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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

迫撃砲弾を避けるために、たこつぼで砲撃支援を要請する海兵隊員
迫撃砲弾を避けるために、たこつぼで砲撃支援を要請する海兵隊員

最後の包囲網(北の鼻-峡谷の戦い)

 第3及び第4海兵師団が日本軍の掃討のためにクッシュマンズ・ポケットと東海岸で戦っていたように第5海兵師団も北へ向けて前進を続けていました。

3月11日(D+20)

 航空機、艦砲射撃、12個砲兵大隊による50分の準備砲撃が開始(いつものように、日本軍に今から押しかけますよと合図して)。

 左翼の第28連隊は三個大隊。右翼は第27連隊三個大隊と、その指揮下に入った第26連隊第1大隊。そして、第5師団の右側面を守るために第3海兵師団から第21連隊(第3大隊欠)が北上。

  前進を開始すると、相変わらず衰えを見せない激しい抵抗が始まりました。

 これに対抗するために各部隊は37mm砲或いは75mm砲を搭載したハーフトラック、そしてロケット弾を用いて制圧に当たりますが、成果は芳しくありませんでした。

 この"峡谷"は硫黄島において、他の激戦地―摺鉢山、玉名山(ミート・グラインダー)、そして東山(クッシュマンズ・ポケット)―に匹敵する場所で、長さ700メートル、幅は20メートルから500メートル、無数の溝が底に走り、それらの影に巧みな十字砲火が可能なように防衛陣地が構築されている場所でした。

 第28連隊は、峡谷を見下ろす北から西、そして南西の稜線を目指して緩やかな斜面をゆっくりと30メートルほど前進。その頂上は南西からの接近を支配するように強固な要塞が構築されていましたが、守備部隊は海兵隊の爆破作業によって峡谷の斜面の洞窟へ非難していきました。

  第28連隊が大きな抵抗を受けずに前進する一方で、第27連隊では、前進を開始した第2大隊が激しい抵抗に遭遇して、予備だった第1大隊と第3大隊が急遽派遣されることになりました。実のところ、第2大隊は既に前進できるだけの規模ですら無い状態で、代わって第1大隊が以後の五日間を戦うことになります。

 第3大隊も高地に対する三度の血塗れの突撃の末にそこを確保。

 第27連隊の左翼にいた第26連隊第2大隊も、第28連隊から元の部隊に戻り、1300に僅かでも進もうと第26連隊第1大隊と共に攻撃を行いました。

 右翼の安全を守るために海岸沿いを北上する第21連隊は、この日は前進せずに第5海兵師団の右翼と合流するまで待機しています。

 夜間、前線の大半は静寂に包まれました。

 第27連隊第3大隊の戦線の背後で、地下から現れた日本兵が頻繁に手榴弾を投げつけてきたこと以外は。

3月12日(D+21)

 500ポンド爆弾が北の鼻近くの洞窟の入り口に着弾したとき、大きな煙が噴き上がり、400メートル以上離れた崖の側面が吹き飛び、また別な爆弾が別な洞窟に着弾したとき、煙と噴煙が半径200メートルで立ち上りました。

  それを除けば、この日は3月11日の再上演でした。

 第27連隊も第28連隊も僅かしか進めず、師団情報将校は最低でも1,000名の日本兵がこの地点を守っていると推定。

「…その日本兵が守るために残っている地域では人員、武器、或いは弾薬は不足していない」

 第21連隊は、出撃前の日本軍に対する事前連絡なしに前進を開始。後方では前進を支援するために第12連隊の砲兵隊が第13連隊と共に控えていましたが。

 四日間、ゆっくりと第21連隊は第5師団の側面を守りながら北上を続け、第27連隊のI中隊と戦線を接続。海岸を見下ろす断崖に沿った陣地を確保し、海岸への戦闘偵察部隊を派遣しました。

 海兵隊の工兵たちは洞窟の爆破作業を続けていましたが、夜間になるとどこからともなく現れる日本兵が依然として出没していました。もっとも、大半は撤退するときに発見されて殺害されたそうです。

 そして、前線で味方の治療を続けていた海軍衛生官ジョン・ブラッドリー二等兵曹の戦争が終わりました。ブラッドリー二等兵曹の加わった摺鉢山の星条旗の記念切手発行が決まった、この日、迫撃砲弾が炸裂し、数人の仲間と共に負傷しました。しかし、ブラッドリー二等兵曹は自らも治療が必要な負傷だったにもかかわらず、仲間の治療を続け、最後は救護所へ運ばれ、野戦病院、そしてグアムへと運ばれ、最後はハワイの病院に収容されることになります。3月10日、そして、この日、自らの負傷を顧みずに銃弾が飛び交う中、仲間の治療に当たった献身的行為により、既に上陸日以来生き残っている数少ない中隊長セヴァランス大尉の推薦により、ブラッドリー二等兵曹は海軍十字章を授与されることになります。

