RAIDERS(海兵強襲部隊)
第2強襲大隊による長距離偵察
第1強襲大隊がガダルカナルを去って間もなく、今度は第2強襲大隊に出番が回ってきました。
カールソン中佐の第2レイダースは、マキンの戦いの後にハワイで再編成を行っていましたが、9月上旬に部隊は、南ソロモン諸島への主要集結地点であるニューヘブリディーズ諸島エスピリッツ・サント行きの輸送船に乗り込みました。
とはいえ、上層部では彼らに何をやらせるか、まだ決めていなかったために作戦が決定するまで訓練をそこで積み重ねることになります。
南太平洋水陸両用部隊司令官リッチモンド・ケリー・ターナー海軍少将がガダルカナルに新しい飛行場を建設する計画を立て、ガダルカナル北東の海岸アオラ湾に部隊を上陸させることとなりました。
上陸第1陣に選ばれたのは第2レイダースのC中隊及びE中隊で、彼らには陸軍大隊、海軍設営部隊シービーズ、そして海兵防衛大隊のために海岸を確保するように命じられます。
11月4日朝、APDマッキーンとマンレーの二隻は両中隊を海岸に揚陸しました。抵抗は無かったのですが、前進した彼らはすぐに湿地帯ばかりのジャングルに遭遇し、空港建設はとても無理だということが判明しました。
翌日。することがなくなった第2レイダースのカールソン中佐にヴァンデグリフト少将から、空中投下でメッセージが届けられました。これにより、海兵隊と陸軍の部隊はメタポナ河近郊にいる日本軍の大規模部隊の掃討を行うために防御陣地から東へと移動を始めました。
目的の日本軍部隊は第230歩兵連隊で、エドソンリッジに対する攻撃の一環として西からジャングルを進んでいたのですが、攻撃には間に合わず、東で新たな地点を確保するまで海兵隊の周辺をうろついていたのでした。その部隊に加え、第228歩兵連隊の大隊が東京急行によって増強されたことが確認されたためにヴァンデグリフト少将は、レイダースがアオラから進軍し、後方から日本軍を悩ませようと考えたのです。
命令を受けたカールソン中佐は港湾監視員と現地人スカウトを案内人として、11月6日に四日分のレーションを持ち、アオラを後にしました。
※レイダースの一人ジェイコブ・ヴォウザ曹長は既に島民の間で英雄とされていました。
西に向かう前にレイダースは一端内陸へ移動。道は狭く、草木が生い茂っており、すぐに先導する現地人スカウトたちの重要性が明らかとなります。
11月8日、レコ近郊で小規模の日本軍の待ち伏せに遭遇し、海兵隊は日本兵二人を殺害。一方現地人の一人が負傷しました。
11月9日、部隊は海岸から8マイルのベレスナ河の村ビヌに到着。カールソン中佐は、そこで一度部隊を停止させ、パトロール部隊が海兵隊と陸軍部隊の接触するまで付近にいると思われる日本軍部隊主力との接触を禁じました。
海兵隊創立167周年を迎える11月10日。タシムボコに第2強襲大隊B、D、F各中隊が上陸し、陸路で移動を開始します。
※なお、D中隊はエスピリッツ・サントを離れる前に他の中隊の主要人数を見たすために一個小隊しかありませんでした。
彼らレイダースに対する補給は、ヒギンズボートで海岸まで運び、そこから現地の人夫が運ぶという手段を執り、これにより運ばれたレーションは、通常、紅茶、米、レーズン、そしてベーコンとカールソン中佐が考案させた携帯式ゲリラフードに、たまにDレーションのチョコバーが加わりました。
海兵隊側が部隊を止めている11月9日から10日の夜にかけて、約3,000名の日本兵が包囲網を逃れたとされます。しかし、既に疲弊し、飢え、敗北に打ちひしがれたとはいえ、日本軍が未だ手強い相手であることに代わりはありませんでした。
