名誉勲章受章者-M-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ロバート・J・モッドジェジェウスキー | 大尉 |
1966 |
ベトナム |
ウォルター・カールトン・モネガン Jr. |
一等兵 |
1950 |
朝鮮 |
アルバート・ムーア |
兵 |
1900 |
中国(北京) |
ウィリアム・D・モーガン |
伍長 |
1969 |
ベトナム |
ウィット・L・モアランド |
一等兵 |
1951 |
朝鮮 |
ジョン・モリス |
伍長 |
1881 |
フランス |
ジョン・A・マーフィ |
鼓手 |
1900 |
中国(北京) |
レイモンド・G・マーフィ |
少尉 |
1953 |
朝鮮 |
ウィリアム・H・マーレー | 兵 |
1900 |
中国(北京) |
レジナルド・R・マイヤーズ |
少佐 |
1950 |
朝鮮 |
受賞者M-2 |
ロバート・J・モッドジェジェウスキー大尉
1966年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第3大隊K中隊長
1934年7月3日 | ウィスコンシン州ミルウォーキーで生まれる |
1957年6月 | 海兵隊予備役 |
1958年6月 | 第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊(-1959年9月) |
1960年5月 | 海兵隊入隊。第2海兵師団第2フォースリーコン |
1962年5月 | 大尉昇進 |
1966年7月15日 | 名誉勲章 |
1967年1月 | 少佐昇進 |
1970年1月 | アナポリス海兵隊バラック司令官 |
1986年8月 | 大佐にて退役 |
感状:
1966年7月15日から18日までベトナム共和国において、第3海兵師団第4海兵連隊第3大隊K中隊の指揮官として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
7月15日のヘイスティングス作戦中、K中隊は主要な敵交通網の遮断陣地を設置するために敵のはびこるジャングル地帯へと上陸した。
上陸後間もなく、中隊は上手く組織化されたことにより強化された敵の小隊に遭遇した。
モッドジェジェウスキー少佐(当時大尉)は、大量の弾薬と補給物資を収容していた敵の砦の占領の成功において彼の部下を導いていた。
その夜、数において優勢な敵部隊が極めて重要な補給地点を奪い返そうとする努力において反撃し、次の二日半に渡って活動の基本形をこのように定めた。
最初の一連の攻撃において、敵は圧倒的な数において繰り返し突撃したが、勇敢な海兵隊員たちによってその度に撃退された。
二度目の夜、敵は大隊規模によって襲撃し、そしてモッドジェジェウスキー少佐は接近戦となった、この徹底的な戦いで負傷した。
敵の銃撃にさらされたにもかかわらず、また彼の痛みを伴う傷にもかかわらず、彼は彼の指揮した攻撃にさらされた部隊まで決定的に必要とされた弾薬を提供するために200メーターを匍匐し、そして戦いがもっとも激しい場所には常にどこへでも存在していた。
多数の死傷者、減少する弾薬の備蓄、そして彼らが包囲されたことを理解しながらも、彼は彼の陣地の数メートルいないに巧みに砲撃を導き、そして積極的な敵の攻撃を撃退することにおいて勇敢に彼の中隊の努力を引き起こした。
6月18日、K中隊は連隊規模の敵部隊によって攻撃された。
彼の部隊は前の戦いによって数で勝られ、そして弱体化されていたにもかかわらず、モッドジェジェウスキー少佐は彼の部下たちを再編獅子、そして彼らを励ましながら静かに移動させ、そして最大限の英雄的努力まで彼らの努力を導き、邪悪な敵の猛攻撃に打ち勝つまで彼らを戦わせた。
再び彼は空と砲撃を要請し、近距離から敵の上へ破壊的な効果をもたらし、K中隊の彼の部下を大胆さと決然さとともに共同させ、大規模な北ベトナム軍部隊の狂信的な攻撃を撃退した。
彼の昼以内個人的英雄行為と不屈のリーダーシップは敵部隊に対する重要な勝利へ彼の部下たちを鼓舞し、そして彼自身、海兵隊そして合衆国海軍職務に偉大な名誉をもたらした。
リンドン・B・ジョンソン
ウォルター・C・モネガン Jr.一等兵
1950年:朝鮮
第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊F中隊
1930年12月25日 | マサチューセッツ州メルローズで生まれる |
1947年11月 | 陸軍入隊(-1948/1) |
1948年3月22日 | 海兵隊入隊 |
1948年6月 | 第3海兵師団に所属し中国に派遣 |
