デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日
戦利品を手に記念写真を撮る海兵隊員たち
硫黄島守備隊の玉砕、そして終焉
ほとんどの戦いが終結しても、未だに島のあちこちでは日本軍の抵抗が続いていました。
海兵隊は、既に硫黄島を去り始めていました。第4海兵師団は3月14日から撤収を開始し、3月19日には撤収を完了し、数日後にはマウイ島へ帰還し、第5海兵師団も3月18日から一部の部隊が撤収を開始していました。
そうした中でアメリカ軍は航空機からプロパガンダのリーフレットをばらまき、或いは砲弾を送っていましたが、一番効果的なのは直接降伏勧告を呼び掛けることでした。
降伏勧告には、既に捕虜になった日本兵の志願者や、通訳として参加していた日系人将校があたり、プロパガンダリーフレットで53名が、直接の降伏勧告で65名が捕虜となりました。
その一方で、千田少将への試みは失敗し、池田大佐を経て栗林中将と接触を図ったアースカイン将軍の試みも失敗に終わりました。
3月17日、硫黄島からの決別の電報を受けて大本営は3月21日に硫黄島の喪失を発表。同時に栗林中将を大将に、市丸少将を中将に、井上大佐を少将、そして西中佐を大佐に昇進させました。父島支隊の堀江少佐は、このことを知らせましたが、これに対する返答はなく、同日、硫黄島からの通信は、
「我々は五日間飲まず食わずでいるが、我々の闘争心は未だ高まっている。我々は最後まで勇敢に戦う所存である」
でした。通信はそこで途絶え、23日、再び、次の通信が届きました。
「父島の全将兵へ。さようなら」
これが硫黄島守備隊からの最後の通信となりました。
3月24日(D+33)
3月24日、沖縄諸島へ向けて予定通り、準備砲撃の火蓋が切られた日の夕方、栗林将軍は漂流木を突破し、元山及び千鳥飛行場への最後の総反撃を実行するための準備を推進しました。従うのは大須賀少将(司令部付き)、市丸少将(海軍部隊最高指揮官)、池田大佐(歩兵第百四十五連隊長)、高石正大佐(兵団参謀長)、中根中佐(兵団作戦担当参謀)ら陸海軍約四百名。
17日に偽装通信を行った岡少佐の部隊も、命令によって23時に合流するべく移動を開始していましたが、包囲する海兵隊に捕捉され、突破に失敗。25日夜に再び分散して出撃するも、再び捕捉されて大半が玉砕しました。
3月25日(D+34)
上陸してから、35日目。
硫黄島守備隊となる陸軍第147歩兵連隊がニューカレドニアから到着し、機材を揚陸し始め、海兵隊における最大規模、そして最大の激戦を率いたハリー・シュミット少将は最後の日本軍の洞窟の掃討が完了したという第5海兵師団からの吉報を気取り、硫黄島での組織的抵抗の終演を発表する準備をしていました。
夜、空には照明弾が時折打ち上げられ、人口の揺らめく光が闇を照らし出す中、漂流木海岸沿いを栗林中将と市丸少将に率いられた反撃部隊が前進していました。
3月26日(D+35)
第531航空隊作戦参謀ロイド・E・ウィットリー少佐はウィリアム・ベントン大尉とともに第2飛行場へジープで向かっていたところ、午前4時に一人の日本兵を発見し、ジープを停車させて発砲。続けて、近くの第506対空砲大隊C砲兵中隊も、第2飛行場を南に歩く日本兵の姿を確認し、これを射殺。
0515。飛行場に突如として銃声と爆発音が鳴り響きました。西海岸の海兵隊と陸軍の露営地に向けて、一斉射撃を合図に日本軍の突撃が始まりました。それはやはり万歳突撃ではなく、最大限に敵を混乱させ、破壊するための計画に沿った突撃でした。
テントの中では海岸設営隊、補給部隊、パイロット、陸軍対空砲手、海軍建設大隊員ら300名が就寝しており、全員が周囲に危険はないとしてぐっすりと眠り込んでいるところへ、海兵隊の服を身につけ、M-1ライフル、BAR、果てはバズーカを手に密かに潜入してきた日本兵が基地の死角に集結すると一気にVII戦闘機司令部のパイロットたちのテントへと襲い掛かりました。
第27連隊の武器中隊の一人で3月1日に昇進して、黒人中心の部隊を率いていたハリー・L・マーティン中尉も、休息に入ろうとしていましたが、飛び起きるとテントを飛び出し、まだ生きているパイロットと第5戦闘工兵大隊の隊員たちに命じて、即席の防衛線を構築させました。不幸中の幸い、奇襲を受けた中で、その中心となっていた第5戦闘工兵大隊だけは修羅場を潜り抜けてきた部隊で、何をすべきか十分心得ていました。
マーティン中尉は防衛線を構築すると反撃を開始し、日本軍の攻撃の撃退を開始。次第に夜が明けていく中、マーティン中尉は一度目の負傷を負いました。
