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名誉勲章受章者-O-

氏名
受賞時階級
受賞年
戦地
ユージン・A・オブレゴン
一等兵
1950
朝鮮
ジョージ・H・オブライエン Jr.
少尉
1952
朝鮮
ロバート・E・オマリー
伍長
1965
ベトナム
ハリー・W・オランドーフ
1900
中国
エドワード・A・オスターマン
中尉
1915
ハイチ
マイルズ・M・オビアット
伍長
1864
モビール湾
マイケル・オーウェンス
1871
朝鮮
ロバート・A・オーウェンス
軍曹
1943
ブーゲンビル
ジョセフ・W・オズボーン
二等兵
1944
ティニアン
受賞者N

ユージン・A・オブレゴン一等兵

ユージン・A・オブレゴン一等兵

1950年:朝鮮

第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊G中隊

1930年11月12日 カリフォルニア州ロサンジェルスで生まれる
1948年6月7日 海兵隊入隊
1950年7月14日 第1臨時海兵旅団とともに朝鮮へ出発
1950年9月26日 戦死

感状:

 1950年9月26日、朝鮮ソウルの敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊G中隊に所属中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 海兵隊ライフル中隊の機関銃分隊の弾薬手として従事中に敵軍の銃撃に一時的に釘付けにされたとき、オブレゴン一等兵は同僚の海兵隊員が矢面で負傷し倒れるのを発見した。

 ピストルだけで武装し、彼は彼の防備された陣地から死傷者の側まで躊躇うことなく飛び出した。

 彼は走りながら、片手で彼のピストルを撃ち、彼は彼のもう一つの手で腕によって彼の戦友をつかむと、彼自身の大きな危険にもかかわらず、道路の脇へと彼を引っ張って行った。

 静まらない敵の銃撃下、彼はおおよそ小隊規模の敵軍兵士が彼の陣地へ進み始めたとき、彼は負傷した男に包帯を巻いていた。

 素早く負傷した海兵隊員のカービンをつかむと彼は彼の前へ彼自身の身体を盾として置くと、敵の機関銃の射撃によって彼自身が致命的に負傷するまで彼はそこに横たわり、敵軍の集団へと正確にそして効果的な銃撃を行った。

 彼の勇ましい闘争心、不屈の精神、義務への忠実な献身によって、オブレゴン一等兵は彼の同僚の海兵隊員たちに負傷者の救出を可能にさせ、そして攻撃を退ける本質的に補佐し、それにより、合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。

 彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。

ハリーS・トルーマン

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ジョージ・H・オブライエン Jr.少尉

ジョージ・H・オブライエン Jr.少尉

1952年:朝鮮

第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊H中隊

1926年9月10日 テキサス州フォート・ワースで生まれる
1949年7月 海兵隊予備役
1951年11月27日 海兵隊士官候補生コース
1952年8月 少尉任官
1952年10月27日 名誉勲章
1963年 海兵隊予備役において少佐昇進
2005年3月11日 死去

感状:

 1952年10月27日、朝鮮の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第3大隊H中隊のライフル小隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 前日の夜、数において優勢な敵部隊による突破されていた抵抗の主力線上の極めて重要な丘の陣地を襲撃する準備の間に激しい迫撃砲と砲撃を受けた彼の小隊とともにオブライエン少尉は攻撃信号が与えられたとき彼の塹壕から飛び出し、そして彼の部下たちについてくるように叫び、致命的な小火器、砲、そして迫撃砲火の事実上のあれれを抜けて、むき出しの鞍部と敵によって確保された丘へ登った。

 堅牢な塹壕の掘られた敵陣地近くで彼は敵軍の自動火器の射撃よって腕に貫通銃傷を負い、地面に投げ出されたにもかかわらず、彼は勇敢に彼の足取りを回復させ、殺到した彼の部下たちの先頭に立ち、そして唯一負傷した海兵隊員の手当に向かうに必要な間だけ中断して、突撃の先頭に立ち続けた。

 近距離で的に遭遇し、彼は掩蔽壕の中へ手榴弾を放り込み、そして激しい白兵戦における絶好の機会に彼のカービンを使い、敵を少なくとも三人殺すことに成功した。

 次に生じた戦闘中に三度も手榴弾の衝撃によって打ち倒され、彼は断固として医学的治療のために避難させられることを拒絶し、そして繰り返し、彼の部下を激励して、部隊の見事な指揮を維持し、四時間近くの間、突撃において彼の小隊を指揮し続けた。