1950年7月20日 | 第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊 |
1950年9月15日 | 戦死 |
感状:
1950年9月17日及び20日、韓国ソサ・リ近郊の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第1海兵連隊第2大隊F中隊付属のロケット砲手として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際だった勇気と大胆さによる。
9月17日夜明け前の攻撃中に大隊陣地を突破して6台の敵戦車に脅かされたとき、中央ソウルハイウェイを見下ろす丘に塹壕を掘ったモネガン一等兵は激しい敵軍の自動火器の砲撃下、彼のバズーカとともに前方へ迅速に移動し、そして50ヤード以内に戦車を引き寄せて交戦した。
直撃させてスコアをあげた後、そして彼のカービンでただ一人生き残った戦車兵を倒した後、そして彼のカービンで脱出ハッチを抜けてきたただ一人生き残った戦車兵を倒すと、彼は大胆に迫りくる戦車群に弾薬の更に二つの弾頭を発射し、攻撃を混乱させ、そして我が方の戦車クルーたちに彼らの90mm砲を発砲させ続けることを可能にした。
9月20日の早朝の間に圧倒的な敵戦車搭載歩兵部隊によって彼自身と隣接した中隊の陣地が全滅の驚異にさらされ、そして、その地域を迂回して大隊司令本部に向かって前進したとき、彼は彼のロケットランチャーをつかみ、そして完全な闇で、既に戦車に突破された丘の斜面の下方へ突進した。
その地域を照明弾が照らしたときに迅速に行動し、彼は近距離からその傾斜した地域で敵軍のライフルと自動兵器の銃撃を受けながら、戦車の一台に直撃させて得点した。
彼が二代目の戦車を破壊するためにもう一発を発射し、彼自身を再びさらけ出し、そして哲多のために後方の戦車が転回したとき、もう一発の照明弾が空に対し、発射のためにまっすぐ立ち上がった彼を浮かび上がらせ、そして敵軍の機関銃火によって致命的な打撃を受けて倒れた。
モネガン一等兵の大胆な自発性、勇敢な闘争心、そして義務への勇ましい忠誠は、敵を撃退する彼の中隊の成功の要因を我々にもたらし、そして彼の献身的な努力を通じて合衆国海軍職務の崇高な伝統を支え、そして高めた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリーS・トルーマン
アルバート・ムーア兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1862年12月25日 | カリフォルニア州メルセドで生まれる |
感状:
1900年7月21日から8月17日、中国北京の戦闘中、敵の面前において。
敵からの激しい銃撃下にもかかわらず、ムーアはバリケードの構築を支援した。
ウィリアム・D・モーガン伍長
1969年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊H中隊
1947年9月17日 | ペンシルバニア州ピッツバーグで生まれる |
1966年11月18日 | 海兵隊予備役 |
1967年1月4日 | 海兵隊入隊 |
1969年2月25日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国クアン・トリ省の敵に対する作戦において第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊H中隊所属の分隊長として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年2月25日、ヴァンデグリフト戦闘基地の南西でデューイ・キャニオン作戦に参加中、モーガン伍長の小隊の分隊の一つが強固に要塞化された地下壕の複合体を占有する北ベトナム陸軍部隊を攻撃する間に一時的に釘付けにされ、そして数人の死傷者を生じた。
負傷した海兵隊員二人が敵の銃撃に危険なほどさらされた場所に倒れていることに気が付き、そして彼らを避難させる我が方の全ての試みが、自動兵器とロケット推進擲弾の膨大な量の銃撃に妨げられ、モーガン伍長は敵の銃撃の最も重要な源であった敵軍の銃座の前面を抜けた道筋を密集したジャングルの下生えを抜けて躊躇うことなく移動した。
彼の勇敢な行動の結果の可能性を完全に理解しながらも、彼の傷ついた戦友たちの保護だけを考え、モーガン伍長は敵軍の掩蔽壕に対し、積極的に突撃を彼は始め、彼らへの激励の言葉を叫んだ。
むき出しの道を横切って突進する間に、彼は敵軍兵士たちへはっきりと見させ、明らかに彼の方向へそれらの銃撃の向きを変えさせ、そして彼に致命傷を負わせたが、彼の陽動作戦戦術で彼の分隊の残りに彼らの死傷者たちを取り戻させ、北ベトナム軍陣地の突破を可能にした。
