Persian Gulf War:湾岸戦争1990年8月-1991年6月
概要
1990年7月中旬、アメリカの国防情報局(DIA)にの分析官が、偵察衛星写真からクウェート国境近くの砂漠地帯にT72装備のイラク軍の一個機甲旅団を発見。分析の結果、第1機甲師団ハンムラビのものと判明。翌朝には第2機甲師団メディナ、更に翌日には第3機甲師団タワカルナが確認。最終的に7月19日までに35,000人にまで増大。
報告を受けたコリン・パウエル大将の質問に中央軍司令官H・ノーマン・シュワルツコフ大将は、クウェートに対する石油利権を巡る恫喝と判断し、大規模な攻勢には至らないだろうと思っている間にイラク軍の増強は拡大。
7月下旬になっても、楽観ムードは変わらずにいたのは、クウェートの完全併合を目指す軍事侵攻作戦への方針変更が7月31日の夜だったために、そのために必要な大規模な燃料、弾薬、そして部隊の集結が始まっていなかったことと、
「領土略奪という時代錯誤の行為」
をするような真似はしないだろうという常識的な感覚からでした。この楽観ムードも8月1日にイラク軍が攻撃陣形に入るのが確認された途端に吹き飛びますが、時既に遅く有効な対応策を講じる余裕はありませんでした。
こうして8月2日0200時(現地時間)、突如としてクウェートへ侵攻したイラク軍は一日でクウェート軍を破り、占領に成功。
しかし、クウェート政府は既にイラク侵略の可能性を察しており、王族への警報は発令済みで、クウェート王族の捕捉に失敗。
国連安全保障理事会は、即時の無条件撤退を決議。これらの動きに対し、イラク側はイラク建国以前から独立国家だったクウェートを、元々イラクの領土だと主張。この世迷い言を真に受ける常識外れも少なく、イラク軍のクウェート撤退と拒絶を睨んでの交渉と、可能性のあるサウジアラビアへの侵略阻止のための軍の派遣に向けた動きが始まることとなります。
政治の活動が始まるとともに、アメリカ軍も即座に行動を開始し、同日中にインド洋にいた空母インディペンデンス戦闘群と地中海の空母アイゼンハワー戦闘群が紅海へと出発。
海兵隊でも、ブッシュ大統領が首脳会議でシュワルツコフ大将の意見を聞いた8月4日に先遣隊をサウジアラビアへ派遣し、予定される軍の派遣についての調整を開始。
8月6日、国連安全保障理事会がイラクへの全面経済制裁決議を決定したのと同日チェイニー国防長官はクウェート及びリベリアで働く職員に対しての危険手当を承認。
翌8月7日、ブッシュ大統領は、イラク軍がサウジアラビアとクウェートの国境に軍を進めたことに対応し、アメリカ軍機を派遣し、サウジアラビア軍と合流させました。
ここにベトナム戦争以来となる大規模派遣となる砂漠の盾(Desert Shield)作戦が開始することになり、まず空母サラトガの戦闘群が出発し、14日にはジョン・F・ケネディもノーフォークを出航しました。
8月8日、海兵隊はウォルター・E・ブーマー少将を中将に昇進させ、中央海兵隊軍と第1海兵遠征軍(IMEF:I Marine Expeditionary Force)の指揮官に任命。
8月9日には、第一派の第82空挺師団第2旅団がサウジアラビアに到着して展開を開始したものの重装備を持たない(或いは持てない)まま配置につかなければなりませんでした。
8月15日、ペルシャ湾地域への45,000人規模の派遣を海兵隊は発表。海兵隊の第一陣となるIMEFの構成は、第1海兵師団、第1後方支援群(1stFSSG:1st Force Service Support Group)、第3海兵航空団(3rdMAW:3rd Marine Aircraft Wing)、そして第7海兵遠征旅団(7MEB:7th Marine Expeditionary Brigade)とされ、これに途中から、第2海兵師団と第2FSSG、そして第2MAWを含む第4MEBが参加。
部隊と装備は、インド洋のディエゴ・ガルシアにいた第2事前集積船艦隊(Maritime Pre-Positioning Ship Squadron 2)の五隻で、まず第7MEBの装備と16,500名の人員を30日間維持する十分な補給物資が運搬されます。
8月22日、アメリカ軍の予備役召集が開始。
8月24日、クウェートのアメリカ大使館の閉鎖命令が出され、大使館職員と警備担当の海兵隊員の約100名はバグダッドのアメリカ大使館に移送し、各国同様、イラクの人質として扱われることになります。
9月11日、ブッシュ大統領は議会において、イラクのクウェートからの完全撤退、クウェートの合法政府の復活、ペルシャ湾の安全管理と安定の保証、そしてアメリカ市民の保護を目的とする旨を議会において演説し、これに伴いアメリカ軍に限らず多国籍軍全体の増強が始まります。