 攻撃が停止したとき、彼は自らそれぞれの陣地を確認し、負傷者の世話と彼らの撤退を手早く行い、反撃の準備のために彼の残った部隊とともに防衛を準備した。

 陣地の救援がもう一つの部隊によってもたらされたとき、彼は撤退を援護するためと負傷者が後ろに残されていないことを確認するまで残った。

 圧倒的な勝算に直面しての彼の非常に大胆、そして力強いリーダーシップにより、オブライエン少尉は彼を目撃した全員に激励の誠実な根源となり、そして抵抗の主力線上の戦略的に重要な陣地の奪回に大いに役立った。

 彼の不屈の決意と勇気ある闘争心は彼自身に最高の名誉をもたらし、そして合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。

ドワイト・D・アイゼンハワー

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ロバート・E・オマリー伍長

ウィリアム・D・モーガン伍長

1965年:ベトナム

第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊I中隊

1943年6月3日 ニューヨーク州ニューヨークで生まれる
1961年10月11日 海兵隊入隊
1965年8月18日 名誉勲章
1965年12月 軍曹昇進

感状:

 1965年8月18日、南ベトナム、アンクォン2近郊で第3海兵師団(増強)第3海兵連隊第3大隊I中隊の分隊長として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す、共産(ベトコン)部隊に対する戦闘における際立った勇気と大胆さによる。

 堅牢な塹壕に隠れる敵部隊に対する突撃で彼の部隊を先導中に彼の部隊は激しい小火器の銃撃下におかれた。

 彼の個人的な安全を完全に無視し、オマリー伍長は敵部隊の位置する塹壕線へ開けた水田の向こう側まで走った。

 塹壕へと飛び込み、彼は彼のライフルと手榴弾によってベトコンと戦い、そして単独で8人の敵を殺した。

 彼は、それから多数の死傷者を被った隣接した海兵隊部隊の支援に彼の分隊を導いた。

 前方へと押し続け、彼は彼の武器を再装填し、そして敵の砲座の中へ強烈な効果で銃撃した。

 彼は自ら数名の負傷した海兵隊員の撤退を支援し、そして再び彼の分隊の残りを再編成し、彼は激しい戦闘の地点へと引き返した。

 将校による地点の撤退命令に、オマリー伍長は包囲され、そしてひどく傷ついた分隊を集め、そして大胆に撤退のためにヘリコプターへ銃撃下、彼らを導いた。

 この交戦において三度負傷と、狂信的、そして決然とした敵からの差し迫った死に直面しながらも、彼は断固として避難を拒絶し、そして攻撃にさらされた陣地から、彼は彼の負傷した部下たちが撤退するまで、敵に対して銃撃を送り込み、彼の分隊がヘリコプターへ搭乗するのを支援し続けた。

 僅かの後、彼の最後の任務が成し遂げられたとき、彼は彼自身が戦場から離れることを許した。

 彼の勇気、リーダーシップ、そして彼の戦友たちへの勇ましい努力により、彼は彼を目撃した全員を鼓舞する役に立ち、そして海兵隊と合衆国海軍職務の上に最高の名誉をもたらした。

リンドン・B・ジョンソン

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ハリー・W・オランドーフ兵

1900年:中国

海軍分遣隊55号

1872年11月9日 オハイオ州サンドスキーで生まれる

感状:

 1900年6月13、20、21、そして22日、中国において連合部隊の救援遠征隊に所属した戦闘において。

 この期間の間、そして敵の面前において、オランドーフは顕著な行為によって彼自身を際立たせた。

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エドワード・A・オスターマン中尉

エドワード・A・オスターマン中尉

1915年:ハイチ

第15中隊

1882年11月23日 オハイオ州コロンバスで生まれる
1899年10月21日 陸軍入隊(-1902)
1904年4月28日 陸軍再志願(-1905/11/12)
1907年4月30日 海兵隊少尉任官
1915年10月24日 名誉勲章
1943年1月1日 少将にて退役
1969年5月18日 死去

感状:

 全ての機動力を持つ海兵隊の第15中隊のメンバーとともに中隊において、オスターマン中尉は六日間の偵察のため、ハイチ、リバート要塞を去った。

 1915年10月24日の晩、日が暮れてから、深い峡谷で河を渡る間に分遣隊は要塞から約100ヤードの茂みに隠れた約400名のカコによって三方向から思いがけない銃撃を受けた。

 海兵隊分遣隊は、格好の陣地へその道筋を前進して戦い、カコからの絶え間ない銃撃の対象にもかかわらず、夜の間、それは維持された。

 夜明けにオスターマン中尉は、三つの異なる方向において前進した三個分隊の一つの指揮官として、彼の部下の前進を導き、カコを驚かせ、そして追い散らし、そしてディピティ要塞の奪取を助けた。

