、そして腕と肩に繰り返し負傷し、メイソン一等兵は厳格に前進を強行し、そしてちょうど目標に達したとき、彼が後に死ぬこととなった致命傷となる敵機関銃火の集中射撃によって再び撃たれた。
彼自身の差し迫った危機を勇敢に無視するとともに、彼は耐え、5人の日本兵を殺害し、もう一人を負傷させ、敵軍陣地を掃討し、そして避難することに同意する前の彼の戦闘の結果を報告するために彼の小隊へ再合流した。
彼のほぼ確実無しに直面しての非常に英雄的な行動は彼の小隊が、その作戦を達成することを可能にし、そしてメイソン一等兵と合衆国海軍に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
クレランス・E・マシアス兵
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊55号
1876年12月12日 | ペンシルバニア州ロイヤルトンで生まれる |
感状:
1900年7月13日、中国天津へ前進中に敵の面前でマシアスは立派な行為により彼自身を際立たせた。
ダニエル・P・マシューズ軍曹
1953年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊F中隊
1931年12月31日 | カリフォルニア州ヴァンナイズで生まれる |
1951年2月21日 | 海兵隊入隊 |
1953年3月28日 | 戦死 |
感状:
1953年3月28日、韓国の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第2大隊F中隊の分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
抵抗の主力線の遙か前方の敵の確保した極めて有効な前哨点への6度に渡る突撃を退けていた堅固な塹壕地に対する反撃に参加し、マシューズ軍曹は、前哨点の頂点に置かれた敵機関銃からの銃撃の残忍な掃射によって釘付けにされた彼の分隊を攻撃に至るまで大胆に前進させた。
破壊的な銃撃の矛先に完全にさらされた開けた地帯に横たわる負傷した部下を運びだそうとする衛生下士官を妨害する致命的な銃撃に気づき、彼は敵軍機関銃陣地の根拠地へ彼の前進に取りかかり、そして、銃を囲む岩の要塞の上へと飛び、完全な奇襲によって敵を動揺させ、彼のライフルと共に敵の銃座へと単騎突進した。
彼の接近する方向を変えるために銃撃の壊滅的な出迎えを敵がもたらしたとき、重傷を負ったにもかかわらず、彼は彼の雄々しい一騎駆けを勇敢に続け、そして致命的に有効性の彼のライフルを発砲し、敵の二人を殺害することに成功し、三分の一を潰走させ、そして敵の武器を完全に沈黙させ、それによって安全な場所まで撃たれた海兵隊員の救助を彼の戦友たちに可能にさせた。
救援が彼の元へ達する前に彼は怪我に屈するが、マシューズ軍曹の彼の不屈の闘争心、雄々しい自発性、そしてほぼ確実な死に直面しての断固たる決意により、彼を見た者全てを鼓舞するのに役立ち、そして直ちに彼の負傷した戦友の生命を救う助けとなった。
彼の個人的勇気は、彼自身に最高の名誉をもたらし、そして合衆国海軍職務の最高の伝統を高めた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
フレデリック・W・マウザートIII世軍曹
1951年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊B中隊
1930年5月2日 | ニューヨーク州ケンブリッジで生まれる |
1948年6月21日 | 海兵隊入隊 |
1951年9月12日 | 戦死 |
感状:
1951年9月12日、韓国の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第1大隊B中隊の分隊長として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の中隊と共に釘付けにされ、そして673高地上の非常に要塞化された深く堅牢な敵軍拠点から浴びせられる残忍な機関銃、ライフル、そして迫撃砲火の下、多数の死傷者をこうむり、マウザート軍曹は彼の援護陣地を躊躇うことなく離れ、そして前線の比較的安全な場所まで致命傷を負った二人の部下を連れ戻すため、厳しい地雷原と掃射を受けている一帯を走り抜けた。
