名誉勲章受章者-P-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ジミー・W・フィップス |
一等兵 |
1969 |
ベトナム |
リチャード・A・ピットマン |
上等兵 |
1966 |
ベトナム |
ステファン・W・プレス |
大尉 |
1967 |
ベトナム |
エヴァレット・P・ポープ | 大尉 |
1944 |
ペリリュー |
デイビス・D・ポーター |
大尉 |
1901 |
フィリピン |
ジョン・V・パワー |
中尉 |
1944 |
ナムール |
ジェームズ・I・ポインター |
軍曹 |
1950 |
朝鮮 |
トーマス・F・ペンダーガスト |
伍長 |
1899 |
フィリピン |
ハルバート・I・プレストン | 兵 |
1955 |
中国(北京) |
ウィリアム・R・プロム |
上等兵 |
1969 |
ベトナム |
受賞者P |
ジミー・W・フィップス一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第1整備大隊
1950年11月1日 | カリフォルニア州サンタモニカで生まれる |
1968年1月3日 | 海兵隊予備役 |
1968年1月7日 | 海兵隊入隊 |
感状:
ベトナム共和国の敵に対する戦闘任務に関連して、第1海兵師団第1大隊B中隊所属の戦闘工兵として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年5月27日、フィップス一等兵は敵の砲兵隊の重砲と隠された発射装置を発見し、そして破壊するため、任命された二人の戦闘工兵破壊チームのメンバーだった。
彼が既に彼の爆発物と爆破用雷管全てを使い果たした後、フィップス一等兵は異な伝で175mm高性能爆薬砲弾を発見した。
敵が砲弾に副次的な爆破装置を取り付けていると疑い、彼はその区域の他の海兵隊員たちに防御された陣地へ移動するよう警告し、そして手榴弾で砲弾を破壊する準備をした。
彼が砲弾の横に手榴弾を置いたとき、敵の副次的な爆破装置のヒューズが点火された。
彼のアシスタントと小隊長の双方がともに彼の数メートルおり、そして差し迫った爆発が三人全員を死なせることを悟り、フィップス一等兵は握った手榴弾を彼の胸へそして、彼自身の体によって完全な、そして凄まじい衝撃を吸収すると同時に、それによって彼の戦友たちを爆発から保護するために彼の体とともに敵の爆発物と砲弾を彼の体でおおうために前方へ飛び込んだ。
フィップス一等兵の不屈の勇気、鼓舞する自発性と二人の海兵隊員たちの生命を守る義務への無私の中性は海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
リチャード・A・ピットマン上等兵
1966年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊I中隊
1945年5月26日 | カリフォルニア州サンワーキンで生まれる |
1965年9月27日 | 海兵隊予備役 |
1965年11月1日 | 海兵隊入隊 |
1966年7月24日 | 名誉勲章 |
1966年11月12日 | 伍長昇進 |
1967年12月1日 | 軍曹昇進 |
1968年4月5日 | 退役 |
1970年 | 再志願 |
1988年11月 | 曹長にて退役 |
感状:
ベトナム共和国の非武装地帯近郊の戦闘任務中、第5海兵連隊第3大隊I中隊第1小隊の一員として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1966年7月24日、I中隊が狭いジャングルの道の中心線に沿って作戦を遂行中、中隊の主要な部隊は巧みに隠れ、そして数において優勢な敵部隊からの激しい銃撃を突如として受け、彼らは多数の死傷者を被った。
交戦している海兵隊員の更に多くの火力を求める呼び掛けを聞き、ピットマン軍曹(当時上等兵)は直ちに彼のライフルを機関銃と幾つかの弾薬ベルトと交換し、彼の小隊の相互の安全を離れ、そして躊躇うことなく彼の戦友たちを援助するために前方へ飛び出した。
彼の前進中、至近距離で狙いを定めた敵の小火器の激しい銃撃下に捉えられ、彼は敵の陣地を沈黙させる銃撃を返した。
ピットマン軍曹が指揮する小隊の隊員たちを援助するため前進速度を一気にあげ、彼は彼が即座に破壊した二つの自動火器から激しい銃撃を受けた。
更に道に沿った50ヤード先に、更に負傷した海兵隊員がいることを知って、彼は前方へ進み続けるために敵の迫撃砲と小火器の銃撃の壊滅的な雨へ勇敢に立ち向かった。
