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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

砲弾で負傷した仲間を運ぶ海兵隊員
砲弾で負傷した仲間を運ぶ海兵隊員

ラスト・ポケット(玉名山)

 第4海兵師団は、千田少将の守る南東へ進むための最後の抵抗に遭遇していました。

3月11日(D+20)

 第23連隊と第25連隊は0730に前進開始。

 第23連隊第1大隊は夜になって第2大隊と交替する1700まで攻撃を続け、第25連隊は東へ向けて前進しますが、こちらは激しい抵抗にあって一日中苦しい戦いを強いられました。

 午後遅くに、捕虜となった日本兵から、同地にいる兵力が300名ほどであり、既に武器弾薬、食料、そして水が欠乏している貴重な情報を手に入れ、翌日の攻勢に備えました。

3月12日(D+21)-14日(D+23)

 作戦開始時間にケイツ将軍は攻撃を二時間延期。同地を死守する混成第二旅団司令官の千田少将に対する降伏勧告を行わせようとしました。

 しかし、拡声器の電源となるガソリンエンジンが動かず、この試みは失敗しました。

 0900に攻撃が開始。

 右から第25連隊第2大隊、第3大隊、そして第24連隊第2大隊を前線に並べて攻撃は開始され、第25連隊第2大隊は玉名山の頂上を南東へ向かい、残りの二個大隊は東へ向けて西の前線を押し進めます。

 日本軍も激しい抵抗を続け、300名の戦力で一個連隊の攻勢を日に四日間に渡って耐え続けることになります。

 ここでも、戦車の支援は同士討の危険がありました。それでも、戦車も火炎放射戦車も海兵隊員の進撃を成功させる大きな貢献を果たしました。

 もちろん、最終的には塹壕や掩蔽壕に立てこもる日本兵に対して火炎放射器、バズーカ、ライフル、手榴弾、そして爆薬を使って制圧するしかありませんでしたが。

 玉名山の死闘が続いている頃、日本軍の迫撃砲陣地を制圧し、玉名山に北から攻撃を仕掛けるために立岩地区から500メートルほど内陸に入った"沿岸道"の南西の抵抗を排除するための戦いも行われました。

 第24連隊第2大隊の整備工兵が、シャーマンを通過させるために地雷除去に成功。

 第25連隊第2大隊の支援を受けて道に沿った戦線を掃討。ここでは戦車が活躍できました。

 そして、この日、第4海兵師団の硫黄島からの撤収も始まっています。

3月15日(D+24)

 第25連隊長ラニガン大佐は左翼の攻撃の矛先を南へと向けさせました。この進撃で200メートルを進み、そして左翼の日本軍防衛線の排除へ向けての戦いは翌日まで続くことになります。

 この日の夜、日本軍が夜間に海兵隊の戦線への浸透を試みました。しかし、これはあえなく失敗に終わりました。

3月16日(D+25)

 既に組織的な抵抗は無くなっていました。1030に全大隊が"沿岸道"に到達し、そして全ての抵抗が沈黙しました。それでも、382高地(玉名山)に残る千田少将の旅団司令部は健在で、1,500名の戦力を有していると思われていました。

  同地を守っていた千田少将は、捕虜の証言では3月14日に自決したとされ、海兵隊側ではそれを公式記録にしています。一方で日本軍側は武蔵野中尉及び香田中尉の回想から、千田少将は栗林中将の玉砕攻撃を思い止まるようにとの指導を受けていたものの戦況の逼迫から、井上大佐と共に3月8日から9日にかけて行われた総反撃に参加し、元山飛行場まで陣頭に立って突撃部隊を自ら率い、そこで重傷を負って死亡したことになっています。

 ともかく、D+25に玉名山地区の戦闘も終結しました。同地にはまだ混成第二旅団野戦病院に負傷者が残っていました。

 野戦病院の地下壕も海兵隊による爆破や火炎放射器による攻撃を受け、出入り口は一カ所を除いて全て閉鎖。それでも、野口巌軍医大尉以下約70名は生き延び、一ヶ月後の4月16日頃、アメリカ陸軍に発見され、収容されます。

 また、一部の日本兵はなおも抵抗を続け、それは海兵隊が硫黄島を去った後も続くこととなります。

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