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RAIDERS(海兵強襲部隊)

マキン強襲:Raid on Makin

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ブタリタリ島(通称マキン島)

 1942年夏、ニミッツ提督はカールソン大隊を使うことを決定しました。作戦では、ギルバート諸島マキン環礁が目標に選ばれ、当時、利用可能だった二隻の潜水艦(ノーチラス及びアルゴノーツ)が強襲中隊を輸送することとなりました。

 この部隊は夜明け前に、ブタリタリ島に上陸し、兵力45名と推定される駐屯部隊を全滅させた後、夜間に撤退し、翌日、リトル・マキン島に上陸するとされました。

※マキン島は通称で、正式にはブタリタリ島です。

 作戦決行日は、ウォッチタワー作戦の10日後の8月17日。作戦目的は、幾つかあって前述の駐屯部隊の全滅に加え、軍事施設の破壊、捕虜の確保、更に地域で情報を収集し、ついでにガダルカナルやツラギから日本軍の注意をそらし、増援部隊の派遣を遅らせる、と多岐に渡りました。

※思い付く限りの目標を詰め込んだようです。

 第2強襲大隊のA中隊とB中隊は8月8日に潜水艦に乗り込み、真珠湾を出航しました。

 当初は順調でしたが、現地に近付くにつれ、天候は悪化していき、海上に浮上したのは嵐のまっただ中でした。

 この悪天候により、カールソン中佐は計画変更を決定。各中隊が分散して上陸することをやめ、まとめて上陸することになりました。

 割を食ったのはオスカー・F・ピートロ中尉の小隊で、彼と彼の分隊12名は、単独で敵背後に上陸するはめになりました。

 悪天候の中、ゴムボートが降ろされ、彼らは一路、海岸へと向かいますが、天候に合わせ、エンジンの不調が重なり、とどめとばかりに武器の暴発事故が発生し、奇襲は台無しになりました。

 メルウィン・C・プラムリー中尉のA中隊が、島を迅速に横断し、既に確認されている日本軍拠点のある南西方向へ向かい、ラルフ・H・コイト大尉指揮下のB中隊は予備として、その後を追います。

 この直後、レイダースは日本軍(金光三郎兵曹を隊長とする第6艦隊第63警備隊)と接敵し、銃撃戦となります。この中、クライド・トーマソン軍曹は、自らの身体をさらしながら、銃撃を直接指示して奮闘する中、戦死しますが、これにより、トーマソン軍曹は第2次世界大戦で海兵隊が授与する82個の名誉勲章の下士官兵として最初の一つを授与されることになります。

 この戦闘による日本軍の機関銃と狙撃手によって、強襲部隊の前進は阻止されますが、二度に渡る日本軍の万歳突撃は、逆に撃退します。

 1130時に2機の日本軍航空機が飛来し、戦闘状況を伺い始めます。カールソン中佐は部下に発砲を行わないよう命令したことや、地上部隊との連絡も取れなかったこともあり、結局、爆弾を投下して去っていきましたが、海兵隊の上には落ちてきませんでした。

 更に二時間後に12機が飛来。この中に何機か混ざっていた水上機の内、2機が礁湖に着水したためにレイダースは機関銃とボイス対戦車ライフル(良く潜水艦が沈まずに済んだものだ、と言ってみる)が火を噴き、一機は即座に炎上し、もう一機は多数の命中弾を受ける中、離水しようとして失敗しました。

 これを見て残りの航空機が島に爆撃と機銃掃射を一時間ほど行い、更に午後遅くにも別の爆撃が行われました。

 一方、突如として現れたレイダースに、島の住民たちは、この日、喜んで支援を行っていました。彼らは弾薬を運び、更に情報を提供。この中には、礁湖に二隻の小型船と水上機が接近し、増援部隊を上陸させたという物も含まれていました。この二隻の小型船自体は帰還する前に潜水艦からの間接照準射撃が、奇跡的に命中して撃沈されています。

