名誉勲章受章者-N-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ウェンデル・C・ネビル |
中佐 |
1914 |
ベラ・クルス |
ジョン・D・ニュー |
一等兵 |
1944 |
ペリリュー |
マーヴィン・E・ニューリン |
一等兵 |
1967 |
ベトナム |
トーマス・P・ヌーナン Jr. |
上等兵 |
1969 |
ベトナム |
クリストファー・ヌジェント |
伝令軍曹 |
1863 |
ヘンリー砦 |
受賞者M-3 |
ウェンデル・C・ネビル中佐
1914年:ハイチ
海軍分遣隊177号
1870年5月20日 | ヴァージニア州ポーツマスで生まれる |
1886年 | アナポリス海軍兵学校入学(1890年卒) |
1898年 | キューバ派遣 |
1900年 | 義和団の乱 |
1914年4月21日 | ベラ・クルスにて名誉勲章 |
1918年1月1日 | 第5海兵連隊長 |
1920年3月 | 海兵隊副司令官(少将) |
1929年3月5日 | 第14代海兵隊司令官 |
1930年7月8日 | 在任中に死去 |
感状:
1914年4月21日及び22日、ベラ・クルスの戦闘交戦における顕著な活躍による。
第2海兵連隊の司令部は上陸したすぐ後から、ネヴィル中佐は21日の午後過ぎから22日の正午頃に我々が市を占領するまで双方の日の戦いでほとんど耐えることのない銃撃にさらされていた。
彼の任務は彼の指揮する将校たちと部下において極めて危険な地点にいるように彼に求め、そして彼は彼の戦いの振る舞いにおいて、顕著な勇気、冷静さと技術を示した。
彼にとっての勇気と技術によって、重大な手段、損傷の成功が決まった。
彼の責任は大きく、そして彼は賞賛に値する方法でそれらに立ち向かった。
ジョン・D・ニュー一等兵
1944年:ペリリュー
第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊
1924年8月24日 | アラバマ州モービルで生まれる |
1941年12月8日 | 海兵隊入隊 |
1943年8月7日 | ガダルカナル |
1944年9月25日 | 戦死 |
感状:
1944年9月25日、パラオ諸島ペリリュー島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第1海兵師団第7回兵連隊第2大隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍兵士が直接観測所下の崖に洞窟から現れ、そして突然そこから我が方の人間二人が敵砲座に対して迫撃砲の直射を行っていた陣地の中に手榴弾を投げたとき、ニュー一等兵はすぐに他の海兵隊員たちの差し迫った危険を察知し、そして彼自身の安全を完全に無視し、躊躇することなく手榴弾の上に彼自身を投げ出し、そして爆発の衝撃全てを吸収し、二人の観測員の生命を救った。
ニュー一等兵の偉大な個人的勇気と確実な死に直面しての無私の行為は彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
マーヴィン・E・ニューリン一等兵
1967年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊F中隊
1948年9月27日 | オハイオ州ウェルスヴィルで生まれる |
1966年7月18日 | 海兵隊入隊 |
1967年7月4日 | 戦死 |
感状:
1967年7月3日及び4日、ベトナム共和国において第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊F中隊第1小隊所属の機関銃手として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の攻め意の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
ニューリン二等兵が他の4人の海兵隊員たちとともに、ノン・ソン前哨地点の防衛線上の重要な地点に要員として配置されていたとき、敵の激しくそして調和のとれた迫撃砲と歩兵の突撃が始まり、彼に重傷を負わせ、そして彼の四人の戦友を殺した。
彼の機関銃に寄り掛かって彼自身を支え、彼はベトコンの筒激してくる列の中へ銃撃の正確な死の嵐を注いだ。小火器の銃撃によって繰り返し撃たれながら、彼は二度彼の陣地を越えようとする敵の試みを阻止した。三度目の試みの間に、手榴弾の爆発が再び彼を傷つけ、そして気を失った彼は地面にぶつかった。