しかし、彼は尚も指揮を続け、包囲された部下を救い、日本兵が取り付いた場所へ拳銃片手に単身飛び込んで彼らを倒し、別な場所が突破されようとすると部下を自ら率いて先頭に立って突撃しました。
硫黄島を去るために待機していた第5海兵師団第28海兵連隊の隊員たちも撤収作業を中止し、現場にいた海軍建設大隊シービーズとともに救援に向かうと約3時間に及ぶ戦闘も次第に終結へと向かいました。
一部の日本兵は元山や千鳥飛行場へ突入することに成功しましたが、そこで包囲され、天皇陛下万歳を三唱し玉砕。
日本軍最後の組織的戦闘はこうして終わりました。日本軍が撤退した後、アメリカ軍の死傷者約170名と日本軍の遺棄死体約262体と捕虜18名が残されていました。
海兵隊の損害は、戦死9名、負傷31名。海兵隊の損害は、これにより、25,851名。
そして、日本軍の総攻撃を撃退し、活躍したハリー・マーティン中尉も手榴弾によって命を落とし、硫黄島における27人目の名誉勲章受章者となりました。
1945年3月26日、火山列島硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第5工兵大隊C中隊所属の小隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
夜明けの数分前に始まった激しい敵の攻撃によって突破された第5工兵大隊野営地の彼の戦区で、マーティン中尉は彼のたこつぼの最も近くの海兵隊員たちとともに直ちに火線を組織化し、そしてじきに日本軍の向こう見ずな突進を阻止することに成功した。
敵により突破された陣地において閉じこめられた彼の部下の数人を救う決意を固め、彼は包囲された海兵隊員たちまで日本軍を通過できるまで激しい敵軍の銃撃に抵抗した。
二つのひどい怪我を負ったにもかかわらず、彼は彼を阻止しようと試みた日本軍を壊滅させ、彼の包囲された部下を突き止め、彼らを自身の前線まで導いた。
侵入している敵4名が、放棄された機関銃ピットを占領し、そして彼の戦区に手榴弾の弾幕を投げ付けたとき、マーティン中尉は単独で、そしてピストルだけで武装し、大胆に敵軍陣地へ突進し、そしてその全ての占有者を殺害した。
彼の残った戦友が、もう一つの組織的な攻撃を撃退できなかったことを悟り、彼は彼の部下へ続くように呼び掛け、そして、それから頑強な敵部隊の真っ直中へと突進し、彼が手榴弾によって致命傷を負い倒れるまで、彼の武器を撃ち続け、そしてそれらを追い散らした。
彼の際立った勇気、不屈の闘争心と、圧倒的な勝算に直面しての断固とした決意により、マーティン中尉は調整された日本軍の攻撃を永久に混乱させ、そして彼自身と隣接した小隊における生命の更なる損失を妨げ、そして彼の鼓舞するリーダーシップと揺るぎない忠誠は彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
3月26日0800、硫黄島攻略作戦は完了しました。同時刻、慶良間諸島にアイスバーグ作戦の前哨戦として第77歩兵師団が上陸。沖縄攻略作戦は硫黄島の苦戦とは無関係に予定通り始まっています。
第147歩兵連隊を率いるチェイニー少将と防空指揮官アーネスト・ムーア准将の2人に硫黄島の指揮権を譲ったハリー・シュミット少将は司令部を閉鎖すると1330に輸送機に乗って硫黄島を後にしました。
日本軍最後の総攻撃の翌日となる3月27日に第5海兵師団の最後の部隊と第3海兵師団司令部及び第21海兵連隊は、水陸両用艦に乗り込むと硫黄島を後にしました。
第3海兵師団の第9海兵連隊だけはVAC最後の機動部隊として残り、続く二週間待ち伏せと戦闘パトロール任務を、硫黄島守備部隊となった陸軍第147歩兵連隊とともに活動を続けることになります。
4月1日、沖縄本島にIIIAC(第1海兵師団、第6海兵師団、及び陽動で第2海兵師団1個連隊)と陸軍XXIV軍団からなる第10軍が上陸を開始した頃、海軍建設大隊は約7,000名が10時間交替の突貫作業で元山近辺の台地を慣らし、第2飛行場を13,000メートルの滑走路を持つ太平洋最大の航空基地にまで仕立て上げていきました。第1飛行場も2,100メートル延長され、382高地(二段岩)はこの作業で切り崩されて消え、あちこちに官舎が建てられ、燃料タンクや水路も設けられました。
4月7日、P-51戦闘機が、これらの滑走路から飛び立ち、日本へ向かうB-29の直衛を初めて行いました。
第3海兵師団第9海兵連隊は4月12日まで活動を行い、その後、輸送船に乗り込み、4月18日、グアムへ帰還し、これで最後の海兵隊部隊が硫黄島を後にしました。
任務を引き継いだ第147歩兵連隊は、その後の掃討と捜索を行い、最初の二ヶ月で、1,602名の日本兵を殺害し、867名を捕虜にしています。
前へ |