デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日
海岸に並べられ、埋葬を待つ第3海兵師団の海兵隊員たち
D+16 3月7日 夜襲
アースカイン将軍は、この時期、肺炎を患っていましたが、戦場を離れることはありませんでした。参謀長のロバート・E・ホガブーム大佐は、師団長が回復するまで冷静に作戦を行い、アースカイン将軍が回復すると、すぐさま部隊の行動を調整しました。
彼らの目の前には362C高地が立ちふさがっていましたが、深夜、千鳥飛行場の北端に設けられた第3海兵師団司令部ではアースカイン少将が参謀や各戦闘指揮官を招集した会議が行われていました。この席で、アースカイン将軍は以前、引っ込めた暁の奇襲を実施することを決定しました。これまでとは違って、大規模な攻撃前の小規模な攻撃ではなく、それ自体が大規模な夜襲計画でした。
情報将校ハワード・J・タートン中佐は危険な作戦だと乗り気ではなく、また師団偵察中隊の身長190センチという大柄のガン・ホー指揮官オスカー・サルゴ大尉も作戦には懸念を抱きましたが、
「将軍、私は地獄で何が起きるかは知りませんが」と前置きして言いました。「しかし、あなたがそれに自信があるならば、私たちろくでなしどもはそれをやってみせましょう」
アースカイン少将は、0730の攻撃を0500に始めたい、とシュミット少将に野戦電話で連絡を取りました。
シュミット少将が作戦の許可を与えるとアースカイン少将は説明中に降り出した雨の中、各部隊に対する命令を下しました。
第3海兵師団
南東240メートル先にある362C高地(東山)。ここへ大規模な夜襲を仕掛け、日本軍の最後の拠点を一掃することを目論んだ作戦を前に、戦線は沈黙し、無線でも攻撃に触れることが禁じられました。
事前打ち合わせも無いまま攻撃部隊に選ばれたハロルド・C・"ビング"ボーエン中佐の第9海兵連隊第3大隊の先鋒を務めるK中隊とM中隊の士官たちは第21連隊第1大隊の戦線へ向かうと、綿密な打ち合わせを行い、海軍の照明弾が照らし出す東山を見ながら、どう進むべきかを定めようとしましたが、降り出した雨は豪雨となって地形を把握するのを邪魔しました。
0320に部隊は集結を初め、前線へ移動。
0450、照明弾の打ち上げが停止させられ、5分後に煙幕が東山に向かって打ち込まれました。
0500、突然、駆逐艦の一隻が照明弾を打ち上げました。海軍の通信士官は慌てて無線に飛びつき、発砲中止を指示。ずぶ濡れになりながら、たこつぼやトラックの荷台で震えていた海兵隊員たちが、攻撃前に皆殺しにされる不安が司令部ではよぎりましたが、豪雨は瞬く間にそれをかき消し、前線を再び闇に包みました。
まだ夜明け前の暗い時間。海兵隊は、日本軍得意の夜襲を自ら行うことによって日本軍に気付かれる前に362C高地へ向かって500メートルの荒れ地を一気に横切り、日本軍の陣地を火炎放射器などで制圧し、0600までに丘を確保することに成功しました。
0630、ボーエン中佐は地図と航空写真で照合したとき、制圧された高地が331高地で、目標地点だ言った362C高地は更に200メートル先にあることに気付きました。
ボーエン中佐はすぐさま砲兵隊を呼び出して0715に10分間の砲撃を合図に攻撃を開始。しかし、既に大隊のいる場所は猛然と反撃する日本軍の攻撃にさらされ、周囲を囲まれていました。ボーエン中佐は、無茶なのを理解しながら、大隊を再編成すると本来の目標への攻勢を再開しました。
第3大隊と同時にクッシュマン中佐の第2大隊とウィリアム・T・グラス少佐(前日の3月6日、ランダル中佐と交替)の第1大隊も数百メートル前進し、0730に攻撃を開始しました。
数百メートル前進したところで、日本軍―西中佐の戦車第二十六連隊の待ち伏せ攻撃が始まり、彼らはそこで釘付けになり、0900頃、孤立化しました。
その第2大隊E中隊とF中隊の包囲孤立化した場所こそ、"クッシュマンズ・ポケット"でした。