 こういった情報を元にカールソン中佐は、この島に推定以上の日本軍が駐留していると判断します。

 実のところ、この日、二度行われた突撃で日本軍駐留部隊はほぼ全滅したのですが、そんなことを彼らは知る由もありません。

 1700時に、カールソン中佐は一部の部下を集めて、幾つかの選択肢を話し合う中、ルーズベルト少佐と大隊作戦参謀は、翌日に予定されているリトル・マキンの上陸中止を主張。このまま前進することは、彼が対処できないくらいの激戦になることも予想されたため、カールソン中佐は彼らの意見を受け入れました。

※繰り返しますが、この時点で日本軍はほぼ全滅していました。しかし、その時点では誰もそのことを知らず、またカールソン中佐自身が後に、このときの自分の精神状態が極めて低調だったことを認めています。

 この段階においては作戦は順調に進んでいました。20人が援護のために海岸に残る中、ゴムボートが海へ押し出されます。

※カールソン中佐は、その時点で、全員が乗り込んだものと思っていた。

 1930時、海へと押し出されたゴムボートは、災厄が荒波に姿を変えて襲い掛かり、船外機は即座に停止。彼らは必死になって水をかき出し、オールを漕ぎますが、結局、ほとんどのゴムボートが転覆し、装備の大半を彼らは失ってしまいます。

 何度か潜水艦とのランデブーを試みたものの結局カールソンと120名の隊員は、海岸で窮することとなります。このとき、大隊長にすっかり忘れられていた援護部隊20名以外には一握りの隊員が武器を持つだけとなっていました。

 夜半、小規模の日本軍のパトロールが彼らに接近。その三人を殺害する前に歩哨が負傷させられます。

 上陸したレイダースは、既に秩序を失って混乱していましたが、日本軍の方も混乱しきっている状態で、カールソン中佐は後に、

「もう一つの戦争の集会」

 と呼ぶのですが、この時点で、更に精神的に追い詰められた中佐は、周囲の意見を聞くこともなく、降伏を決意します。理由としては負傷者と、そして-そのミーティングに参加していない-ジェームズ・ルーズベルト少佐に対する心配でした。

※何しろ、ルーズベルト少佐、大統領の息子ですので。

 0330時にカールソン中佐は、敵と接触するために作戦参謀とその護衛の海兵隊員を派遣しました。彼らは、偶然、一人の日本軍兵士と遭遇、降伏の意向を記した短い手紙を渡すことに成功します。

 その一方でカールソン中佐は、部隊全員に自らの判断で抵抗する権限を与えるという矛盾した命令を出しています。

 これにより、何人かは潜水艦に到達する挑戦を再度行うことを望み、翌朝までにルーズベルト少佐を含め、更に搭載能力を超えて人員を積み込んだゴムボートは打ち寄せる波を乗り越えることに成功しました。

 その間、少数の日本軍が降伏しようというレイダースの調査のために接近しますが、反撃許可を与えられた隊員は彼らを攻撃し、数名を殺害してしまいます。

※この内の一人がレイダースの降伏文書を受け取った兵士と推測されています。戦争だから、とも言い切れますが、17日夜のカールソン中佐の行動は支離滅裂で、結果的に日本軍を騙し討ちにしたということになりました。

 夜明けとともに状況は劇的に好転していました(というか、カールソン中佐の精神状態が)。降伏のために派遣された二人の報告で、島に残存する日本軍は既に組織としての統制を失っている上に、まだ70名の強襲隊員が海岸に残り、頑強な者は戦場周辺に落ちていた武器を手に戦う意志を示していました。

 カールソン中佐は、敵と食料を捜すためのパトロールを組織し、彼らは更に二名の日本兵と遭遇し、これを殺害。この時点で、日本軍の抵抗の欠如が確認され、裏付けを取るためにカールソン中佐自らもパトロールを先導し、軍事施設と物資貯蔵庫の破壊を行いました。

