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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

"近代水陸両用作戦の父"ハウリング・マッドことホランド・マクタイア・スミス将軍
"近代水陸両用作戦の父"ハウリング・マッドことホランド・マクタイア・スミス将軍

その後

ホランド・M・スミス中将

 硫黄島の戦いは、ホランド・M・"ハウリング・マッド"スミス中将にとっても最後の戦いとなりました。

 元々、全軍(陸軍、海軍、そして海兵隊)の中でも最高齢(陸軍最高齢のジョージ・S・パットン将軍よりも三つ上)で、糖尿病も患っていましたし、歯に衣着せぬところと、権謀術数など意に介さない点で、しばしばニミッツ提督を憤慨させていました。しかし、アイゼンハワー将軍がパットン将軍を使い続けたように、ライバルのマッカーサー将軍への対抗意識や、ルーズベルト大統領が再三の退任要求を拒み続けたことから、スミス将軍は第一線で活躍し続けました。
※ルーズベルト大統領の長男ジェームズ・ルーズベルトは少佐時代にレイダースの創設に携わり、マキン強襲などに参加。>>海兵強襲部隊レイダース

 スミス将軍の退任要求の理由は、タラワで第2海兵師団が72時間で約3,000名の日本軍守備隊との戦闘でほぼ同数の死傷者を出して以来で、虐殺者、冷血な殺人者、人命の無差別浪費者と罵られることもしばしばでした。もっとも、そうした非難は当の海兵隊員やその家族からはほとんどあがりませんでした。海兵隊員はスミス将軍が生死を共にすることを知り、また仲間が死傷したとき、涙を流してくれることを知っていました。海兵隊員が、ハウリング・マッド・スミスと呼ぶのは親しみを込めてで、ターナー提督をテリブル・ターナーと呼ぶのとは訳が違っていました。

 しかし、硫黄島の戦い以前から、スミス中将に対する扱いは悪化し、このデタッチメント作戦においては事実上、名目だけの指揮官で、作戦期間中、ヒル提督とカードをするか、硫黄島で戦うMy Marinesのために祈りを捧げる以外はほとんどすることがありませんでした。結局、第3海兵連隊の未投入問題の悪評とともに、スミス将軍は3月17日に半ば強制的にハワイへ帰還させられ、更に糖尿病の悪化を口実に第一線の勤務からも外されました。そして9月2日、スミス将軍の言うところの、「我が海兵隊員たち」の勝利への貢献も、そのための犠牲も侮辱するかのように戦艦ミズーリには太平洋の戦いを勝利に導いた功労者の1人であるスミス中将の姿はありませんでした。

 この件で見かねたヒル提督がニミッツ提督に出した(かなり強い調子でしたためられた)請願書も、ニミッツ提督直筆の殴り書きで、「No!」とだけ書かれて突き返されました。

 理由は定かではありませんが、スミス将軍は後年、

「最高指揮官の素晴らしい手腕」

 と皮肉り、かつて、自身が、

「真剣に戦うことも、真剣に戦う術も知らなかった2人の陸軍の将軍を解任した」

 ことに対する意趣返しと友人に語ることになります。

 1946年5月15日に大将で退役し、カリフォルニア州で青年活動と趣味のガーデニングをしながら過ごし1967年1月12日、84歳にて死去。

 海軍からはニミッツ提督の卑劣な扱いが示すように評価は高くありませんが、海兵隊では、タラワに始まり、長年研鑽して実戦投入してみたら、実はどうしようもないくらいひどい代物だった"水陸両用作戦"を完成させた人物として、"近代水陸両用作戦の父"と呼んでいます。

ハリー・シュミット少将

 VAC司令官ハリー・"ダッチマン"シュミット少将は硫黄島の戦いが終わると、次に第5軍団長として日本に上陸し、1946年2月15日に本国へ帰還。1948年7月1日、39年のキャリアを61歳で終え、大将で退役。1968年2月10日死去。

グレーブス・B・アースカイン少将

 密かに将兵から、"The Big E"、或いは、(スミス将軍の参謀長として務めた実績故に)"Graves Registration(墓場登録)"アースカインと呼ばれた第3海兵師団長グレーブス・B・アースカイン少将は幾つかの要職を務めた後、1953年6月に現役勤務を外れ、特殊作戦部長として国防省に勤め、7月付で大将に昇進。1973年5月21日死去。

クリフトン・B・ケイツ少将

  第4海兵師団長クリフトン・B・ケイツ少将は1945年12月に本国へ帰還。1948年1月1日、ヴァンデグリフト大将の後任として第19代海兵隊司令官に就任。朝鮮戦争で削減された海兵隊の組織を再編しつつ、初期の朝鮮における戦いを指揮するとともに当時は海のものとも山のものともつかぬ新兵器のドクトリンの完成を指揮しました。その新兵器ヘリコプターは10数年後、ベトナムでその能力を開花させることとなります。任期終了後、クアンティコの海兵隊学校長となり、1954年6月30日、大将にて退役。1970年6月4日死去。