11日。第2強襲大隊四個中隊は、ビヌにベースキャンプを置き、周辺の哨戒を始めました。各部隊がTBXラジオを保有し、午前半ばに、この部隊の一つが第7海兵連隊第1大隊のパトロール部隊との連絡で日本軍の包囲網突破を察知しました。数軍後にはC中隊がアサママにいる日本軍の大規模部隊へ向かって走り、そのまま広大な草原地帯を横切って雑木林へ飛び込み、日本軍へ奇襲をかけます。海兵隊は5人が戦死し、3人が負傷しながらも、最初の戦闘で日本軍に多数の死傷者を与えますが、混戦状態に陥ります。
カールソン中佐は、パトロール部隊の二つを支援が必要な方向へと向け、ベースキャンプから一個小隊を増援として派遣しました。この部隊はE中隊が反対側から現れた別な日本軍部隊と混戦に陥ったためにメタポナを横断。
この時点で日本軍の方が優勢で、最初の内は海兵隊に撤退を強いましたが、リチャード・T・ウォッシュバーン少佐が中隊の再編成を行って再渡河を試み、反撃を開始。これにより、日本軍に多大な損害を与えはしたもののC中隊との連結を果たすことはできませんでした。
午後半ば、カールソン中佐は自らF中隊を率いてアサママへと向かいます。
幸いF中隊が到着した時には、C中隊は自分たちの60mm迫撃砲の援護射撃の下で脱出していました。そこでカールソン中佐は二機の急降下爆撃機を呼んだ上で、E中隊に孤立した戦いを終わらせるように命令し、側面から日本軍主力部隊を攻撃するようF中隊に命じます。
夕暮れまでに作戦行動は完了しましたが、彼らが発見したのは、とっくに放棄された拠点の跡でした。
強襲大隊はビヌに戻って再集結しますが、そこでD中隊が更に別な日本軍と遭遇して、午後の大半を釘付けにされていたと報告しました(戦死3名、負傷1名)。
11月12日。カールソンは、B中隊とE中隊を率いてアサママへ引き返しました。その日、放棄された日本軍陣地に入った彼らは、まだ自軍のものであると思っていた日本軍の伝令を待ち伏せし、25名の殺害に成功しました。
午後、カールソン中佐はC中隊に合流を命じ、翌日、付近を日本軍が移動していることを察知し、これら五つの単独集団に砲弾を浴びせるといった攻撃でジャングルを進む日本軍の残存部隊に損害を与え続けました。
11月14日。カールソン中佐がビヌまで後退することを決定した日、F中隊のパトロール部隊は現地人スカウトの報告を受けて、敵の前哨部隊15名と交戦し、これを全滅させています。
ビヌで再補給を受け、つかの間の休息の後に第2レイダースは、11月15日にアサママへ自分たちのベースキャンプを移動させました。このベースキャンプからのパトロールを二日間行った結果、日本軍の主力はこの一帯から姿を消したことが確認されるとヴァンデグリフト少将の命令でカールソン中佐は11月17日に防衛線に帰還し、そこで少将から直接、当時、定期的に飛行場へ砲弾を送り込んでいた通称「ピストルピート」の探索が命じられます。大隊は周辺を周回しながら、痕跡を探し求めたレイダースは次の数日間にはテナウ河まで前進しました。
11月25日にA中隊がエスピリッツ・サントから到着し、大隊と合流。更に次の数日間、第2強襲大隊は三個戦闘チーム(一戦闘チームに付き、二個中隊)を形成して、周辺の捜索を行い、内陸部、テナウからルンガが和上流の地域にまで毎日のように移動しました。カールソン中佐はセンターチームと行動を共にし、その地点からは両側面の分遣隊いずれにも増援を送ることが可能でした。
11月30日に大隊はテナウとルンガの渓谷を分割する急な稜線上を渡る際、電話線を発見しました。この発見により、放棄された75mm山砲と37mm対戦車砲のある大規模な野営地へ強襲大隊を導き、そこで彼らは大砲から主要部品を外して山腹へとまき散らしました。
