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PARA-MARINE(海兵隊空挺部隊)

「雲の上から、例え一万人の敵が舞い降りてきたとしても、彼らがあちこちで暴れ回る前にこれを撃退してしまえるように軍隊を全国土に配置できる君主はどこかにいないものだろうか」

1784年:ベンジャミン・フランクリン

※ベンジャミン・フランクリン:雷の日に凧を揚げて、その危険性を証明……ではなく雷が電気であることを証明したアメリカの政治家、科学者、思想家その他多数

空挺部隊の誕生

 第1次世界大戦中、ボーア戦争の英雄であるイギリス海軍大臣ウインストン・チャーチル(当時の愛銃はシュネールホイヤー)は橋梁の破壊、敵通信網の切断、他各種妨害活動を実行するための部隊の編成を提案。同じ頃、後に行き過ぎた発言で軍法会議にかけられるアメリカ陸軍大佐ウィリアム・ミッチェルは第1歩兵師団の兵士にパラシュート降下の短期訓練を実施し、メッツ奪取のために降下作戦を実施することを計画しました(終戦により、実現せず)。

 1934年、ソビエト軍が46人に加え小型の戦車一両の降下実験を成功させます。更に大規模な空挺演習を行うなどソビエト軍は空挺部隊のパイオニアとなりました(なっただけ)。

 この革新的な新兵種にアメリカ軍は、ミッチェル大佐が初の軍事利用を発案したにもかかわらず、明らかに出遅れていました。当時のアメリカはモンロー主義が根強くあり、また、軍隊自体も国境警備隊に過ぎません。

 しかし、ドイツ空挺部隊が中立国オランダ及び中立国ベルギーなどの低地諸国で大成功―特にエバン・エマール要塞にグライダーで降下した部隊は、指揮官が、要塞のドアを叩いて降伏勧告を行うなど―を納め、世界の注目を浴びると、アメリカ人が遺伝子的に装備している新しもの好きの血が燃え上がり、空挺作戦に対する高い関心を呼びます。

※そもそも、新大陸にこぞって移住した人たちですから。

 実はかねてより、空挺部隊創設を提唱していた人物がいました。後の第101空挺師団長となるウィリアム・リー少佐です。彼の元に空挺実験小隊が編成され、これが第501空挺連隊へ発展し、難産の末に第82歩兵師団と第101歩兵師団が空挺師団へ編成替えされることとなります。

 とはいえ、その辺りの陸軍の動きとは関係あるようでなく、海兵隊では5月14日に海兵隊司令部内の作戦計画担当の参謀将校たちに覚書が発行されます。

 この動きは非常に素早く翌日―1940年5月15日、トーマス・ホルコム少将は海外の空挺部隊の情報を集めるために海軍作戦本部長へ手紙を書き、この要請によって、ベルリン大使館ではドイツ軍空挺部隊のニュース映画を獲得し、ロンドン大使館ではイギリス空挺部隊の資料を収集します。

 この際、どれだけ慌ただしく進められたかは最初に提出されたのが、取り敢えず出しておけと言わんばかりの鉛筆書きのメモ用紙だったことからも伺えます。

 こうして文字通りかき集めた各国空挺部隊の資料を基に調査研究を行い作成された報告書ではパラシュート部隊とグライダー歩兵の存在、更に彼らが輸送機で移動して作戦行動を行うために特別な訓練と装備が与えられている点に着目されていました。

※当時、アメリカ軍は各部隊の専用装備をひたすら作っていました。これにより、現在、コレクターは喜んでいるやら、悲鳴を上げているのやら。

 同報告書ではドイツ軍とソビエト軍が訓練において異なる方法を用いていることも指摘しています。ドイツ軍はパラシュート部隊の養成に6回の降下を部隊の一員として行うことを必要とし、ソビエト軍は飛行機からの降下を行う前に降下塔を用いた降下訓練を行っていました。

※ソビエトは他にもパラシュート無しの降下実験も実施していますが、画期的すぎてどこの国でも無視しました(一応、雪原に飛び降りる実験です)。

 最終的にまとめられた研究結果により―というより、ドイツ軍空挺部隊によるエバンエマール要塞攻略の活躍を元に空挺部隊の任務は、奇襲、偵察、飛行場の奪取、敵の後方攪乱、そして水陸両用作戦を支援するための橋頭堡の確保とされました。

 研究は進みますが、専門技術は不足したままで、それでも司令部は計画実現へ向けて迅速に行動し、1940年10月に各部隊に志願者募集の回状を送付します。

 志願者の条件は、大尉以上の将校及び妻帯者を除き、健康(視力及び血圧)に問題のない下記の条件を満たす者とされています。

・年齢:
21歳-32歳
・身長:
167-188センチ(66-74インチ)
・300メートルの高さから飛び降りようと言ういかれた奴

 更に願書には、海兵隊での教育記録及び競技経験に関する情報が含まれ、実質、平均以上の能力が求められました。

 なお、採用された場合、士官に100ドル、下士官兵に50ドルの降下手当が支給されることと明記されています。

 少尉が月125ドル、一等兵が月36ドルだった時代です。給料より多い降下手当(危険手当)は大きな魅力の一つでしたが、ドイツ空挺部隊の成功を知っている志願者の多くは、