9月26日、海兵隊司令官アルフレッド・M・グレイ大将が、デビッド・W・ソマーズ海兵隊特級曹長とともにサウジアラビアを訪れ、作戦におけるミーティングと海兵隊キャンプを視察。
10月6日、これが最後の戦場となるミッドウェーが横須賀を出航。
こうして部隊が次々と到着する中、10月8日、北アラビア海で夜間訓練中の第164海兵中型ヘリコプター航空隊所属のUH-1Nが墜落し、8人が死亡する事故が発生。湾岸戦争における海兵隊の最初の死者が生じました。
中央軍参謀長ジョンストン少将が国防総省で攻撃計画の概要を説明した10月10日、最初の部隊規模の予備役召集が行われ、ハワイのカネオヘ海兵隊航空基地に第40戦闘後方支援分遣隊所属の海兵隊員がサウジアラビアに展開したIMEFの残した装備の維持管理のために到着。
11月8日、砂漠の盾作戦において展開する部隊の規模が、200,000名に増強する計画が発表され、海兵隊も第5MEBを中心とした海兵隊部隊を集めてIIMEFを編成することが決定しました。
また、この日、空母戦闘軍の第2次増派(ルーズヴェルト、アメリカ、レンジャーの三個戦闘軍)が決定。
11月13日、海兵隊で二度目の予備役召集が行われ、予備師団の第4海兵師団と第4海兵航空団が第5MEBに加わります。
翌14日、リチャード・チェイニー国防長官は、砂漠の盾作戦支援のため、72,500名以上の州兵と予備役兵の召集を承認し、陸軍、海軍、空軍、そして海兵隊は予備役125,000名(内海兵隊15,000名)が上限とされます。
11月15日から21日、アメリカ軍とサウジアラビア軍部隊が参加する大規模軍事演習がクウェート国境の約100マイル南で実施され、演習は軍の指揮能力、管制、そして航空と地上部隊との連携のテスト、そして第4MEB所属の海兵隊員1,000名による水陸両用演習も実施すると同時にIMEFの海兵隊員1,000名もクウェートの僅か25マイル南で野外上陸演習を行いました。
11月16日、海軍作戦参謀フランク・B・ケルソーII世提督は海軍展開の六ヶ月の制限を無くし、中東により長期に残留することを発表。200,000近い兵力をペルシャ湾へ送る11月8日の決定も含めて、これによってペンタゴンから、兵士のローテーションをどうするかという問題に頭を悩ませることから解放。
11月22日、サウジアラビアを訪れたブッシュ大統領は、海兵隊員、海軍兵、そしてイギリス兵の3,000名以上の前線兵士の観衆を前にして立ち、クウェートからサダム・フセインを追い出す決意を再宣言した後、夫人とともに海兵隊と感謝祭の食事をとりました。
そんな状況の中の11月27日、元海兵隊員トム・モナガンが創設したドミノ・ピザが軍の生協と10年契約を締結。これにより、ピザの宅配と持ち帰り販売を行うために半年以内に、まず五つの支店が海兵隊軍事施設に開店することになりますが、ペルシャ湾の情勢とは関係ありません。
続々とサウジアラビアに部隊が集結する中、11月30日にリベリアからの撤収作戦シャープエッジが開始。これにより、同地にいるアメリカ大使館員及びアメリカ人の避難が始まり、185日後に完了することになります。
12月3日、州兵と予備役の召集は更に拡大され、海兵隊も上限が23,000名とされ、これにより各軍全体で188,800名の予備役が召集されたことになります。
12月10日、第2海兵師団、第2海兵航空団、そして第2FSSGからなるIIMEFの派遣前の閲兵式が行われ、カール・E・ムンディ中将指揮の下、12月中に出発。
12月18日、M1A1エイブラムスの海兵隊仕様が、ついに納品されました。早速、第2海兵師団第2戦車大隊は、これを受領し、老兵M60A1と交換していきます。
12月22日、チェイニー国防長官は、サウジアラビアの第1海兵師団司令部を訪問し、展開する将兵を激励し、支援を表明。同日、海兵隊最古の駐屯地マリーン・バラック所属のA中隊が第2海兵師団と合流。
年が明けて一月。着々と準備が進む中、後はいつ攻撃開始かと様々な憶測を産み始め、ある雑誌は大胆予想を打ち立て、大胆すぎたのか完璧に外していた頃、アメリカ軍は2,340,354名となり、海兵隊も197,764名に達していました。
1月初旬、ソマリアで内乱が勃発したために急遽行き先を変えていた第4MEB所属の第2海兵連隊第1大隊もサウジアラビアに到着。
1月12日、三日に及ぶ議論の末、アメリカ議会はイラクに対する開戦の権限をブッシュ大統領に与え、1月15日深夜までにイラク軍のクウェートからの完全撤退を要求。