第21連隊の海兵隊員と戦車が救援に向かいますが、先頭車両が地雷に引っ掛かって擱座したどころか、脱出ルートまで塞いでしまい失敗。二度目の試みも日本軍の攻撃があまりにも激しく、加えて、今度は戦車が対戦車壕に転げ落ちたことで断念せざるを得ませんでした。
第1大隊B中隊のジョン・H・レイムズ少尉は、防衛線前方約400メートルで日本軍の掩蔽壕を制圧し、確保することに成功していましたが、ここを死守するために23名の戦死者と20名の負傷者を出していました。
このままでは全滅することを察したレイムズ少尉は助けを求めるために遮蔽物にしていた岩の影から飛び出しましたが、すぐさま彼を狙って日本兵の攻撃が始まりました。
レイムズ少尉は、これが最後、ここで死ぬだろう、と思いながら、攻撃をかいくぐって走り続けました。後に、このことをレイムズ少尉は、こう語りました。
「しかし、私にはそうするしかなかった。私は海兵隊員だった」
それでも、レイムズ少尉は無事に司令部へ到達し、中隊が孤立している場所をグラス少佐に示すとレイムズ少尉は、夕闇が迫る中、撤退に伴い援護を要請するため、電話線を引きずりながら部下の待つ陣地まで戻っていきました。
レイムズ少尉は、部下二人がいるたこつぼに飛び込むと部下に撤退の指示を出し、運んできた野戦電話を手にしました。
5分後、支援の砲撃が始まると中隊は負傷兵を担いで撤退を開始し、10時過ぎに、死傷者を出すことなく完了させました。
B中隊は全滅に近く19時間の死闘で20名弱が無事生還したに過ぎませんでしたが、戻ってきたレイムズ少尉はそこで負傷兵が数人取り残されていることを知らされました。
レイムズ少尉は、たった一人で部下の救出に向かうことを決意。暗闇の中、脱出した陣地へ引き返すと、まず一人を救出すると再び機関銃弾が飛び交う中を飛び出していきました。三度、それを繰り返したレイムズ少尉は翌日語りました。
「みんな私の部下であり、私の戦友たちでした。そして連中は、もしひっくり返っているのが私であっても地獄だろうが高波が来てようが同じことをしてくれたでしょう」
3月8日に完了した部下の救出までの行為により、レイムズ少尉には名誉勲章が授与されました。
331高地から362C高地へ攻勢を開始したボーエム中佐も午後2時までに占領することに成功。
その頃、孤立した陣地で戦っていたE中隊とF中隊はたこつぶを掘って日本軍の攻撃を待ち構えていました。全ての包囲で日本軍陣地は至近距離にあり、顔を出さない海兵他院を嘲る声すら聞こえてきました。しかし、日本軍の攻撃はなく、36時間後、生存した30名は味方戦線に帰り着くことに成功しました。
アースカイン少将の試みは、最終的には成功し、クッシュマンズ・ポケット以外の主要陣地を確保していました。
死傷者は約600名と損害は軽くありませんでしたが、高地を攻略したことで硫黄島中心部から北海岸へ向かうための最大の障害は取り除かれました。
そして、この日の午後、一人の英雄が戦死しました。リード・C・チェンバレン軍曹は、1930年代に海兵隊に入隊し、その後、フィリピンに配属されました。3年前の1942年5月7日にコレヒドールが陥落したとき、マラリアを患って入院していたチェンバレン軍曹(当時伍長)は仲間と共に浸水するような壊れたボートでミンダナオ島へ脱出。そこでゲリラ部隊として行動するアメリカ兵やフィリピン人の看護を受けて回復したチェンバレン軍曹は一年三ヶ月間、彼らと行動を共にして活躍。マッカーサー将軍は、彼の活躍を聞くなり、彼を陸軍少尉に任命。その後、1943年半ばまでフィリピンのゲリラ部隊への武器弾薬、医療品の補給と、彼らからの情報を受け取る任務を行っていた潜水艦に命じてチェンバレン少尉を連れ戻させ、中尉に昇進させると共に陸軍殊勲十字章を与え、帰国させました。帰国後、公債キャンペーンに駆り出されたチェンバレン少尉でしたが、同じ境遇にあったバシローン軍曹と同様に、前線勤務を希望し、陸軍将校の地位を捨て、再び海兵隊軍曹の階級章を袖に付け、第3海兵師団に配属されました。