彼の指揮する海兵隊員たちが倒れていた陣地に到着したとき、彼は30乃至40名の敵によって大胆な正面攻撃に直面した。
彼自身の安全を完全に無視し、彼は道の真ん中に冷静に陣地を確立し、そして壊滅的な機関銃火で前進する敵を掃射した。
彼の武器が訳に立たなくなると、彼はサブマシンガンを拾い上げ、そして倒れた戦友から手に入れた拳銃とともに敵部隊が撤退するまで彼の致死的な銃撃を続けた。
彼は敵の投げた手榴弾以外の彼の弾薬を使い果たすと、彼は彼自身の小隊に再び合流した。
ピットマン軍曹の勇敢な自発性、大胆な闘争心と義務への無私の忠誠は敵に多くの死傷者を与え、敵の攻撃を粉砕し、そして彼の負傷した戦友たちの多くの生命を救った。
彼自身の重大な危機における彼の個人的勇気は、彼自身、海兵隊と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
リンドン・B・ジョンソン
ステファン・W・プレス大尉
1967年:ベトナム
第1海兵航空団第36海兵航空集団第6海兵観測航空隊
1939年9月6日 | ジョージア州ニューマンで生まれる |
1957年 | ジョージア陸軍大学校卒業(在学中海兵隊予備役) |
1959年9月16日 | 少尉任官 |
1960年4月20日 | パイロット資格取得 |
1962年 | MAG-16 HMM-162にてタイ及びダナン勤務 |
1964年7月1日 | 大尉昇進 |
1967年8月19日 | 名誉勲章 |
1967年11月1日 | 少佐昇進 |
1969年7月20日 | バイク事故にて死去 |
感状:
1967年8月19日、ベトナム共和国クアンガイ近郊の敵部隊に対する戦闘において第6海兵観測航空隊付の武装ヘリコプターパイロットとして従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
護衛任務中、プレス少佐(当時大尉)は、4人のアメリカ兵が大規模なベトコン部隊によって圧倒され立ち往生しているという緊急要請を受信した。
プレス少佐は現場へと飛び、そしてむき出しの30から50人の敵兵士を発見した。
敵の何人かが倒れたアメリカ兵を銃剣で突き刺し、そして打ち据えていた。
敵部隊に対する壊滅的な攻撃を彼は始め、敵の多くを殺害、或いは負傷させ、そして残存を樹木限界線まで引き返させ、プレス少佐は卓越した飛行家精神を発揮した。
彼のロケットと機関銃の攻撃は、そのロケットの爆風によって作られた残骸を通り抜けて航空機を飛ばすほど低高度で行われた。
負傷した兵士たちの一人が援助のための意思表示を見て、彼は負傷者と敵に隣接した陣地の中へ彼のヘリコプターを巧みに操縦し、彼の乗員が負傷者を回収することを可能にする盾を提供した。
救出中に敵は激しい銃撃をヘリコプターに向け、そして撃退されるまで数フィート以内まで接近し、繰り返し航空機へ突進した。
負傷者を乗せたとき、プレス少佐はヘリコプターを沖へと操縦した。
それが安全な空域に達するまでに積載過多の航空機は水の中に四度沈んだ。
素晴らしい飛行家精神を示し、彼は最終的にヘリコプターを高く舞い上がらせた。
彼の傑出した操縦技術とともに対を成すプレス少佐の傑出した英雄的行為は極めて小さな部隊の全滅を妨げた。
彼の勇敢な行為は、彼自身に偉大な名誉をもたらし、そして海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
リンドン・B・ジョンソン
エヴァレット・P・ポープ大尉
1944年:ペリリュー
第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊長
1919年7月16日 | マサチューセッツ州ミルトンで生まれる |
1941年11月1日 | 海兵隊予備役少尉 |
1942年8月7日 | ガダルカナル上陸 |
1943年12月 | グロースター岬上陸 |
1944年9月12日 | ペリリュー上陸 |
1944年9月30日 | 名誉勲章受章 |
1945年1月 | 少佐昇進 |
1946年7月16日 | 海兵隊予備役 |
1950年 | 現役復帰 |
1951年 | 海兵隊予備役 |
2009年7月16日 | 死去 |
感状:
1944年9月19日-20日、パラオ群島ペリリュー島の敵日本軍部隊に対する戦闘中、第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
険しい珊瑚の丘の襲撃の間に彼の中隊は至近距離の砲撃を受けて、多数の死傷者を生じ、そしてひどく混乱して、ポープ大尉は彼の部下を呼び集めると機関銃、迫撃砲、そして狙撃手の銃撃に直面しながら、頂上へ勇敢に導いた。
