名誉勲章受章者-P-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ミッチェル・ペイジ |
小隊軍曹 |
1942 |
ガダルカナル |
ポメロイ・パーカー |
兵 |
1898 |
キューバ |
ジョー・C・ポール |
上等兵 |
1965 |
ベトナム |
ウィリアム・T・パーキンス Jr. | 伍長 |
1967 |
ベトナム |
ローレンス・D・ピータース |
軍曹 |
1967 |
ベトナム |
ルイス・F・フェイファー |
兵 |
1901 |
USSペトレル |
ウェズリー・フェルプス |
一等兵 |
1944 |
ペリリュー |
ジョージ・フィリップス |
二等兵 |
1945 |
硫黄島 |
リー・H・フィリップス | 伍長 |
1950 |
朝鮮 |
ルーベン・J・フィリップス |
伍長 |
1900 |
中国 |
受賞者O |
ミッチェル・ペイジ小隊軍曹
1942年:ガダルカナル
第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊G中隊
1918年8月31日 | ペンシルバニア州チャールロイで生まれる |
1936年9月1日 | 海兵隊入隊 |
1936年11月 | USSワイオミング |
1937年2月 | ミール島海軍基地 |
1937年4月 | フィリピン |
1938年10月 | 天津(-1939/9) |
1940年9月 | 第5海兵連隊 |
1942年9月 | ガダルカナル上陸 |
1942年10月26日 | 名誉勲章 |
1942年12月19日 | 野戦任官にて少尉任命 |
1943年6月 | 中尉昇進 |
1943年12月26日 | グロースター岬上陸 |
1955年 | 第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊副大隊長 (後に大隊長) |
1959年1月 | 大佐にて退役 |
2003年11月15日 | 死去 |
感状:
1942年10月26日、ソロモン諸島地域の敵日本軍部隊に対する戦いにおいて第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊にて従事中、義務の要求を遙かに超えた戦闘における途方もない英雄行為と際立った勇敢さによる。
彼の陣地真正面において敵が前線を突破したとき、ペイジ小隊軍曹は、大胆な決意とともに機関銃班に命令し、彼の全ての部下が殺害、或いは負傷するまで機関銃手の射撃を指揮し続けた。
単独で、日本軍砲弾の死の雨に対し、彼は彼の銃に要員を配置し、そしてそれが破壊されたとき、他の者が引き継ぐまで銃から銃へと移動し、前進してくる大群に対して彼の壊滅的な銃撃を決して途絶えさせなかった。
それから、新たな前線が形成され、彼は怯まず、そして積極的に銃剣突撃を導き、精力的な敵を後退させ、そして我が方の前線を突破するのを妨げた。
彼の偉大なる個人的勇気と屈することのない義務への忠誠は合衆国海軍職務の崇高な伝統とともに保たれた。
フランクリン・D・ルーズベルト
ポメロイ・パーカー兵
1898年:キューバ
海軍分遣隊521号
1874年3月17日 | ノースカロライナ州ゲーツ郡で生まれる |
1892年9月13日 | 海兵隊入隊 |
1899年5月13日 | 不名誉除隊 |
1899年7月7日 | 名誉勲章 |
1946年12月30日 | 死去 |
感状:
1898年5月11日、キューバ、シエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する任務中、USSナッシュビルに乗船していた。
敵の激しい銃撃に直面し、パーカーはこの戦いを通じて並外れた勇気と冷静さを発揮した。
ジョー・C・ポール上等兵
1965年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第2大隊H中隊
1946年4月23日 | ケンタッキー州ウィリアムズバーグで生まれる |
1963年4月26日 | 海兵隊入隊 |
1965年8月18日 | 名誉勲章 |
1965年8月19日 | 死亡 |
感状:
1965年8月18日、ベトナム共和国のチュ・ライ近郊、スターライト作戦中、第3海兵師団(増強)第4海兵連隊第2大隊H中隊の射撃チームリーダーとして義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
激しい戦いの中、ポール上等兵の小隊は十分堅固な陣地の反乱者共産軍(ベトコン)部隊による壊滅的な迫撃砲、無反動砲、自動兵器、そしてライフルの銃撃を送り込まれて一時的に釘付けにされたとき、5人の死傷者を出していた。
負傷した海兵隊員たちは彼らの小隊の残りの彼らの危険なほどに露出した陣地前方から動くことができず、そして突然白燐ライフル擲弾の弾幕にさらされた。
ポール上等兵は、十分、戦術がほぼ確実に彼自身へ致命傷或いは死をもたらすだろうことを知りながら、彼自身の安全を無視することを決め、そして掃射されている稲田を横切って大胆に突進し、彼の負傷した戦友たちと敵の間に彼自身を置き、そして死傷者の避難を許す十分な時間、攻撃を反らすために彼の自動火器で効果的な制圧射撃を送り込んだ。
戦いの過程の間に銃傷を負ったにもかかわらず、彼は彼の露出した陣地に断固として留まり、そして彼が倒れ、そして避難させられるまで彼のライフルを発射し続けた。
