RAIDERS(海兵強襲部隊)
強襲大隊の作り方:The recipe of the Raider Battalion
1941年、連合国側は枢軸国側の攻勢に防戦すらままならず、各地で敗退し続けていました。その中で、イギリスが誕生させた特別強襲部隊コマンドゥによるドイツ軍に対する強襲作戦は、その冒険性と相成って信奉者を生み、中でも、葉巻をくわえてトミーガンを手にする姿が世界一様になる国家首脳イギリス首相ウィンストン・W・チャーチルは熱烈な信奉者でした。
※チャーチルの新し物好きは、ボーア戦争の頃、出始めたばかりの自動拳銃―しかもシュネールホイヤーを愛銃にしていたことからも伺えます。
そのチャーチルが、ルーズベルト大統領に、自軍のコマンドゥ部隊の活躍を熱烈に語るのと同時期に、三人の人物が、二つの部隊の有効性を元に自らも似たような任務を行う強襲部隊の編成に尽力し始めました。
一人は中国でゲリラ戦術を実体験として目の当たりにしたエヴァンス・F・カールソン少佐。彼の支持者として、大統領と密接に関係のあるジェームズ・ルーズベルト海兵隊大尉と第1次世界大戦の陸軍の英雄ウィリアム・J・ドノヴァンの二人がいました。ドノヴァンは大統領の腹心として、何より、ジェームズ・ルーズベルト大尉は、大統領の息子でした。
ドノヴァンは、敵占領地に対して潜入し、レジスタンスを支援するゲリラ部隊の創設を望み、1941年12月にルーズベルト大統領にこれらの構想に沿った正式の提案を行います。
これにチャーチルが、既にノルウェーだけでなく地中海、そしてロフォーテン諸島強襲の成功というコマンドゥの実績を持って熱意を持ってルーズベルト大統領にその成果を語れば、後はどういう部隊を編成するかを考えるだけとなります。
一方、海兵隊のその頃の動きは、水陸両用作戦の完成に向けて最終段階に入っていました。その中でホランド・M・スミス准将は、1929年にアール・H・エリス少佐の構想した上陸計画712Hを元に海兵隊学校が1935年に完成させた水陸両用作戦のマニュアルを現実化するという困難な作業を行っていました。准将としてスミス将軍は、第1海兵旅団長として1940年初頭のFLEX6に参加します。
※FLEX=艦隊上陸演習(Fleet Landing Exercise)。水陸両用作戦を海兵隊の任務とし、1935年にマニュアルが整って以来、1941年まで計7回行われた上陸演習。
このFLEX6の頃は、上陸用舟艇(有名なヒギンズボート)の数もそう多くはなく、このため上陸部隊が反撃に必要な攻撃力を維持するどころか橋頭堡の構築すらままならないという可能性と、更に後続部隊が上陸用舟艇に乗り込んでいる間に上陸部隊が海に追い落とされる可能性まで指摘されました。
その解決策として、スミス准将は高速輸送駆逐艦マンレー(APD1)を用い、第5海兵連隊の一個中隊を上陸地点とは離れた場所にゴムボートによってHマイナス3時間となる夜明け前に上陸させました。この部隊は内陸へと前進、上陸部隊にとって驚異となる敵軍拠点を襲撃して占領し、これにより上陸部隊本隊を守りました。
1年後のFLEX7では、スミス准将は三隻のAPDを使用し、選ばれた第7海兵連隊三個中隊が、演習中に上陸本隊や陽動作戦の保護のために夜間上陸を実施しています。
この二つの演習によってスミス将軍は水陸両用作戦に対する新しいアイデアを具体化することができ、ここに水陸両用作戦は、第一波として主要攻撃前に重要拠点を確保する高速部隊―パラシュート歩兵とグライダー歩兵からなる空挺部隊、軽戦車大隊、そして少なくとも一隻のAPD―が作戦を開始し、次に主要部隊が第二波として上陸。最後に予備支援部隊が上陸して橋頭堡を確保するというものでした。
1941年の夏、スミス将軍はこれらのアイデアを実施する立場にあったため、今度は同年2月に誕生していた第1海兵師団と陸軍第1歩兵師団からなる大西洋艦隊水陸両用部隊(AFAF:Amphibious Force Atlantic Fleet)を誕生させました。このAFAFを用いた演習は、海兵隊の新しい基地ノースカロライナ州ニューリバーで実施されました。
※このとき、パラマリーンの投入も行われ、強風によって40名が森の中へ飛ばされ(幸い負傷者無し)、バラバラに降下した部隊によって敵役の部隊が大混乱に陥りました。パラマリーン第1章参照
スミス将軍は、この演習中、六隻のAPDに第5海兵連隊第1大隊を乗せ、そして、この部隊を本部直轄の独立コマンド部隊にしました。更にAPD大隊には海兵師団唯一の戦車中隊とパラマリーン一個中隊を加えます。