ベトコンゲリラは、彼が死んでいると思い、彼を迂回して、そして主力部隊への彼らの突撃を続けた。一方、ニューリン二等兵は意識を取り戻し、その中で破壊と混乱を起こしている敵の後方へと影響を及ぼすために彼の武器に這い戻り、それを持ってきた。
敵が捕獲した106無反動砲を他の海兵隊陣地へと持って行こうと試みているのを見付け、彼は敵に多数の死傷者を与え、そして彼らが捕獲した武器を発射するのを阻止するために彼の銃撃を移した。
彼はそれから、敵の海兵隊掩蔽壕へのそれらの突撃を止め、そして彼の機関銃陣地にもう一度攻撃させるように主要な敵の部隊へ戻して彼の銃撃を移した。勇敢にもう二度の敵の突撃を戦って撃退し、致命傷を負うまで彼はしっかりと彼の陣地を保った。
ニューリン二等兵は単独で彼の同僚の海兵隊員が防衛を組織化し、そしてそれらの第二の突撃を撃退するのに十分長く、それらの勢いを失わせ、そしてそれらを遅らせ、そして全ての敵の突撃部隊に混乱を引き起こさせた。
彼の断固とした勇気、不屈の精神、そしてほぼ確実な死に直面しての義務への不動の忠誠は彼自身と海兵隊に偉大な栄誉をもたらし、合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
リチャード・M・ニクソン
トーマス・P・ヌーナン Jr.上等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊G中隊
1943年11月18日 | ニューヨーク州ブルックリンで生まれる |
1968年1月8日 | 海兵隊入隊 |
1969年2月5日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国のクアントリ省における敵に対する作戦で第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊G中隊所属の射撃班長として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年2月5日、G中隊が彼らがアシャウ谷のヴァンデグリフト戦闘基地南東で確保していた陣地から代わりの場所へ動くよう指示された。海兵隊員が激しい雨によって極めて滑りやすくなった丘の側面下方へゆっくりと手こずりながら下り始めたとき、先導部隊が岩だらけの地形に巧妙に隠された陣地を占拠する北ベトナム陸軍部隊からの激しい銃撃を受けた。
4人が負傷し、そして彼らを救出する試みが繰り返されたが、敵軍の強烈な銃撃のために失敗した。ヌーナン上等兵は比較的安全な彼の陣地から移動し、そして怪我をした部下に近い場所まで、危険な斜面を上手く下るために多少の岩の陰で支援を受けた。
彼らの自信を復活させるために負傷した部下へ激励の言葉を叫び、彼は危険な地形の向こう側へとダッシュし、そして掃射を受けた地帯から離れた最も重傷の部下を引きずり始めた。敵の弾丸によって負傷し、そして地面に叩き付けられたにもかかわらず、ヌーナン上等兵は迅速に意識を回復し、そして岩の安全な縁へ向かって部下を引きずることを再び開始した。彼はしかし、彼の目的地に到着する前に、彼は致命傷を負った。
彼の英雄的行動は、彼らが撤退まで敵兵士を追い込むことを強いた勇ましい突撃を攻撃的に行わせたように彼の仲間の海兵隊員たちを鼓舞した。
ヌーナン上等兵の不屈の勇気と鼓舞する自発性、そして義務への無私の献身は界へいたと合衆国海軍職務の最高の伝統を高めた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
クリストファー・ヌジェント伝令軍曹
1863年:フロリダ州クリスタルリバー
USSフォート・ヘンリー海軍分遣隊32号
1838年(或いは1840年) | アイルランド ケイブン |
1858年2月8日 | 海兵隊入隊 |
1864年4月16日 | 名誉勲章 |
1865年10月9日 | 名誉除隊(1901年7月25日に、1865年10月9日付の海軍長官発の文書にて除隊証明書発行) |
1898年5月6日 | 死去 |
感状:
1863年6月15日、フロリダ州クリスタルリバー、USSフォート・ヘンリーに搭乗していた。
フォートヘンリーからボートの突撃とこの日におけるクリスタルリバーの偵察で、ヌジェント伝令軍曹は反乱軍の胸壁要塞への突撃を命じた。この突撃で、伝令軍曹と彼の戦友たちは脱走兵の中の女性への損害を防ぐために銃撃を勇敢に抑制する間に、彼らの武器を捕獲し、そしてキャンプの備品を破壊し、沼地の中へ11人の反乱者の守備隊を連れて行った。
1863年7月30日、彼は彼らの装備とともに二人の男と女性を収容するフロリダのキー貯蔵所を離れるボートを捕獲することによって更に彼の勇気を証明した。
受賞者M-3 |