3月13日(D+22)

 これまで50から200メートルの距離で対峙して戦っていた両軍でしたが、この日、ついに天山が陥落。同地区の守備部隊は夜間、海兵隊陣地への斬り込みを敢行し玉砕、この喪失により日本軍は東側の防御が手薄となり、以降、海兵隊はこの地区を迂回して包囲することが可能になりました。

  とはいえ、複雑な地形は依然として戦車の適切な支援を制限し、日本軍の頑強な抵抗を肺乗するのは容易なことではなく、既に中隊は小隊規模となり、疲れ切った少数のベテランが率いているのが現状でした。事実、3月9日に負傷したアントネリ少佐と交替したジェラルド・F・ラッセル少佐の第27連隊第2大隊は既に部隊としての機能を停止。退却し、その後、戦線へ復帰することはできませんでした。

 海兵隊が、この時期に直面した日本兵は、海兵隊を殺す以外に一日たりとも生き延びる術がないと覚悟を決めた者たちで、P-51による近接支援爆撃はこれまでと違って誤爆するような失敗もなくなっていましたが、それでも、最終的にはライフル、爆薬、そして火炎放射器を手にした海兵隊員が直接、拠点を潰すしかありませんでしたから。

3月14日-16日(D+24-D+25)

 のろのろとした一向に進展しない三日間が終わり、第27連隊は最後の日本軍陣地へ挑みかかりました。

 今度は東西から挟み込むようにしての攻撃であり、第27連隊は攻撃を西へ向かって振り向け、第26連隊が二個大隊を並行して中央を前進。第28連隊が西から攻撃を行いました。

 装甲ブルドーザーが前進し、戦車が支援し、火炎放射戦車が効果的な支援を与え、3月14日と15日の二日間で約900メートル前進。

 第21連隊第1大隊も北西に沿って500メートルほど戦線を拡張することに成功。

 3月5日頃に重傷を負って北部落北西方の洞窟に司令部を移していた歩兵第百四十五連隊長池田増雄大佐は、14日、軍旗を奉焼。第二十七航空戦隊司令官市丸利之助少将も栗林将軍のいる洞窟陣で合流しました。

 3月14日1030から1100までの30分間、陸軍のP-51戦闘機が最後の航空支援のために飛び立ち、ガソリンとディーゼルを混合した焼夷弾を第27連隊第3大隊の前線に投下。

 砲兵隊と駆逐艦は3月15日の第26連隊のために準備砲撃を行い、夜間は照明弾を打ち上げる任務を続けていました。

 3月16日、第3海兵師団第21連隊は第5海兵師団の右側面を確保し、第1大隊は海岸に到達、第2大隊も165高地に部隊を向けました。

 第28連隊(第3大隊欠)の第5パイオニア大隊は峰の南西に沿って展開し、第26連隊(第28連隊第3大隊により増強)の北西への攻撃を支援しました。

 第26連隊は最後の準備砲撃の後にゆっくりと前進を開始し、装甲ブルドーザーと火炎放射戦車が道を切り開きながら岩場を前進しました。

 日本軍の掩蔽壕は火炎放射戦車が焼き払い、最後に工兵が爆破して破壊していき、ついに第26連隊は3月17日、北の鼻に進出し、日本軍の最後の守備隊を南北700メートル、東西200から500メートルの地域に包囲しました。

 この3月17日より、"峡谷"における最終的な戦いが始まりました。

釜岩、監獄岩上陸 3月12日(D+21)-14日(D+23)

 3月12日の午後、太平洋艦隊海兵軍水陸両用偵察大隊B中隊が硫黄島の北西にある釜岩と監獄岩へ向かいました。

 第2装甲水陸両用大隊C中隊の12輌のLVTで小隊長と先任下士官が運ばれ、洋上ではLCIに乗った中隊長と副官がそれを見ていました。小島に接近する彼らに対し、攻撃は無く、日本軍の気配もありませんでした。中隊長は3月13日0900に上陸を命じ、LCR(Landing Craft, Rubberの略。ゴムボートとも言う)に乗り込んだ6人の将校と94名の兵下士官からなる上陸部隊が二個火炎放射チームを従えて上陸を開始。

 火力支援は砲撃将校を務める副官が指揮するLVT(A)とLCIが担当し、中隊長は全体的な指揮を執りました。

 第一波が釜岩と監獄岩に到着すると、数週間前まで日本軍が監獄岩にいたことや幾つかの洞窟のバリケードや岩の掩蔽壕は発見できましたが、それ以外の装備は見付からず、抵抗に遭遇することなく島の確保を完了。

 二つ目の岩は1024に確保し、上陸部隊は硫黄島へ引き返しました。

 翌日、B中隊はVACから分離され、そして太平洋艦隊海兵軍司令官に報告するために戻るよう命令されて作戦を終えました。

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