彼の英雄的、そして決然とした行動は同僚二人の海兵隊員たちの生命を救い、そして次の敵を破る助けとなった。
モーガン伍長の不屈の勇気、鼓舞する自発性、義務への無私の忠誠は海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を高めた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ウィット・リロイ・モアランド一等兵
1951年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊C中隊
1930年3月7日 | テキサス州オースチンで生まれる |
1948年9月 | 海兵隊入隊 |
1949年 | 海兵隊予備役 |
1950年11月30日 | 現役復帰 |
1951年3月29日 | 戦死 |
感状:
1951年3月29日、朝鮮の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第5海兵連隊第1大隊C中隊付属の情報偵察員として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
丘の強固に防衛された敵陣地に対する大胆な襲撃でライフル小隊に自発的に伴ったモアランド一等兵は敵軍の砲座へ的確なライフルの銃撃を送り込み、そしてそれによって目標の占領において大いに貢献した。
陣地を確保した後、彼は約400メートル向こうの目標確保と敵砲座の無力化へ躊躇うことなく部隊の前進を先導し、そして掃射地帯を大胆に通り抜けて移動し、彼の集団へ手榴弾を敵は一斉に投げ付ける敵の掩蔽壕にほぼ達した。
個人的な危険に関係しているにもかかわらずに迅速に行動し、彼は彼らが爆発によって無害になるように稜線へ幾つかの手榴弾を蹴り飛ばし、そしてもう一つを蹴ろうと試みたとき、滑って転び、そして致命的なミサイルの側に倒れた。
彼は彼が起き上がり、そしてそれを処分する前にパチパチ音を立てている手榴弾が爆発するだろうと意識し、彼は彼の戦友たちへ警告を叫び、彼の身体でミサイルを覆い、そして爆発の爆風全てを吸収したが、可能性のある負傷と死から彼の戦友たちを救うことによって致命傷を負った。
彼の英雄的自発性と死に直面しての無私の勇敢な精神はモアランド一等兵と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジョン・モリス伍長
1881年:フランス ヴィーユフランシュ
US旗艦ランカスター海軍分遣隊326号
1855年1月25日 | ニューヨーク州ニューヨークで生まれる |
感状:
1861年12月25日、フランス、ヴィーユフランシュでアメリカの旗艦ランカスターから船外へと飛び込み、そして既に船外に飛び出した捕虜の一般船員ロバート・ブリザードを溺死から救った。
ジョン・A・マーフィ鼓手
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1881年2月26日 | ニューヨーク州ニューヨークで生まれる |
感状:
1900年7月17日から8月17日、中国北京の戦闘中に敵の面前においてマーフィーは立派な行為により彼自身を際だたせた。
レイモンド・G・マーフィ少尉
1953年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊A中隊
1930年1月14日 | コロラド州プエブロで生まれる |
1951年5月 | 海兵隊予備役 |
1951年6月 | 士官予備校へ入学 |
1951年9月 | 少尉任命 |
1953年2月3日 | 名誉勲章 |
1953年4月7日 | 予備役 |
1954年12月31日 | 大尉昇進 |
1959年12月28日 | 退役 |
2007年4月6日 | 死去 |
感状:
1953年2月3日、朝鮮の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第5海兵連隊第1大隊A中隊の小隊長であるとき、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
有利な地形を占領し、巧みに隠され、そして堅固な塹壕に隠れる敵軍部隊を攻撃する突撃部隊の支援において彼の撤退する小隊を指揮する間に敵の迫撃砲弾の破片によってひどく負傷したにもかかわらず、マーフィ少尉は応急手当を断固として拒絶し、巧みに一つの陣地から次へ巧みに彼の部隊を動かしながら、激励の言葉を叫び、そして敵軍の迫撃砲と小火器の銃撃の壊滅的な弾幕を抜けて、丘を登る彼の部下を指揮し続けた。