1月15日、VMEFが編制され、IMEFの留守番役に入った、この時点でサウジアラビアには、415,000名のアメリカ軍と、265,000名の連合軍部隊が配置についています。
1月16日0000時、退去勧告を無視したイラクに対し、国連安全保障理事会の決議に基づき、クウェート解放のために多国籍軍の全面的空襲が開始され、ここに砂漠の盾作戦は、砂漠の嵐(Desert Storm)作戦へと移行し、初の本格的テレビ中継となった戦争が始まりました。
1月21日、バクダッドでは撃墜されて捕虜になった何人かは殴られ、腫れて痣の付いた顔をしたパイロットの映像を放映。アメリカ人5名、イギリス人2名、そしてイタリア人とクウェート人の中、1月18日に南クウェートで撃墜されたOV-10ブロンコの乗員クリフォード・M・アクリー中佐とガイ・L・ハンター准尉の二人の海兵隊員の姿も確認されました。
1月29日、何とかして地上戦にもつれ込んで泥沼の戦いにしようと目論んだイラク軍がサウジアラビア領内に進入し、港町ハフジを占拠。この地上戦の前哨戦となる戦いにおいて、偶然通りかかった第233輸送中隊の2名が捕虜となりました。
ハフジを占領したイラク軍への攻撃はサウジアラビア軍とカタール軍が担当し、これを第1海兵師団と航空部隊が支援し、31日にはハフジの奪還に成功。しかし、この戦いでLAV軽装甲車両2輌が撃破され、海兵隊員11名が戦死。当初、イラク軍の攻撃によるものと思われていましたが、味方の誤爆であることが直後に判明。別に、このとき、始めて誤爆があった訳でもないのに、これ以降、鬼の首を取ったように報道される最初の事例となりました。
2月13日までに65,000回以上の出撃が行われ、多国籍軍は28機(内アメリカ軍機19機)が喪失。海兵隊では3機のAV-8ハリアーとOV-10ブロンコ1機を失っていますが、この日の夜、海兵隊砲兵部隊は155mm牽引野砲と203mm自走砲によるクウェート国境へ向けての夜間砲撃を開始した同日から、更に1,758名の海兵隊予備役が召集され、海兵隊が召集した予備役は24,703名に達し、召集枠は更に拡張されて44,000名。
これにより、2月14日、海兵隊の予備役を含めた人員が1971年以来始めて二十万を超える200,248名に達しました。
その翌日、アーリントン墓地に、ジョナサン・R・エドワーズ大尉が埋葬されています。2月2日、ユージン・マッカーシー少佐と共に搭乗していたAH-1コブラが墜落して死亡した大尉は湾岸戦争において始めて埋葬される海兵隊員でした。
同じ日の2月15日、連合軍司令部は装甲部隊30%、砲兵35%、そしてその他の装甲車両27%がクウェートにおいて破壊されたとイラク軍の損害見積もりを発表。
2月24日、怠惰でも緊張感の絶えない生活に苛立つ日々を送っていた前線将兵の待ち望む地上戦が開始。
砂漠の嵐作戦の最終局面、砂漠のはらぺこ大王サーベル(Desert Saber)作戦の発動により、IMEFは0405時に第1及び第2海兵師団主力部隊(リッパー、パパベアー。タロー、そしてグリズリー)と第7軍団に転出したイギリス軍第1機甲師団の代わりに組み込まれたアメリカ陸軍第1機甲師団第2旅団とともにサダム・ラインへ突入。一方でイラク側から、片足の将軍フランクス中将率いるアメリカ陸軍第7軍団が背後から突入し、攻撃を開始しました。
これらの行動直前から、ペルシャ湾ではクウェート沿岸に向けて第4及び第5MEBが水陸両用強襲を匂わせることで陽動をかけて牽制し、イラク軍部隊を釘付けにしました。
地上戦はサダム・フセインの願望も虚しく、イラク軍地上部隊は僅か100時間で壊滅。
2月28日、停戦命令が出され、砂漠の嵐作戦は終了。IMEFは、この時点で92,990名という海兵隊の歴史上最大規模の作戦を実行していました。
爆撃開始の1月16日から、この停戦までの死傷者は116名(死者24名、負傷92名)と実は人が死ぬのが嬉しくてたまらない一部の人間には残念な結果に終わりました。
3月10日、解放された捕虜21名(内海兵隊5名クリフォード・M・アクリー中佐、ジョセフ・J・スモールIII少佐、マイケル・C・ベリーマン大尉、ラッセル・A.C.サンボーン大尉、そしてガイ・L・ハンター准尉)の海兵隊捕虜が、国際赤十字の航空機によって運ばれ、アンドリュース空軍基地に到着。彼らはチェイニー国防長官とパウエル大将と面会し、同時に彼らの家族と何千という支持者によって歓迎され、その後、海軍医療センターへと向かいました。
