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RAIDERS(海兵強襲部隊)

イントロダクション

レイダースの精鋭たち
レイダースの精鋭たち
(ブーゲンビルにおける第2強襲大隊"National Archives"より)

「彼らは、自分たちの時代に対決し、新しい勇猛な精神に溢れて、戦場に出掛けていった。
彼らは敢えて"遊びを楽しむ年頃"を拒否したのだった」

Ballantine'sBooks"COMMANDO(1969)":ピーター・ヤング准将(退役)著

ピーター・ヤング:イギリス陸軍准将。コマンドゥ部隊の創設時からのメンバー。後第1コマンドゥ旅団長。1959年退役

序章

 1940年、ドイツ軍は一気にベネルクス三国を突破し、フランスに雪崩れ込みました。

 イギリス軍とフランス軍は、必死に防戦するもののドイツ軍の電撃戦と、また各部隊の連携(特にフランスとの)も上手く行かず、フランスは降伏し、イギリス軍もダンケルクに包囲され、ダイナモ作戦とピッケン少佐の奮闘によって手当たり次第に掻き集めた船により、イギリス本土へと撤退することになります。

 この撤退そのものは、ベルリン在住のアドルフおじさんの手助けもあって上手くいったものの大敗北に変わりはなく、意気消沈し、士気もかんばしくない状態の中、一人の中佐がダンケルクからの撤退最後の日となる6月4日、ロンドン西部メイフェア区のアパートで紙一枚にメモをとる形で自分のアイデアを整理していました。

 そのダッドレー・クラーク中佐(参謀総長副官)は、翌日、まとめあげたメモをジョン・ディル参謀総長へ提出し、更に翌日、ディル参謀総長はチャーチル首相に中佐のアイデアを提案します。

 6月8日には承認された旨の連絡がクラーク中佐にもたらされ、その日の午後にはMO9課が設置。しかし、ドイツ軍侵攻の対処も考えなければならなかったために条件付きでした。その条件とは、

何をやってもよし

 という厳しいものでした。但し、防衛部隊からの転用は無し、装備も最低限しか支給できないという制限だけはありました。

※チャーチル首相自身が支持していましたので。

 ここに少数精鋭の強襲部隊、世界初の特殊部隊が誕生します。かつてボーア戦争でイギリス軍2万と戦ったボーア軍部隊の名を受け、「コマンドゥ:Commando」と命名された強襲部隊は編成から僅か19日後に第1回の奇襲作戦を実行することになります。

 6月23日から24日にかけての夜半に、第11独立中隊(アーガイル・サザーランドハイランダー連隊ロニー・トッド少佐指揮)120名が、当時、イギリス軍が所有していたトミーガンの半数を手にフランス北部のドーバーの向こう岸ブローニュとルツーケに上陸を敢行。ブローニュでは、航路を誤り、ドイツ軍の探照灯にさらされ、逃げ回るはめになりますが、幸い軽傷者一名(発案者で、同作戦にオブザーバーとして参加していたダッドリー・クラーク中佐)のみで逃走に成功。一方、ルツーケでは上陸に成功し、ドイツ軍の建物に接近。歩哨二人を殺害しますが、鉄条網に阻まれたために侵入ができず、手榴弾を数発投げ込んで逃走しました。

※この話、どうしても、玄関のチャイムを鳴らして奪取で逃げる光景が思い浮かぶのですが……

 成果はともかく、ダンケルクから僅か一ヶ月で反撃に転じたことは士気の高揚として非常に大きな意義を持つ作戦になりました。

 その後、コマンドゥは、ロフォーテン諸島強襲、サンナゼール強襲、そしてディエップ敗退と数々の武勲をあげ、ベルリン在住のアドルフおじさんを震え上がらせ、ノルウェーに37万の兵力を貼り付けさせ、更に悪名高い「コマンドゥ令」を出させる獅子奮迅の活躍をすることになります。

※コマンドゥ令:コマンドゥの神出鬼没に恐れをなしたヒトラーが、「コマンドゥの作戦に参加した敵兵を最後の一兵にいたるまで殺害せよ」と命じたもの(1942年10月10日)。守られた例もあれば、そうでない例もあり、ドイツ軍の衛生兵に治療を受ける写真や、栄誉礼を持って埋葬される写真があるだけでなく、あるコマンドゥ士官は、ビクトリア勲章授与の報せを捕虜収容所で受け取った際、収容所では彼のために閲兵行進までしてくれたとのこと。


 コマンドゥが、初の強襲作戦を実行した翌年、海兵隊は大尉から大佐の階級にある者をオブザーバーとして派遣しました。

 彼らが視察した中には、スコットランドで実施されたコマンドゥ部隊の上陸演習もあり、自分たちが長年研究していた作戦を目の当たりにしたような気分となり、感動します。

 しかし、ただ一人冷静な人物がいました。ジュリアン・C・スミス大佐です。後に第2海兵師団長となるスミス大佐は、当時の司令官ホルコム少将への報告で、

「我々より優れてはいない。海兵隊の全ての大隊が、彼らと同じ仕事ができる」

 と述べています。確かに海兵隊が戦後(WW1です)20年の間に模索していたのは、コマンドゥ部隊の任務を更に拡張発展させたものでしたので、スミス大佐の意見ももっともでしたが、しかし、この意見は少数派でした。

 一方、ルーズベルト大統領はイギリス首相ウィンストン・チャーチルが、コマンドゥ部隊の実績を持っての説得もあって、熱狂的支持者となっていました。

 ホルコム少将は空挺部隊の編成には大いに乗り気でしたが、強襲部隊の編成には難色を示していました。

 しかし、1942年2月、第1海兵強襲大隊(1st Marine Raider Battalion)と呼ぶ新しい部隊の創設命令がくだったことにより、この精鋭部隊と後に続く三つの姉妹大隊は、創設、発展、そして突然の終焉による短い歴史の中、海兵隊が19,000人から50万人にまで規模を拡張したことにより、直面した水陸両用作戦に対する挑戦とともに伝説を築き上げていくことになります。


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