AFAF指揮官は、この任務のために無作為に選んだのではなく、1941年6月に海兵隊射撃チームのキャプテンとして全米射撃大会二年連続チーム優勝を果たしたメリット・A・"レッドマイク"エドソン中佐を指揮官として任命しています。この後、スミス将軍は、エドソン中佐の部隊を、「軽大隊」或いは「APD大隊」と呼び始めます。
この部隊は先鋒としての上陸ではなく、代わりにDプラス2に敵陣後方の砂浜に上陸を行い航空支援を受けながら、内陸へと迅速に行動したことにより、敵の予備部隊を混乱に陥れ、撃退し、更に通信統制を完全に崩壊させました。この成功に気をよくしたスミス将軍は、
「敵側面の周辺を突いた槍の穂先」
と、この機動部隊を呼ぶ一方で、このAPD大隊が作戦開始時に第5海兵連隊と他の部隊がニューリバーに上陸したとき、部隊司令部と共に後方に止まり、AFAFなどからもたらされる報告によって、完全に独立した胃は位置をさせられたことによって、師団作戦参謀のジェラルド・C・トーマス中佐は、皮肉を込めて、
「司令部の遊び道具」
と称したと公式記録に残されています。
その司令部の遊び道具も、エドソン中佐の構想によって、他の部隊とは違った形態を取り始めました。エドソン中佐は、このAPD大隊の任務が偵察と強襲及びその他の特殊作戦が主体となると考え-イメージとして、パラシュート部隊の水上輸送バージョンを思い描いたそうです-、このため戦術上の支えとして火力よりも機動力に頼ることとしました。同時にAPDがオフロード車を搭載しない関係上、一度海岸から上陸した後は徒歩による移動にしかならないために装備リストから重装備を外す新しいリストをエドソン中佐は作成し、提出しました。これによれば重い81mm迫撃砲ではなく、重機関銃を装備させることとされていましたが、その運用に要する人数も必要でした。また、APDに搭載可能な人数から鑑みて、各中隊の編成は通常編成より小規模で、破壊小隊と共にライフル小隊四個と武器中隊、司令部中隊からなり、主要攻撃は10人乗りのゴムボートを用いるとされました。
と、こうした動きの中で、スミス将軍は第5海兵連隊から第1大隊を正式に引き抜くか否かを迷っていました。というのも、もし第1大隊を外した場合、第5海兵連隊がいつ一個大隊欠の状態から復帰できるかの目処が全くたっていなかったためです。確かに1941年2月1日に第1海兵師団と第2海兵師団が誕生していましたが、実質、それらは書類上だけの存在でしかなかったため、この悩みは12月に真珠湾が攻撃されるまで続くことになりました。
1941年12月7日に真珠湾に対し、日本海軍が空襲を行ったことにより、アメリカは第2次世界大戦への参戦へと向かいます。同時に各軍に志願者が殺到。海兵隊もようやく人員不足の悩みから解消されました。
ここでスミス将軍は司令官に対して、再び大隊を編成するように要請をだし、1942年1月7日、エドソン中佐は、正式に第1独立大隊長としての辞令を受け取りました。
一週間後、ジェームズ・ルーズベルト大尉が強襲部隊について彼の意見をまとめた手紙を司令官へ書き、これを受け取った司令官ホルコム少将が、ドノヴァンに周囲の反応を伺うのですが、その頃はチャーチルによって、大尉の父親もすっかり毒されていましたので、1月20日に、
「APD大隊は……このゴムボートを使用した夜間上陸を特に含めた任務のために組織化され、装備と訓練を受ける」
と返答することになります。しかし、ホルコム将軍はこの時点ではまだ乗り気ではなく、スミス将軍の構想した新しい部隊を外部からの圧力に対して道を開く便利な手段として使うつもりでした。しかし、この考えは完全にうまくはいかず-何しろ頂点が先に毒されていましたので-、1月23日、あからさまに政治的圧力があって、太平洋艦隊においてコマンドゥタイプの部隊を組織することとなりました。
こうして第1独立大隊に続いて、第2独立大隊が1942年2月4日に公式に編成され、またこれが形だけではないということを示すために、書類上の存在に過ぎなかった第2大隊にエドソン中佐の第1大隊の三分の一を割いてカリフォルニアへと移すように命令しました。
同じ頃、司令部はエドソン中佐の提案した装備リストを採用し、双方の大隊に発布。唯一変更されたのは、81mm迫撃砲小隊が加えられたことでした。APD大隊の乗り込む船には、その増員分について融通する部屋が無かったそうですが……。
当初、ホルコム少将は、エドソン中佐を第2独立大隊長に任命することを考えましたが、結局、第2海兵師団長チャールズ・F・B・プライス少将によってカールソン少佐が第2大隊長として任命され、副官としてルーズベルト大尉が任命されました。
そして2月中旬、プライス少将の提案により、ホルコム少将は、この新たな部隊に対し、新しい名前を与えます。
RAIDERS
(レイダース:強襲者、襲撃者)
と。