「壮大で輝かしい仕事」

 として空挺部隊の存在をとらえており、降下手当の有無はそれほど関係ありません。

※ちなみにパットン少将が風紀取り締まりでアフリカ戦線で実行した罰金は兵士が23ドルでした。

 次に組織を築くために必要な母体となる部隊の責任者としてマリオン・L・ドーソン大尉が選ばれ、空挺部隊に必要な装備の調達及び整備のために二人のパラシュート整備員がアシスタントとなりました。

※なお、ドーソン大尉が、二人の中尉とニュージャージー州レイクハーストに着任した際、当初、ウォルター・S・オシポフ少尉とロバート・C・マクドナヒュー少尉の二人がパラシュート訓練生の先陣に立つ予定でしたが、その後でドーソン大尉も参加するように促され、本人曰く「嫌々ながら」飛び降りた結果、見事に足を骨折。その日、唯一の負傷者となりました。

 1940年10月26日、オシポフ少尉とマクドナヒュー少尉の二人、そして38人の下士官と兵士がレイクハーストに参加することとなりました。

 二日後の10月28日から訓練が開始され、16週間後の2月27日に訓練は終了します。

 この間、司令部の計らいによって海兵隊飛行隊VMJ-1から、所有する輸送機R2D-1(民間名DC-2)2機が派遣され、実際に航空機からの降下訓練が12月6日から21日という2週間ほどの僅かな期間ながらも実施されています。輸送機が変換されてからは、海軍の気球からの降下訓練へと切り替わりました。

 こうして卒業するまでに、何名かは事故などにより訓練から脱落したものの残った者は、パラシュート降下と整備員の資格を得るために必須とされる10回の降下を完了し、教官としてレイクハーストに止まるか、艦隊海兵隊(FMF)へと配属されることになり、また、次の第2期訓練が実施されるまでにドーソンと彼のスタッフは、1期生の訓練プログラムを元に実施要領を作成しました。

※事故に遭った者の中にはオシポフ中尉も含まれています。

 こうして1941年。カリフォルニア州サンディエゴの第2海兵師団から、最初のパラシュート部隊第2パラシュート中隊が3月22日に正式に創設します(第2パラシュート大隊A中隊。指揮官ロバート・H・ウィリアムズ大尉)。5月28日にはバージニア州クアンティコにて第1パラシュート大隊A中隊が創設(指揮官マッケラス・J・ハワード大尉)。

 夏に二つの部隊は合流し、第1パラシュート大隊となります(指揮官ウィリアムズ大尉)。

 7月の後半から、海兵隊航空隊と海軍哨戒機を用いて、海兵隊のパラシュート分遣隊による戦闘降下訓練が始められますが、とにかく、全中隊の兵士を降下させるには輸送機の数が足りないことが問題になってきます。

 ウィリアムズ大尉は、降下兵が新世代の歩兵であるという信念を立証するために大隊の訓練に時間を費やします。

 タイムズの記者はその記事に、

「彼らの装備は海兵隊の中でも強靱に見え、誰もが強靱に見える」

 と記します。

 7月の降下演習では、落下傘部隊が戦場に突如として現れることがどのような反応を示すかが立証されました。

 バージニア州フレデリックスバーグ近郊の飛行場に降下した際、敵役となった陸軍第44歩兵師団の指揮官は、海兵隊が降下してくるとはつゆほども知らず、完全にパニックに陥ったのです。

 しかし、同時に空挺作戦の限界も明らかになりました。雷雨が近付いたことで、その強風により森の中へと降下するはめになった隊員が多数発生したのです。幸い、その40名の中に重傷者はいませんでした。

危険なパラシュートの花:この演習中に40名が吹き飛ばされました。

 それでも、突如、出現する空挺部隊によって、戦場にどのような混乱が生じるかは見事に立証されたことになります。

※後、1944年6月6日に降下した第82及び第101空挺師団の兵士たちはばらばらに降下させられ、その結果、ドイツ軍の戦線は大混乱になりました。また、1944年12月のラインの守り作戦で降下したドイツ空挺部隊はあちこちに分散してしまいますが、これが後方攪乱部隊や暗殺部隊の噂を呼び、連合軍の後方を大混乱に陥れることになります。

 1942年末に12ページのマニュアル「パラシュートと空挺歩兵」が作成されました。これには上記の構想が盛り込まれ、空挺部隊が上陸部隊の支援を行うと同時に飛行場や橋のような戦略拠点の確保、情報収集、後方攪乱任務を行うために小グループによる活動を実施する旨が記載されていました。

 このマニュアルには作戦実行時の詳細には触れられていませんでしたが、パラシュート部隊では海兵隊の輸送機パイロットと共同で、それらを考えだしていきます。

 

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