この間、前衛部隊が更に前進したところ、気が付けば約100名の日本兵のいる別な野営地の中へと踏み込んでおり、双方とも驚いたもののジョン・ヤンシー伍長が自らの自動火器を撃ちまくりながら、部隊について来るように呼び掛けながら、日本軍の中に突入していきます。日本軍は数には勝っていましたが、大半が銃を叉銃にしていたために手元に武器が無い状態であったためにまともな反撃ができず、後にカールソン中佐が、
「我々が遭遇した中で最も壮観な物」
と語るように日本軍は75名の戦死者を出していました。ヤンシー伍長は、これにより海軍十字章の最初の一個を獲得することになります。
※二個目は朝鮮戦争において獲得。
翌12月1日、ダグラスR4Dスカイトレイン輸送機が、レイダースの要請によってレーションの空中投下を行いました。カールソン中佐は、更に数日間の追加を要請して許可を得ました。
12月3日、疲弊した部下たちを鼓舞する意味もあって、中佐は、"ガン・ホー"ミーティングを行った後、第2強襲大隊を半分に分割し、前線に沿って戦場経験が最も長い中隊を送り、残りを自らオー素単山の頂上まで導きました。パトロール部隊は既に放棄された強固な日本軍拠点を発見していましたが、別な方向から、日本軍の小隊が接近していたために、これと遭遇。辛うじて目的地に達していたレイダースは、この部隊と二時間に及ぶ銃撃戦と二重包囲網という二つの行為によって、掃討に成功しました。海兵隊は負傷4名(内1名が直後に死亡)の損害に対し、日本軍は25名を失いました。
12月4日、カールソン中佐は海兵隊の防衛線に引き返すために部隊を先導しますが、最後の小競り合いが残されていました。日本兵7人が待ち伏せをしかけ、彼らは全滅するまでにレイダース4名を殺害することに成功しました。
第2強襲大隊の長距離偵察は、戦術的な見地から極めて成功した、とされました。大隊の損失は戦死16名、負傷18名。一方で日本軍488名を殺害。ゲリラ戦術が有効であることが証明されると同時に、損害比率においても重要な役割を果たしたとされました。
第2強襲大隊が後背で主な活動を行った際に、彼らは自身の隠密性と、それにより日本軍の弱点の両方を証明して見せたのです。
とはいえ、死傷者34名という数字は正確ではありません。第2レイダースは、作戦中に重病者225名を後送しているからです。彼らは主にマラリア、赤痢、そして白癬(みずむしともいう)、更にツツガムシ病などの風土病にかかっていました。これらの病気はガダルカナルでは当たり前の存在でしたが、第2強襲大隊は不十分な食料に、悪条件から他の海兵隊部隊以上の損失を受けました。僅か二個中隊が丸々一ヶ月を最前線で過ごし、C及びF各中隊はアオラ湾に133名で上陸しましたが、12月4日に帰還した時には57名にまで数を減らしていました。
現地人スカウトに導かれる第2強襲大隊戦闘/偵察パトロール部隊
この作戦中、第2強襲大隊は150マイルをカバーし、一ヶ月の間で一ダース以上の戦闘を戦いました。
これらの動きを支えたのが、スカウト、ガイド、そして補給物資の運搬を行った現地の島民たちでした。
そして、これらの活躍を支えたのは、補給物資の運搬を受け持った現地の人々で、もし彼らの努力によって補給が維持されていなければ事態は更に悪化したとされています。
こうしてカールソン中佐の提唱するゲリラ戦術は、多数の損害を日本軍にもたらした一方で、自らの人的損失も軽い物ではありませんでした。
にもかかわらず、第2強襲大隊の評価は落ちることはなく、ヴァンデグリフト少将は、
「完全な技能が、トレーニング、スタミナと不屈の精神のために大隊の全てのメンバーによって発揮され、そしてその賞賛に値する闘争心と高い士気のために作戦遂行中に発揮された」
と、その業績を称えています。