ますます激しくなる敵の銃撃にもくじけず、彼は彼らが倒れたとき、ただちに死傷者を見つけ出し、そして安全地帯まで撃たれた海兵隊員たちの多数を自分自身で運び、搬出チームを負傷者へ導くために、掃射されている丘を上り下りする旅を何度も行った。
突撃班による増援部隊が必要とされたとき、マーフィ少尉は彼の部隊の一部を支援として用い、そして次の戦いの間、彼のピストルで敵の二人を自分自身で倒した。
負傷者全員が撤退し、そして突撃部隊が撤退を開始すると彼は丘から離れて移動する味方部隊の援護のためにカービンとともに後方に留まり、そして敵が塹壕から再び現れたとき、更に多くの火力を提供するために彼の以前の傷からの激しい痛みに苦しみながらも、自動小銃をつかんだ。
丘の拠点に到着した後、彼は捜索隊を組織化し、そして丘に後退した機関銃要員の遺体を発見し、そして運ぶと行方不明の海兵隊員たちの最終確認のために再び斜面を登った。
敵の小火器、砲撃、そして迫撃砲の射撃の継続する弾幕を通って出発ラインに全ての部隊を導く間に二度目の負傷をし、彼は再び彼の部下の全員、全ての死傷者を含め、主力前線まで先立つことが確実になるまで応急手当を拒絶した。
彼の堅く、そして鼓舞するリーダーシップ、優秀な不屈の精神、そして偉大な個人的勇気はマーフィ少尉に最高の名誉をもたらし、そして合衆国海軍職務の崇高な伝統を高めた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
ウィリアム・H・マーレー兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1876年6月3日 | ニューヨーク州ブロンクスで生まれる |
感状:
1900年7月21日から8月17日、中国北京の戦闘中、敵の面前において。
この期間中、マーレーは立派な行為によって彼自身を際立たせた。
レジナルド・R・マイヤーズ少佐
1950年:朝鮮
第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊副大隊長
1919年11月19日 | アイダホ州ボワーズで生まれる |
1941年9月 | 陸軍予備役から、海兵隊少尉 |
1942年6月 | USSニューオリンズ乗船 |
1942年10月 | 中尉昇進 |
1943年4月 | 大尉昇進 |
1943年7月 | USSミネアポリス分遣隊指揮官 |
1945年1月 | 少佐昇進 |
1945年6月 | 第1海兵師団第5海兵連隊 |
1950年7月 | 第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊副大隊長 |
1950年11月26日 | 名誉勲章 |
1967年5月17日 | 大佐にて退役 |
2005年10月23日 | 死去 |
感状:
1950年11月29日、朝鮮の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第1海兵連隊第3大隊の副官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
合計で約250名の陸軍及び海兵隊支援、そして司令部班の合同部隊の指揮を引き受け、ハガル・リで戦略的に重要な軍事基地の肝要な防衛においての重要な局面の間、マイヤーズ少佐は十分に堅固で、間違いなく約4,000を数える隠れた敵部隊に対し、決然と、そして積極的な反撃をただちに開始した。
夜明け前までに最大限の領地を取り戻すための彼の勇敢な努力において訓練された人員と経験豊かなリーダーたちの欠如による厳しい障害を、彼は彼の部下たちの職務の指揮を執り、直接命令しながら、激しく、正確そして持続する敵軍の銃撃に彼自身を絶えずさらけ出すことを貫き、差し迫った攻撃において彼らを励まし、そして拍車をかけた。
明らかに克服できない勝算に直面して、彼の激減した集団とともに険しく雪に覆われた斜面を登って前方へ断固として移動し、彼は見事な技術によって同時に砲と迫撃砲の砲撃を指揮し、そして摂氏零度の14時間に渡る激戦の間に彼の部下の170名を失ったにもかかわらず、彼の部隊を再編成し、そして600名の敵戦死体と500名の負傷者の結果をもたらす攻撃の陣頭に立ち続けた。
彼の優秀な、そして勇敢なリーダーシップにを通じることによって、マイヤーズ少佐は防衛線の回復における彼の部下の成功に直接貢献した。
彼の無私の断固たる精神と義務への変わることのない忠誠は合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
ハリー・S・トルーマン
受賞者M-2 |