彼の自発的な行動中に頭部に重傷を負ったにもかかわらず、彼は頑強に撤退を拒絶し、彼は彼の分隊とともに留まることを強調し、そして直後に突撃を命じられた彼の小隊とともに、重要な陣地を確保し、そして掩蔽壕の文字通り難攻不落な連なりの一つに対する激しい銃剣突撃において彼の部下を導いた。
気絶し、そして彼のヘルメットに別な銃弾が命中したとき、地面に叩き付けられて、彼は、意識を取り戻し、彼は立ち上がり、そして彼の疾走を再開し、彼自身で機関銃を沈黙させ、そして一帯における幾つかの他の砲座を排除において彼の部下を導いた。
迅速に丘の頂上の最終目標への再戦のために彼の部隊を再編成し、マウザート軍曹は敵の銃撃が勢いを増したとき、大胆に彼の陣地を離れ、彼自身の定めた目標へ、機関銃に直面する中、たった一人で大胆に前進し、彼の部下から銃撃を引き離し、そして彼らに突撃の所定の位置まで移動することを可能にした。
その兆しを敵の銃撃が見出したとき、再び重傷を負い、彼は、なおも救援を拒み、そして狂信的侵略者の最後の防波堤である頂上の機関銃陣地と掩蔽壕への突撃の戦闘に立ち続けた。
銃撃の壁へ飛び込み、彼が爆発した手榴弾と機関銃火によって致命傷を負う前に、彼は手榴弾でもう一つの機関銃を破壊した。
大胆、そして不屈のマウザート軍曹は、彼の不屈の精神、偉大なる個人的勇気とほぼ確実な死に直面しての驚くべき英雄的行為により、彼の部下を掃討へと奮い立たせ、そして
目標を突破し、最終的に確保させた。
彼の最後まで屈することのない勇気は彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ラリー・L・マクサム伍長
1968年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第1大隊D中隊
1948年1月9日 | カリフォルニア州グレンデールで生まれる |
1965年3月8日 | 海兵隊入隊 |
1968年2月2日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国における第3海兵師団第4海兵連隊第1大隊D中隊所属の射撃班長として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1968年2月2日、カム・ロー管区司令部は、防衛線の一部を破壊する数において優勢な敵部隊からの極めて激しいロケット、野砲、迫撃砲そして無反動砲火の下にさらされた。
マクサム伍長は、残った鉄条網の向こう側で突撃のために敵が集結していることに気付き、彼の射撃副班長に射撃班の指揮を執るように命じ、そして防衛線の弱体化した部分へ躊躇うことなくへ向かった。
集中した敵の銃撃に完全にさらされて、彼は放棄された機関銃へ走る間に、彼は爆発した手榴弾からの多数の破片の怪我を受けたが、前進する敵目掛けて効果的な銃撃を送り始めた。
決然とした海兵隊員に対し、敵が最大の火力を向けられ、ロケット推進擲弾の直撃をマクサム伍長の陣地は受けて、彼は仰向けに叩き付けられ、そして彼の顔と右目は破片によって重傷を負った。
僅かの間、気絶し、そして痛烈な痛みにもかかわらず、マクサム伍長は勇敢に彼の射撃体勢を回復し、そして、その後再び小火器の銃撃によって撃たれた。
断固たる決意とともに、彼は 援護の陣地へ鉄条網を通って敵が撤退する原因となる激しい機関銃火を勇敢に浴びせ続けた。
彼の武器を沈黙させる向こう見ずの試みにおいて、北ベトナム軍は手榴弾を投げ、そして無反動砲の直射を浴びせ、彼に対し、更に二つの追加の怪我を与えた。
彼の機関銃を再装填するにはあまりにも衰弱し、マクサム伍長は伏せ撃ちの姿勢を取り、そして勇敢に彼のライフルで効果的な銃撃を浴びせ続けた。
一時間半の後、爆発した手榴弾と集中した小火器の銃撃からの破片によって彼は繰り返し彼は被弾したが、その間、彼は彼の傷に屈するまで単独で防衛線の半分近くの防衛に成功した。
マクサム伍長の積極的な闘争心、鼓舞する勇気と義務への無私の忠誠は彼自身と合衆国海兵隊に最高の名誉をもたらし、そして合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
受賞者L |