3月12日、ブッシュ大統領は、砂漠の盾及び砂漠の嵐作戦に参加した将兵に対し、従軍記章を制定することを承認。4月6日には動員された兵士たちへの危険手当、単身手当、グループ生命保険担保、教育支援、保育と家族教育、そして支援業務の法律化にも署名しました。
3月14日、5人の海兵隊員と二人の海軍捕虜が記者会見に参加し、捕虜となった詳細と、捕虜としての経験を語った日、イラクの占領後、特に同情もされない亡命生活を送っていたジェイバー・アーマド・アルサバ首長がクウェートに帰還。
3月16日、海兵隊司令官アルフレッド・M・グレイ大将の手によって捕虜となった5人に戦争捕虜(POW)メダルが授与。
4月7日からは、トルコ南部、イラク北部のクルド人難民救済活動が開始。
4月15日から、多国籍軍の帰国が始まり、海兵隊も撤収を開始します。
4月22日、グレイ大将の後任としてIIMEF指揮官ムンディ中将が指名。
4月24日、IMEF帰国。同時にVMEFの活動が停止された日、ペルシャ湾における英雄的行為により、5人の海兵隊員がキャンプ・ペンドルトンにおいてIMEF司令官ウォルター・E・ブーマー中将の手によって、ダニエル・A・クア二等軍曹、ゴードン・T・グレゴリー軍曹、そしてブライアン・R・フリーマン、マイケル・S・キルパトリック、ブライアン・K・ジックフーズ各伍長にシルバースター章が渡されました。
6月7日、クルド人難民救済活動が、国連に移行。
6月8日、約1,800名の海兵隊員、14の主力装備と19機の航空機がH・ノーマン・シュワルツコフ大将の凱旋パレードに参加し、二日後1,700名の海兵隊員が予備役兵を含めてニューヨークにおいて紙吹雪の歓迎の中、ブロードウェーを行進。
6月30日、グレイ大将退役。同日、第5MEB第3水陸両用グループが帰国。
7月1日、マンディ大将、第30代海兵隊司令官就任。
7月15日、連合軍部隊及び第24MEUが北イラクから撤収。同日までに第11MEU以外のほとんどの部隊が撤収完了。
8月9日、シュワルツコフ大将、アメリカ中央司令部をジョセフ・P・ホア大将へ委譲し、退役。
8月27日、第11MEU以外の全ての部隊がペルシャ湾を離れる。
12月、第11MEUが帰国したことにより、海兵隊にとっての湾岸戦争は終わりますが、フセイン政権の打倒をすべきか否かでは、国連との兼ね合いや、準備などから結局不可能となり、これが国連が、再び何の役にも立たないことを示す長い武器査察の末に、賛否両論を生む12年後のイラク戦争へと繋がっていくことになります。
湾岸戦争における海兵隊
軍
中央海兵隊軍
海兵遠征軍(MEF)
IMEF:I Marine Expeditionary Force 第1海兵遠征軍 |
第1海兵師団 第3海兵航空団(3rdMAW) 第1後方作戦支援群(1stFSSG) 第7海兵遠征旅団(7thMEB) |
IIMEF:II Marine Expeditionary Force 第2海兵遠征軍 |
第2海兵師団 第2海兵航空団(2ndMAW) 第2後方作戦支援群(2ndFSSG) 第4海兵遠征旅団(4thMEB) |
他にVMEF(第5海兵遠征軍:V Marine Expeditionary Force)がIMEFの残した装備の維持管理(要は留守番)のために編制。
また、当初はイギリス第1機甲師団が加わっていたものの途中からアメリカ陸軍第1機甲師団第2旅団タイガーと交代。
海兵遠征旅団(MEB)
4thMEB:4th Marine Expeditionary Brigade:第4海兵遠征旅団
5thMEB:5th Marine Expeditionary Brigade:第5海兵遠征旅団
7thMEB:7th Marine Expeditionary Brigade:第7海兵遠征旅団
師団
1st Marine Division:第1海兵師団
2nd Marine Division:第2海兵師団
4th Marine Division:第4海兵師団
他に第3海兵連隊も参加
航空団(MAW)
2nd Marine Aircraft Wing:第2海兵航空団
3rd Marine Aircraft Wing:第3海兵航空団
4th Marine Aircraft Wing:第4海兵航空団
後方作戦支援群(FSSG)
1st Force Service Support Group:第1後方作戦支援群
2nd Force Service Support Group:第2後方作戦支援群
海上事前集積船艦隊(MPS)
Maritime Pre-Positioning Ship Squadron 2:第2海上事前集積船艦隊
参加人員
参加人員:92,990名
戦死:24名
負傷:92名