彼の不屈の精神とほぼ確実な死に直面しての献身の雄々しい精神によって、彼は彼の同僚の海兵隊員たち数名の生命を救った。
彼の英雄的行為は彼を見た者全てを鼓舞し、そして彼自身、海兵隊と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は自由のために彼の生命を勇敢に捧げた。
リンドン・B・ジョンソン
ウィリアム・T・パーキンス Jr.伍長
1967年:ベトナム
第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊付戦闘カメラマン
1947年8月10日 | ニューヨーク州ロチェスターで生まれる |
1966年4月27日 | 海兵隊予備役 |
1966年7月6日 | 海兵隊入隊 |
1967年10月12日 | 戦死 |
感状:
1967年10月12日、ベトナム共和国において第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊付戦闘カメラマンとして従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
メジナ作戦中、クアン・トリ南西の部隊における主力偵察でC中隊は二個或いは三個中隊と見積もられる数において優勢な北ベトナム陸軍と接触し、激しい戦闘となった。
激しい戦闘の重要な地点は、C中隊の司令部と同様にヘリコプターの着陸地点だった。
強力な敵軍の攻撃の間に、敵の手榴弾がパーキンス伍長と三人の他の海兵隊員たちによって占められた場所のすぐ側に落下した。
固有の危険を実感し、彼は彼の同僚の海兵隊員たちに、「手榴弾だ」と警告を叫ぶと 英雄的な勇気ある行為において彼自身の身体で爆発の衝撃を吸収するために手榴弾の上に彼自身を投げ出し、それによって彼自身の犠牲で彼の戦友たちの生命を救った。
彼の並外れた大胆さと確実な死に直面しての鼓舞する勇気はパーキンス伍長は彼自身と海兵隊に最高の名誉をもたらし、そして合衆国海軍職務の崇高な伝統を維持した。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ローレンス・D・ピータース軍曹
1967年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊M中隊
1946年9月16日 | ニューヨーク州ジョンソンシティで生まれる |
1963年9月18日 | 海兵隊予備役 |
1966年1月30日 | 海兵隊入隊 |
1967年9月4日 | 戦死 |
感状:
1967年9月4日、ベトナム共和国において第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊M中隊所属の分隊長として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
スウィフト作戦中、クアン・チン省においてM中隊の第2小隊の海兵隊員たちは塹壕に潜む敵部隊から迫撃砲、機関銃、そして小火器の激しい銃撃によって撃たれた。
その部隊が中隊を呼び集めた時、ピーターズ軍曹は、敵の一斉射撃が彼の周辺に命中して、彼が足に痛烈な傷を負うまで広野に立って彼は敵陣地を指摘し、彼の安全を無視して敵の防御する小山に対する襲撃に彼の分隊を巧みに動かした。
彼の怪我を無視し、彼は前へと進み、そして彼の部下を導き続けた。
敵の銃撃が正確さと量を増したとき、彼の分隊はその勢いを失い、そして一時的に釘付けになった。
壊滅的な敵の銃撃に彼自身をさらし、彼はより効果的な銃撃を与えるために彼の陣地を固めた。
銃撃の拠点を指揮する間に彼は爆発した迫撃砲弾から顔と首に二度目の傷を負った。
敵が隣接した小隊の陣地への潜入を試みたとき、ピーターズ軍曹は集中射撃で彼らの偽装された陣地の暴露を強制する集中射撃の後、敵から丸見えの所でまっすぐ立ち上がった。
ピーターズ軍曹は、彼の胸に銃創による致命傷を彼が負うまで発砲し続けた。
歩くことも立つことも不可能であるにもかかわらず、ピーターズ軍曹は断固として追加の二つの傷にもかかわらず彼の分隊の指揮を続け、彼が意識を失い倒れるまで、彼の部下たちを励まし、そして指揮するべき彼の努力を貫いた。
彼の無私の行動によって影響を受けた分隊は銃撃の優勢さを取り戻し、そして敵にもう一度突撃し、勝利させた。
彼の顕著な勇気、不屈の闘争心、そして圧倒的な勝算に直面しての断固とした決断力によって、ピーターズ軍曹は海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を維持した。 彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ルイス・フレッド・フェイファー兵
1901年:USSペトレル
海軍分遣隊85号
1876年6月19日 | ペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれる |
感状:
USSペトレルに乗船している際、1901年3月31日、船に乗船しての銃撃の際、他の者を救うために彼自らの生命を恐れずに危険にさらした英雄的行為と勇敢さによる。
ウェズリー・フェルプス一等兵
1944年:ペリリュー
第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊K中隊
1923年6月12日 | ケンタッキー州ニーファスで生まれる |
1943年4月9日 | 海兵隊召集 |
1943年12月 | グロースター岬上陸 |