ケラー・E・ロッキー少将

 硫黄島で最も損害の大きかった第5海兵師団長ケラー・E・ロッキー少将は、その後、中国の天津の駐留部隊の指揮を執った後、帰国。大西洋艦隊海兵軍司令官代理などを務め、中将にて1950年9月1日退役。心臓発作でロッキー中将が亡くなったのはケイツ大将の亡くなった2日後の1970年6月6日のことになります。

その他の人物

 硫黄島の戦いを生き延びた者の多くは一般市民の生活へと戻っていきましたが、海兵隊に残った者は朝鮮、そしてベトナムで活躍しました。

 第26連隊のウイリアム・E・バーバー(更に元パラ・マリーン)のように大尉として期間は短いながらも10日で11名という硫黄島以上のペースで名誉勲章受章者を出したハガル里からの撤退で名誉勲章を受賞した者もいます。

 当時、佐官だった指揮官はベトナムで、今度は将軍として部隊を率いました。

 第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊長としてクッシュマンズ・ポケットにその名を残し、西中佐の戦車第二十六聯隊と死闘を繰り広げたロバート・E・クッシュマン中佐は、その後、第3海兵師団長として沖縄に赴任などをし、1967年4月、海兵隊の歴史上最大の軍団となるIIIMAF指揮官として1969年まで、つまり、最も戦いの激しかった時期にベトナムで戦う海兵隊を率いました。その後、幾つかの要職を経て1972年1月1日、第26代海兵隊司令官に就任し、1975年6月30日に退役するまで務めました。

 第27連隊第3大隊長ドン・ロバートソン中佐は、ベトナムでは第1海兵師団長(少将)でした。ロバートソン少将の下、第1海兵師団はフエの町で1ヶ月の激戦を戦い、その後、ケ・サンでペガサス作戦に参加しています。その後、ロバートソン中将はベトナムに駐留するIIIMAF最後の司令官として1970年から1971年まで務めました。

 第3海兵師団第21海兵連隊第2大隊長で負傷したまま戦い続け、戻れと命じたアースカイン少将に、ふざけるなと怒鳴って間もなく二度目の負傷で後送されたローウェル・E・イングリッシュ中佐は1965年から1967年まで第3海兵師団副師団長(准将)。

 第4海兵師団第14海兵連隊第4大隊長カール・A・ヤングデール中佐もロバートソン少将の後任として第1海兵師団長(少将)。

 同連隊の参謀カーチ少佐も、第3海兵師団の副師団長を務めていますが、それ以前にカーチ准将は、1965年3月8日に第9海兵遠征旅団を率いてダナンに上陸し、20年前と同じように熱烈ながら、別種の歓迎を受けて憮然とした表情を写真に納められています。

硫黄島

 戦争が終わると、海兵隊に限らず、多くの激戦地が忘れられていきました。硫黄島も、同様で日本で再び脚光を浴びるのは2006年にクリント・イーストウッド監督の"父親たちの星条旗"と"硫黄島からの手紙"の公開が決まってからのことであり、60周年にあたる2005年ですら、ほとんど触れられずに終わるような場所でした。

 硫黄島はアメリカがしばらくは占領し、今は日本に返還され、自衛隊とアメリカ沿岸警備隊の施設があります。海兵隊も、上陸訓練などに使用することはありますが、一般市民の立ち入りは制限されたままになっています。

 1947年、第2次世界大戦の貢献と威力を見せつけたことによって陸軍航空隊は独立して空軍となりましたが、戦争が終わったことと、核兵器の誕生は通常部隊の軍縮となり、海兵隊は戦前に比べて待遇が良くなったものの海兵隊嫌いのトルーマン大統領によって、またもや存続の危機に立たされました。

 その一方で、ハリウッドでは戦争映画が数多く封切られ、その中にはジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」もあり、タラワと硫黄島の戦いを人々に思い起こさせました。

 こうした映画の影響があったかどうかはともかく、このときの存続の是非を巡っては太平洋で海兵隊が自ら示した価値によって議会が味方に付き、最小限三個の師団規模の陸上戦闘部隊と三個海兵航空団を保有する旨が法令によって定められました(故に海兵隊は法律で規模と存在が定められた唯一の軍となっています)。また、同時に大統領或いは国防長官が行政命令、行政改革の名目で海兵隊を削減、或いは廃止することが無いようにという議会からの海兵隊の貢献への報いでした。

 戦後、硫黄島の戦いも人々の記憶から消えて行き、1949年に公開されたジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」で記憶から呼び起こさせた更に3年後の1952年。硫黄島にまつわるちょっとした出来事がありました。第2次世界大戦が終わって7年ですから、海兵隊の奮戦とは少しかけ離れた出来事ではあります。

 一機の航空機が太平洋上空を飛行中、エンジントラブルに見舞われて硫黄島の飛行場に緊急着陸を行いました。

 もし硫黄島が無ければ、その飛行機は助からなかったでしょう。

 そして、そうなれば歴史は少し違ったものになっていたかもしれません。

 その飛行機は、大統領選挙に当選したばかりで、これから朝鮮戦争を視察に向かうドワイト・D・アイゼンハワーの乗機だったのですから。

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