広範囲に渡る敵軍の攻撃によって、場所を獲得し、確保する命令において彼の中隊の残りはまばらに配置することを強いられ、そして彼の機関銃で戦闘と水と弾薬の欠乏から、彼は二十人の部下と一人の負傷した将校とともに夜を通して持ち堪える決意を固め、むき出しの丘に止まり続けた。
三方向から手榴弾、機関銃、そしてライフルの連続的な攻撃と、夜の間、二度の自殺的な突撃を受けて、彼と彼の勇敢な部下は弾薬の補給が減少したとき、白兵戦に訴え、猛烈に敵を撃退、或いは粉砕し、夜明けが更に致命的な銃撃をもたらしたとき、彼の残った8人のライフルマンとともにまだ彼の前線を持続し、そして彼は撤退命令を受けた。
激しい日本軍の攻撃の下、部隊を守る間の壊滅的な勝算に対しての彼の勇敢なリーダーシップは、ポープ大尉と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
フランクリン・D・ルーズベルト
デイビス・D・ポーター大尉
1901年:フィリピン
1877年4月29日 | ワシントンDCで生まれる |
感状:
1901年11月17日、フィリピン諸島サマール、カダカンとソーホトン河の合流地点においての戦いにおいて驚くべき英雄的行為、そして卓越し、そして際立った行為による。
当時大尉のポーター大佐は、ソーホトン河地域に接岸した縦隊の司令官は要塞化された崖へ奇襲攻撃を行い、そして30名を殺害し、そして捕らえ、そして火薬庫、40のランタカス(砲)、米、食料、そして宿営地を破壊し、敵を完全に追い払った。
彼の勇気、知性、眼識と熱意故に、彼は200フィートの高さまで竹製はしごを使用して崖へと彼の部下を導き、登らせることに成功した。
崖は軽石の性質を持ち、火山性の柔らかい石ということもあり、洞窟で蜂巣状になっていた。
岩のほとんどが下の人々の上に落下させるための用意で(ベジュコとして知られる)蔓のケーブルで所定の位置に設けられた壇に吊されていた。
難攻不落同然のそれらの陣地から反乱者を追い出した後、毒槍、落とし穴、その他で覆われた多数の山道をポーター大尉は川の向こう側へ彼の部下を導き、反対側の崖を登り、そしてそこでキャンプを破壊した。
彼と彼の指揮下の部下は年老いた捕虜からの報告によれば最終結集地点で確保され、そして白人の兵士たちによって、かつて一度も突破されなかった完成までに三年を要した陣地を破壊し、信じがたい困難と危険を克服した。
ポーター大尉は、1901年10月26日、フィリピン諸島サマールのクイナプンダン河で敵の面前において同様に卓越した職務を行った。
大統領より。
H・L・ルーズベルト
ジョン・V・パワー中尉
1944年:ナムール島
第4海兵師団第24海兵連隊第3大隊K中隊
1918年11月20日 | マサチューセッツ州ワーチェスターで生まれる |
1942年7月7日 | 海兵隊予備役 |
1942年10月31日 | 予備役少尉 |
1944年2月1日 | 戦死 |
感状:
1944年2月1日、マーシャル諸島クウェゼリン干渉ナムール島の上陸、そして戦いの間、第4海兵師団に所属する小隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍機関銃座を破壊する突撃を準備する間、腹部にひどい怪我を受けていたが、パワー中尉は戦闘に残留する彼の決意において決然としていた。
彼の左手で彼の怪我を守り、彼の右手で銃撃し、彼は攻撃下におかれながら、機関銃座の中へ彼のカービンを空にし、そして爆発によって生じた突破口へ猛烈に突進し、攻撃下で得たとき、もう一つの敵軍陣地へ勇敢に前進した。
再装填し、そして攻撃を続けることを試みる間、パワー中尉は再び胃と頭を撃たれ、そして出入り口で崩れ落ちた。
彼の並外れた勇気、不屈の精神、そして壊滅的な敵の銃撃に直面しての不屈の闘争心は合衆国海軍職務の崇高な伝統を守った。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
ジェームズ・I・ポインター軍曹
1950年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊A中隊
1916年12月1日 | イリノイ州ブルーミントンで生まれる |
1942月 | 海兵隊入隊 |
1942年8月7日 | ガダルカナル上陸 |
1944年 | サイパン及びティニアン上陸 |
1945年4月 | 沖縄上陸 |
1946年2月 | 退役 |
1950年7月19日 | 海兵隊予備役第13歩兵大隊 |
1950年10月 | 9月からの功績により、ブロンズスター(V)受賞 |
1950年11月4日 | 戦死 |
感状:
1950年11月4日、朝鮮スドンの南の532高地の防衛中、敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第1大隊A中隊のライフル小隊所属の分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
遙かに数で勝り、巧みに隠蔽された敵部隊が彼の小隊の応急防衛陣値に対し、突然の激しい反撃を開始したとき、ポインター軍曹は彼の分隊を導き、そして突進する敵に対しその銃撃を指揮することで素晴らしい技術と勇気を発揮した。
勢いを増した猛攻撃で死傷者、そして彼も彼自身重傷を負ったことにより、彼の集団は致命的に激減するとともに、彼の陣地は敵軍に包囲され、彼は彼の銃剣をつかみ、そして突破を続けるために痛烈な白兵戦で交戦した。
12-5ヤードの距離において三挺の機関銃が包囲していることに気付くと彼は彼の陣地から走り出し、そして彼が走ったとき、倒れた海兵隊員から手榴弾をつかみ取り、彼が致命傷を負って倒れるまでに二人の要員を殺し、そして戦いから他の者を追い払い、迅速に連続して機関銃座に突進した。
彼の献身的な、そして勇敢な行為によって、ポインター軍曹は、それにより小隊が罠を抜け、より戦術的に有利な陣地へ移動することを可能にし、混乱に陥った敵に接近し、そして追い払う英雄的な努力へと彼の分隊で残った隊員たちを鼓舞した。
彼の断固とした闘争心、不屈の精神、そして圧倒的な勝算に直面しての揺らぎない偉大な個人的勇気は合衆国海軍職務の崇高なデントを維持し、高めた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
トーマス・F・ペンダーガスト伍長
1899年:フィリピン
海軍分遣隊55号
1871年4月1日 | アイルランド ウォーターフォードで生まれる |
感状:
1889年3月25、27、29に、そして4月4日、陸軍第8軍団に所属する間の戦闘において敵を面前にした卓越した行為による。
ハルバート・I・プレストン兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1876年8月6日 | ニュージャージー州バークレーで生まれる |
感状:
1900年7月21日から8月17日、中国、北京の戦いの間、敵の面前において。
この期間を通じ、プレストンは賞賛に値する行為により彼自身を有名にした。
ウィリアム・R・プロム上等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊I中隊
1948年11月7日 | ペンシルバニア州ピッツバーグで生まれる |
1967年12月8日 | 海兵隊予備役 |
1967年12月27日 | 海兵隊入隊 |
1969年2月9日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵に対する戦闘において第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊I中隊所属の機関銃分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
テイラーコモン作戦中の1968年2月9日、偵察任務から帰還する途中、I中隊の二個小隊が要塞化した陣地の巧みに偽装した北ベトナム陸軍部隊から激しい自動火器と手榴弾の攻撃を浴びせられた。
小隊の先導部隊が孤立し、そして数名の海兵隊員が負傷した。
プロム上等兵は直ちに機関銃の一挺の操作を受け持って、そして反撃の銃撃を送り始めた。
彼自身の安全を無視し、彼は負傷者へ応急処置を行う間、彼はより効果的な援護射撃を送り込むことの可能な陣地へ前進した。
傷ついた海兵隊員たちを避難させることが可能になる前に、敵を破壊しなければならないだろうと悟り、プロム上等兵は再び移動し、そして彼は彼の部下が再編成して進撃を再開することを許し、そして敵が敗走する手段となるような正確さと大量の銃撃を送り込んだ。
その直後、小隊は再び一人が銃傷を負う激しい銃撃を受けた。
プロム上等兵は即座に反応し、彼の傷ついた戦友を守るために前方へと移動した。
彼の耐え難い傷が元で彼自身の銃撃を続けることができなくなり、彼は敵陣地の数ヤード以内にまで前進し続けた。
そこで、敵の面前に立つと彼は、彼が致命傷を負うまで彼は彼の支援部隊の銃撃を正確に指揮した。
彼の英雄的な行動によって影響を受けた海兵隊員は敵を破壊した突撃を開始した。
プロム上等兵の 不屈の勇気、鼓舞する自発性、そして義務への無私の忠誠は海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
受賞者P |