そして、3年後の1945年3月7日D+16の、この日、第9海兵連隊の司令部から前線まで日本兵の狙撃を長年の経験で交わしながら何度も往復していました。
ちょうど、そのとき、同部隊にいた海兵隊報道員のアルビン・ジョセフィが同行しました。部隊が岩の合間を進んでいるとき、山腹から三度撃たれ、チェンバレン軍曹は拳銃をホルスターから抜くと銃撃の行われた方向へ向かいました。
「そのとき、別な銃撃がありました」とジョセフィ報道員は回想します。「私たちは、どさっという音を聞きました。私たちは丘の湾曲部側面に銃弾が当たったのだと思いました」
混乱した海兵隊員たちは狙撃兵の潜む場所も分からないまま、いそうな場所へと銃弾をばらまき始めました。
一人の軍曹が立ち上がって腰だめでカービンを撃ちながら突進して行った後、救急ジープの運転手が、左耳の後ろを撃たれて倒れたチェンバレン軍曹を発見しました。ジョセフィ報道員は、後にチェンバレン軍曹の追悼文を書き残し、自身、硫黄島で海兵隊報道員として活動した経験を持つAP通信記者ビル・D・ロス氏は、その著書「硫黄島―勇気の遺産」において、この追悼文は硫黄島で戦死した海兵隊員全員にあてはまるものと書き記しています。
「戦いで突然、良き友が殺されたとき、そこで言うべき言葉もなすべきことも何も見あたらない。茫然自失し、怒り、悲しみ、そして挫折感を抱く。私たちは、残った日に、それらの穴へ至近距離で撃つことができたかもしれない。ジャップたちは、ただ私たちを嘲り笑っていただけだろう。奴らは一瞬で私たちの最高の男の一人を奪い去った。チェンバレンの驚嘆すべき戦歴は突然終わりを遂げた。それほど多くの英雄的偉業の後に、彼は歩いているだけで殺されたために、それ以上の悲劇のように思われた。そこではそれについて誰一人何もすることができなかった」
第4海兵師団
午前0時以降から、第4海兵師団の前線に対する日本軍の潜入が活発化し、小規模な部隊が防衛線の弱体な部分への攻撃を繰り返し始めました。
狙われたのは ジョン・R・ラニガン大佐の第25連隊で、最初はジェームズ・C・ヘッドレイ大尉が指揮する第3大隊。このときは、海兵隊の陣地に到達する前に発見され、一掃されました。
次にミー少佐の第1大隊。こちらは事前調査が行われていたのか、小銃や手榴弾による白兵戦が繰り広げられる中、約50名が海兵隊の陣地近くにまで到達。発見されるや、たこつぼへ飛び込み、白兵戦に挑みました。
二時間後、潜入を図った日本軍は撃退され、更に撤退しようとする12名が照明弾で発見され、射殺されました。
夜が明けたとき、第1大隊の海兵隊員は日本兵50名の遺体を発見。その銃弾を浴びて蜂の巣にされた多くの遺体が空の水筒を所持していたことから、海兵隊の陣地への潜入は攻撃に加えて、飲み水を発見する試みもあったと推測されました。彼らの多くは予備の弾薬も持たず、その中の二名は腰にくくりつけていた手榴弾が唯一の武器でした。
この戦いで、海兵隊側も13名が戦死。
しかし、攻撃の応酬はその後も続き、両軍とも一睡もせずの攻防が行われました。
0502、第23連隊第2大隊司令部に日本軍の大型ロケット砲弾が着弾。この手の砲弾は滅多に当たらないとされていましたが、当たれば甚大な損害をもたらすのも事実で、大隊の通信主任が戦死、大隊長ロバート・H・デビットソン少佐、副大隊長ジョン・J・パドレー少佐、作戦将校兼大隊副官エドワード・J・スコフィールド大尉、そして事務担当の軍曹二人が負傷しました。
連隊長ウェシンガー大佐は副連隊長のエドワード・J・ディロン中佐を呼ぶと第2大隊長に任命して送り出しました。
四日後、デビットソン少佐は前線に復帰しますが、パドレー少佐とスコフィールド大尉の二人はマリアナの病院へ移送され、彼らの戦争は終わりました。
0730、第4海兵師団が攻撃を開始したとき、日本軍の抵抗が弱まっているどころか、沈黙していることに気付きました。