 この時点で、83名の日本兵を殺害し、強襲部隊の損害は戦死14名でした。原住民の報告を元にカールソン中佐は、部隊が160名の日本兵を殺害したと見積もった、その日、日本軍は四度爆撃を行いましたが、これにより、海岸にいる強襲部隊が被害を受けることはありませんでした。

 この日の内に潜水艦との接触が成功し、夜間に合流する手配が整えられました。今度は撤退を妨害する波は無く、彼らは残った四艘のゴムボートを引っ張って島を横断し、現地の材料で舷外浮材を作成し、2300時までに残った上陸部隊はノーチラスとアルゴノーツへ帰還しました。

 このように全体の撤退が、混乱に次ぐ混乱だったこともあり、二つの中隊はバラバラにそれぞれ潜水艦に乗り組んだために、正確な損失は真珠湾に帰還するまで判明しませんでした。

 真珠湾帰還後に、部隊の損失は、戦死18名、行方不明12名となり、この作戦は終了しました。

ノーチラス(SS168)

 1942年8月26日、真珠湾に帰還した際の乗組員と第2強襲大隊A及びB中隊のメンバー。多くのレイダース隊員は、カーキの夏期戦闘服を黒く染め上げて着用しています。

 作戦は終了したものの一部の隊員の戦いはまだ続いていました。行方不明者の内9名は、まだ生存していたのです。彼らは合流地点を誤り、島に取り残されましたが、現地の人々の支援を受け、8月30日に降伏するまでの2週間を逃げ延びています。

※捕虜となった彼らは、戦後の調査でクウェゼリン島へ送られ、そこで処刑されたことが判明します。

 この強襲作戦の結果は、賛否両論が混在していました。報告書に描かれたのは、大勝利であり、銃後の士気を高める効果もあったとされ、ガダルカナルに送るべき部隊を転換させることにも成功したと大半には信じられました。

 しかし、日本軍も馬鹿ではなく、作戦の規模と意図を即座に見抜き、ソロモン諸島に対する計画に変更を与えることはありませんでした。

 また、否定的な意見には、この作戦によって日本軍に各拠点の要塞化を促し、同じギルバート諸島に属するタラワ環礁を攻略する際、初の水陸両用作戦において高い代償を支払うことになったというものもありました。

※ガルヴァニック作戦の際、第165歩兵連隊がマキン環礁の攻略を行いましたが、その際の損失は海上で潜水艦などに沈められた軽空母を含め、1000名を超す死傷者を生じています。

 戦術レベルにおいては、第2強襲大隊は日本軍と正面を切って戦えるだけでなく、最大の苦難となった荒波と乏しい装備というハンディキャップを勇気によって打ち破ったことを証明して見せました。

 しかし、海軍は、この作戦以降、敵後方に対する強襲作戦に潜水艦を用いることはありませんでした。

 カールソン中佐は、マキン環礁における活躍により、海軍十字章を授与され、大衆からは英雄と讃えられますが、彼と共に戦った部下の中には、その功績を素直に喜べない者もいました。何人かの下級士官は、彼のリーダーシップ-特に存在しなかった日本軍に降伏しようとしたことを非難する声も出ています。

 事実、カールソン中佐自身も、17日の夜に、自分が、

「精神的に追い詰められていた」

 ということを認めています。しかし、批判する者の多くは、18日の夜に、抵抗のために原住民を組織化する試みを自ら計画する一方で、撤退は部下に一任したことや、実際に戦闘中に中佐の見せた勇敢さについては無視していました。

 しかし、批判する人々の主張のように、中佐がいざという時に、自らの攻撃性と判断力を失ったことは確かですが、彼と強襲部隊が、近い将来、日本軍が別な裂け目が生じることを待ち望んでいるのも確かでした。

※批判した人間の一人が、カールソン中佐の後任として第2強襲大隊の指揮を引き継ぐアラン・シャプリー中佐でした。シャプリー中佐は、共産主義思想が現実世界においては害悪でしかないことを知っていた人間であり、これにより、カールソン中佐の思想は徹底的に排除されることとなります。

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