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RAIDERS(海兵強襲部隊)

強襲隊員の育て方:How to raise up a Raiders.

メリット・A・エドソン中佐
メリット・A・エドソン中佐

 海兵隊射撃チーム監督としてチームを二度の優勝に導き、その後、第4海兵連隊参謀長として上海勤務、1941年に第1強襲大隊長に選ばれました。

 エドソンリッジの戦いの後、ハント大佐の後任として第5海兵連隊長に就任。1943年にはシャウプ中佐の後任として第2海兵師団参謀長となり、以降は、天職と称された各参謀を勤め上げ、1947年に少将にて退役。

 戦後は、海兵隊の存続をかけて議会、メディア、そして全国でキャンペーンを行い、軍縮の嵐を海兵隊が乗り切る要因の一つとなりましたが、1955年8月14日、自宅ガレージで一酸化炭素中毒を用いて自らの命を絶ちました。

エヴァンス・F・カールソン中佐
エヴァンス・F・カールソン中佐

 第4海兵連隊に所属し、三度目の中国勤務となった1937年に、日本軍の攻勢を目撃し、八路軍への参加を申請。思想や戦術を学びますが、その活動が元で上司と対立して辞職。1941年の開戦と同時に復職し、知己のルーズヴェルト大統領の意志もあって強襲大隊の編成に深く関与することとなります。

 強襲部隊を離れた後はタラワの上陸、第4海兵師団の一員としてクウェゼリンやサイパンに上陸しますが、サイパンで負傷した通信手を救出しようとして重傷を負ったこともあり、1945年に准将で退役。1946年に上院議員に立候補しますが、傷が癒えることはなく、1947年に死去。

 強襲大隊を作る下地はほぼ出来上がりました。というか、大統領命令なので否応はありません。

 そこで、エドソンとカールソンの二人に対しては、海兵隊において人員と装備を優先的に与えるという許可がおりました。エドソンとカールソンは、隊員として相応しい人物を捜すために各師団(と言っても、当時は、書類の世界から、現実の世界へと移行し始めた第1及び第2だけですが)の全階級を調査し、更にパリスアイランドやサンディエゴの新兵訓練所から、成績優秀な者を引き抜き始めます。

 この人員集めは苦労しているようで、実はたった一つの事実から志願者を募るのは容易でした。

日本軍と最初に戦う機会が与えられる

 この言葉を言われて、当時のアメリカ人が燃えない訳は無く、エドソン中佐よりカールソン中佐の要求は厳しかったもののそれでも、人員確保に四苦八苦していた同輩たちからすれば、精鋭部隊の形成という大統領の錦の御旗を掲げ、部隊のベテランを引き抜いていく二人に対し、規模を拡張中の師団からすれば憤慨する声も出たくらいです。

 しかし、それが一般的な問題だったかはともかく、強襲部隊に関しては彼らが必要と思った装備は最優先で与えるという白紙委任が渡されていました。

 書類上の存在から、次第に現実世界へと移っていく過程においてカールソン中佐(とルーズベルト大尉)は、司令官ホルコム将軍が、部隊にはめようとした枷すら粉砕しました。

 二人はエドソン中佐の部隊から送られてきた隊員をはねつけ、目的に会うように部隊の組織を改編していきます。そして、カールソン中佐は、中国で八路軍(共産ゲリラ)の軍事顧問をしていた頃に学んだ中国の文化、共産主義、そしてニューイングランドタウンホールデモクラシーを混合させた軍の慣習にとらわれない新たな哲学を部隊に叩き込んでいきます。

 更に彼らには自らの考えを意見する権利すら与えられ、彼らの鬨の声が、"ガン・ホー!!(Gung-Ho!:中国語で、協力せよ、の意。Work together)であり、将校たちは彼らの部下と比べて、それほど大きな特権は持たず、階級ではなく、意見の一致を持って先導するとされました。これはカールソンの道徳理論で、

「説得により確信を与える」

 と述べられ、各自が自ら戦う理由を知っていることを求められたことによります。

 こうして第2レイダースは、文明とは縁遠いキャンプエリオットの丘、ジェイクス農場にて彼らのテントを設営しました。カールソンは自由を滅多に与えず、夜の間に町へ繰り出した門を誰だろうが捉えるために再三、夜半に召集することを繰り返しました。

 訓練において、重要視されたのは、長距離行軍、武器の習熟、白兵戦と破壊、そして身体調整でした。こうしてカールソンの部下は鍛え上げられ、野戦技術を取得すると今度は夜間戦闘技術に切り替えられます。この際、カールソンは、ワシントンがよこした強襲部隊の編成表に大幅な変更を行いました。

カールソンレイダース
ライフル分隊 10人
指揮官1名、ライフル班(3名編成)×3
トムソンSMG、M1ライフル、BARを装備

APDの搭載能力には制限があるために、各ライフル中隊は二個ライフル小隊と一個武器小隊により構成。詳細については、編成表参照

 この編成が示すのは、カールソン中佐の組織と訓練は、

「潜入及び通常手段によらない予期しない方法による目的達成」

 に適した部隊にするためで、カールソン中佐とルーズベルト大尉の二人は彼らの構想するゲリラ部隊を開発していきます。

 同じ頃、エドソン中佐の大隊は、中佐自身が立案した組織表に沿って編成されました。

エドソンレイダース
ライフル分隊 8人
指揮官1名、ライフルマン×4、BAR射手×2、狙撃手×1
M1903ライフル、BARを装備

中隊は、三個ライフル小隊と一個武器小隊により構成。

武器小隊は、軽機関銃と60mm迫撃砲を装備。司令官により押しつけられた81mm迫撃砲は留守番が決定)。詳細については、編成表参照

 この編成は、戦争後半に通常部隊全ての基準となる4人編成の射撃チームを先取りした者になります。

 第1レイダースの訓練は、第2と-ポトマック川のクアンティコの地形を利用したゴムボートを用いた訓練以外は-酷似していました。また、第1レイダースは、撤収に関する行軍速度を一時間に7マイル(時速約11.2km)と、歩兵部隊の通常行軍速度の二倍に設定しました。"レッドマイク"エドソンは軽歩兵戦術を強調しましたが、第1レイダースはゲリラ部隊ではありませんでした。代わりに、彼らは従来の活動に加え、特殊任務に対する準備を行い、より高度に訓練された大隊へと形成されます。

 エドソン中佐のリーダーシップは、カールソン中佐とは対照的に、部下に対し、独創力を持つことを奨励しましたが、階級に関しては責任と意志決定の権限両方を持たせました。彼は言葉ではなく、かつて海兵隊射撃チームを全米優勝に導いたように、その能力を持って部下に感銘を起こさせ、射撃練習場まで進ませる物静かな人物でした。

 このように二つの強襲大隊は、同じ名前を授かりましたが、その実体は全くの別物となりました。しかし、彼らは、優れたトレーニングを受け、そして戦いにおいて他者より秀でようという願いだけは共通していました。

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