そこで第4師団は第23連隊と第24連隊の進撃路を南へ向け、第25連隊の前面に日本軍を封じ込める包囲戦を開始しました。
この日の報告では、これまで激しい砲撃を行っていたターキーノブからの攻撃は著しく減っていたことが記されています。
3月7日の掃討作戦の戦果は芳しくはありませんでしたが、師団の損害もこれまでと違って軽微なものでした。肉挽き器の戦いも終わろうとしている兆しでした。
第5海兵師団
第26連隊は、明け方に前日の猛砲撃で砲弾が不足していたために、援護の砲撃を受けないまま前進を開始しました。
幸か不幸か、「これからお邪魔します、と日本兵に教えてやる」と皮肉られた事前砲撃が無かったことや、日本軍も砲弾が不足していたこともあって、1140には第1大隊とともにH中隊が爆破班を駆使して抵抗線を突破。
側面の第3大隊も、これに呼応して前進しますが、150メートルほどで強固な抵抗に遭遇して停止。抵抗は連隊の前線に沿って始まり、二個大隊六個中隊全てがそこで停止させられました。
それでも、180メートルを同連隊は前進することに成功し、前日攻略できなかった西地区の高地の確保にも成功していました。
高地を確保し、他の部隊が北方の高地を包囲しようとしている間に、この高地では一部の海兵隊員が休息を取り、爆破班が洞窟の閉鎖を行っていました。
高地周辺は静まり返り、時折、火炎放射器や爆薬の音が聞こえてくるだけでしたが、突如として頂上が吹き飛びました。頂上はクレーターとなり、周囲にいた海兵隊員が飲み込まれ、或いは爆発で吹き飛ばされました。
中腹にいて無事だった海兵隊員たちは、慌てて仲間を掘り出し始めましたが、焼け焦げてばらばらになった遺体を見付けるだけでした。
この爆発で、第26連隊は47名が戦死。以降、こうした日本軍の爆破作戦が繰り返し行われるようになります。
第27連隊第2大隊と第1大隊A中隊も、0730に作戦行動を開始しました。砲兵隊の15分の準備砲撃の後、第3海兵師団戦区との境界線の間を、E中隊の前進ルートを狙い撃ちにしている日本軍砲台へ向けて前進しました。
最初の突進は順調でしたが、幾つかの丘を抜けようとしたときに日本軍の機関銃の掃射が両側面から始まり、瞬く間に撃退されました。この抵抗は、海兵隊は37mm砲を敵陣地前方まで持って行って直射を浴びせ、更に一日、接近しての手榴弾の投げ合いで海兵隊員の死傷者を積み重ねながら排除するしかありませんでした。
戦車による支援で突破を図ろうという試みも地形によって阻まれて失敗。隣の第3海兵師団第21海兵連隊G中隊も似たような状況で戦っていましたが、第2大隊のE中隊とF中隊ともども一日中日本軍の迫撃砲や手榴弾、至近距離からの狙撃に死傷者を多数だし、150メートルの前進で、戦闘を終え、夜間防衛のために撤退。この際、空いた間隙にはC中隊の一個小隊が入りましたが、すぐさま激しい砲撃が始まり、81mm迫撃砲と手榴弾で煙幕を張って撤退させる必要が生じ、1330に同じ中隊の第2小隊が移動して第26連隊と接触を果たしました。
午後一杯、洞窟陣地の攻略は試みられましたが、結局、退却し、夜間防衛に努めるしかありませんでした。
第5師団左翼の第28連隊では、北西海岸へ向けて順調に前進が続いていました。0900に出撃して以来、時折、日本軍の攻撃はあったものの地形による障害―硫黄ガスが強風で吹き付けられたり、海軍の艦砲射撃が日本軍の弾薬庫に命中したり―に比べれば大したことはなく、1530には450メートルを前進して北の鼻に到達していました。もちろん、損害はありましたが、全体的には第28連隊にとって損害の少ない日でした。
第28連隊が順調だったのは、海岸からの艦砲射撃の支援が受けられたからでした。この日、500発が撃ち込まれただけでなく、航空支援も119機の艦載機が147ソーティの飛行を行い、40発のナパーム弾を投下して部隊の前進を支援していました。
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