1944年10月4日 | 戦死 |
感状:
1944年10月4日の夜、猛烈な敵軍の反撃の間、パラオ群島ペリリュー島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊に従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
もう一人の海兵隊員と前進拠点に配置されていたとき、彼のたこつぼ内に日本軍の手榴弾が落下し、フェルプス一等兵は即座に彼の戦友へ警告を叫び、そして彼自身の身体で爆発の粉砕する衝撃を完全に吸収するために致命的な爆弾の上に転がった。
勇ましく、そして不屈のフェルプス一等兵は、深刻な怪我を負ったかもしれない他者へ彼の生命を恐れることなく捧げ、そして彼の偉大な勇気と確実な死に直面しての義務への英雄的忠誠は彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジョージ・フィリップス二等兵
1945年:硫黄島
第5海兵師団第28海兵連隊第2大隊
1926年7月14日 | ミズーリ州ベイツ郡で生まれる |
1944年4月25日 | 海兵隊入隊 |
1945年3月14日 | 戦死 |
感状:
1945年3月14日、火山列島硫黄島の奪取の間、敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第28海兵連隊第2大隊と従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍兵士の進入に対して、彼の分隊の他の隊員たちが激しい手榴弾戦を行った夜の後に休む間、たこつぼ監視に立ったフィリップス二等兵は、彼らの真ん中へ敵の手榴弾が投げられたとき、彼の部隊へ警告を発するただ一人の隊員だった。
すぐに警告を叫ぶと、彼は彼自身の身体で爆発の粉砕する激しい威力を吸収し、そして彼の戦友たちを大怪我から守るために躊躇うことなく致命的なミサイルへ彼自身を投げた。
勇敢なそして不屈のフィリップス二等兵は彼の同僚の海兵隊員たちへ進んで彼自身の生命を与え、狂信的な敵に対する容赦ない戦いへ運ぶ力を与え、そして彼の素晴らしい勇気と確実な死に直面しての無私の確固とした精神は彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
リー・H・フィリップス伍長
1950年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊E中隊
1930年2月3日 | ジョージア州ストックブリッジで生まれる |
1948年7月19日 | 海兵隊入隊 |
1950年11月4日 | 名誉勲章 |
1950年11月27日 | 戦死 |
感状:
1950年11月4日、朝鮮において敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第2大隊E中隊の分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
強固に防衛し、そして上手く塹壕に隠れた数において優勢な敵部隊の占領する重要な丘陣地に対する攻撃において重要と目された陣地への海兵隊と他の友軍の部隊による5度に渡る突撃が失敗したとき、フィリップス伍長は敵軍の迫撃砲、小火器、そして機関銃の銃撃の死の雨の下、険しい斜面を登る銃剣突撃において彼の部下を恐れることなく導いた。
激しくそして正確は迫撃砲の弾幕によって釘付けにされたとき、彼の分隊を迅速に再編成し、彼は砲撃地帯を抜けて彼の部下たちを導き続け、そして、死傷者に悩まされた部隊で僅か5人が残ったにもかかわらず、彼は直ちに敵の反撃を受けた丘の軍の頂を確保した。
分隊規模と思しき敵によって数に勝られていたにもかかわらず、フィリップス伍長は手榴弾とライフルの銃撃とともに敵軍部隊と勇敢に交戦して、彼に従う海兵隊員たちの彼の勇敢な集団を励まし、嵐のように前進して敵を完全に制圧した。
彼の分隊において現在残る僅か三人の部下とともに、彼は丘陣地の岩だらけで、ほぼ接近不可能な一部分の4人の敵兵によって守られた最後に残った強固な拠点への突撃を先頭に立って行った。
極めて危険な絶壁を登るために片手を使い、彼はもう一人とともに手榴弾を放り投げ、そして二人の残った戦友たちとともに抵抗と強化された陣地の孤立地帯を壊滅することに成功した。
分隊規模乏しき敵によって鋭い反撃を即座に受けたが、彼は巧みに彼の部下の銃撃を指揮し、そして数において優勢な敵軍部隊を撃退するために致命的に効果的に彼自身の武器を使用した。
彼の勇敢なリーダーシップ、不屈の闘争心、そして厳しい勝算に直面しての断固たる決意によって、フィリップス伍長は彼を見た者全てを鼓舞するのに役立ち、そして敵の本拠地の破壊へ導く原因となった。
彼の偉大な個人的勇気は彼自身に最高の名誉をもたらし、そして合衆国海軍職務の崇高な伝統を高め、そして支えた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
ルーベン・J・フィリップス伍長
1900年:中国
海軍分遣隊55号
1874年7月28日 | カリフォルニア州カンブリアで生まれる |
感状:
1900年6月13、20、21、そして22日の戦いの間、中国において救援遠征の連合軍部隊とともに戦ったことにおいて。
この期間を通じ、そして敵の面前においてフィリップスは立派な行為によって彼自身を際立たせた。
受賞者O |