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マイルズ・M・オビアット伍長

1864年:モビール湾

USSブルックリン海軍分遣隊45号

1840年12月1日 ニューヨーク州キャットタローガス郡で生まれる
1862年8月19日 海兵隊入隊
1864年12月31日 名誉勲章
1866年8月18日 名誉除隊
1880年11月1日 死去

感状:

 1864年8月5日、モビール湾において衝角艦テネシーと砲艦、そして反乱軍要塞に対する戦闘中、USSブルックリンに乗船していた。

 甲板に浴びせられた敵の砲撃で乗船している多数の人員の損失と彼の船への深刻な損害にもかかわらず、オヴィアット伍長は反乱軍の衝角艦テネシーの奪取をもたらす二時間の戦いを通じて技能と勇気とともに彼の砲で戦った。

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マイケル・オーウェンス兵

1871年:朝鮮

USSコロラド海軍分遣隊215号

1853年2月6日 ニューヨーク州ニューヨークで生まれる
1865年8月17日 海兵隊入隊
1872年2月8日 名誉勲章
1888年8月17日 病気による名誉除隊
1890年12月8日 死去

感状:

 1871年6月11日、朝鮮要塞の奪取中にUSSコロラドに乗船していた。

 白兵戦において勇敢に戦い、オーウェンスはこの戦いの間、敵によって重傷を負った。

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ロバート・A・オーウェンス軍曹

ロバート・A・オーウェンス軍曹

1943年:ブーゲンビル

第3海兵師団第3海兵連隊第1大隊A中隊

1920年9月13日 サウスカロライナ州グリーンビルで生まれる
1942年2月10日 海兵隊入隊
1943年11月1日 戦死

感状:

 1943年11月1日、ソロモン諸島ブーゲンビル、トロキナ岬の極めて危険な上陸作戦中、敵日本軍部隊に対する戦闘において第3海兵師団第3海兵連隊に従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 海岸に戦略的に設置された強固に守られ、巧妙に偽装された日本軍75mm連隊砲の破滅的な射程内を抜けることを強いられた我が方の上陸部隊は死傷者とボートの大きな損失に苦しみ、海岸へ接近する試みと作戦成功へ深刻な驚異を受けていた。

 海兵隊のライフルと手榴弾の攻撃が、絶え間なく壊滅的な敵の銃撃に効果がないことを見て、迅速な行動の切迫した必要性に気付いたオーウェンス軍曹は彼の戦友たち4人に彼を援護するよう呼び掛け、二つの隣接した敵軍掩蔽壕の銃撃を遮るために彼らを慎重に配置して、そして躊躇うことなく決然と前線から砲座へ突進した。

 これらの地下壕を抜ける絶好の機会がもたらされた一瞬を選択し、彼は絶えず火を吐く榴弾砲の口の中へ直接突進し、そして射撃孔を通って入り込み、彼は彼自身が殺される前に砲兵を後方のドアから追い出し、そしてそれらの破壊を確実なものとした。

 ほぼ確実な死に直面しての不屈のそして精力的なオーウェンス軍曹は、日本軍の防衛の極めて重要な価値を持つ強力な砲を沈黙させ、そして彼の素晴らしい自発性と無私の英雄的精神によって、極めて重要な上陸作戦の成功へ限りなく貢献した。

 彼の勇敢な行為を通じて彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉がもたらされた。

 彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。

ハリー・S・トルーマン

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ジョセフ・W・オズボーン二等兵

ジョセフ・W・オズボーン二等兵

1944年:ティニアン

第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊

1919年10月24日 イリノイ州ハーリンで生まれる
1943年10月30日 海兵隊入隊
1944年7月30日 戦死

感状:

 1944年7月30日、敵日本軍によって確保されたマリアナ諸島ティニアン島の戦いの間、第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊所属のブローニングオートマチックライフル手として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 小隊のメンバーが並木に沿って防空壕と掩蔽壕から日本軍兵士残党の掃討の任務を命じられたとき、オズボーン二等兵は入り口からの激しい爆風に彼自身と四人の仲間がひどく負傷したとき、左右側面を二人の仲間に挟まれて、防空壕の中へ身につけた手榴弾を投げ込むために前へ進んでいた。

 防空壕の中へ手榴弾を投げ込むことができず、そして他の者を危険にさらすことなくそれを投げる場所も無いとオズボーン二等兵は躊躇うことなく、彼の身体の側へ引き寄せ、そしてその上に倒れ込み、彼自身の生命を犠牲にし、爆発の完全な衝撃を吸収し、彼の戦友たちを救った。

 彼の偉大な個人的勇気と不動の忠誠はオズボーン二等兵と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。

 彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。

フランクリン・D・ルーズベルト

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