デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日
摺鉢山の星条旗をモチーフにした海兵隊戦争記念碑と2006年11月10日にオープンした国立海兵隊歴史博物館
Legacy of Valor(勇気の遺産)
日本軍指揮官
小笠原兵団の生存者で最先任は3月25日、洞窟に潜伏しているところを発見された歩兵第百四十五聯隊第一大隊長、原光明少佐でした。
それ以外の指揮官は、海軍部隊の指揮官、市丸利之助少将は、
「この島の喪失は、ヤンキーの軍靴が間もなく我々の祖国を踏み付けることを意味するだろう」
と生き残った50人の部下を前にして述べるとルーズベルト大統領宛に、
「我々が必要とする全ては東方に帰属するものは東方へ返すのがあなたのためだ」
という手紙を遺し(手紙は後に海兵隊員が発見し、アナポリス海軍兵学校博物館に保管)、26日の突撃で数名の部下と共に東海岸まで進出、手榴弾でトラック約30輌を破壊し、自決しようとしたところを機関銃弾を浴びて全員が戦死したと推測されています。
摺鉢山の指揮官、厚地兼彦大佐は2月20日、戦車砲弾の直撃を浴びて戦死。
千田貞季少将は、3月8日の総攻撃を指揮し、そこで戦死。或いは3月14日の午後、武運が尽きた将軍は部下を前に決別の儀式を行い、自決を望む将兵に手榴弾を渡し、それを見届けた後、拳銃で自決。この爆発音に気付いた海兵隊員が入り口近くにいた負傷兵2人を捕虜にした後、爆破班が入り口を封鎖。残った生存者は窒息するか、重傷が元で死んでいきました。
井上左馬二海軍大佐は、3月8日の突撃で戦死。
西竹一中佐は、クッシュマンズ・ポケットで奮戦した後、重傷を負って3月21日に自決。
池田増雄大佐は、唯一海兵隊が接触に成功した指揮官でしたが、アースカイン将軍の降伏勧告に返答することもなく、そのまま消息を絶ちました。
兵団築城担当参謀の吉田紋三少佐も、3月26日の総攻撃に参加しましたが、栗林兵団長から硫黄島を脱出し、戦闘状況等を大本営に報告するよう命令を受けて5月中旬まで生き延びましたが、脱出を試み、海軍の大尉とともにアメリカ軍の飛行機を奪ったところを発見されて戦死しています。
そして、栗林将軍は、3月26日の突撃前進中、漂流木と大阪山(362-A高地)の中間地点で右大腿部に重傷を負い、その後も司令部付き曹長に背負われて前進しましたが、
「兵団長の屍は敵に渡してはならない」
との最後の言葉を残し、高石参謀長、中根参謀長と共に拳銃により自決したと伝えられています。
別の説、海兵隊戦史「IWO JIMA」では26日の攻撃以前に切腹したとされています。このとき、栗林兵団長は残存部隊に一斉突撃を命じる最後の命令を下し、後に、「将軍の洞窟」と名付けられる洞窟の入り口で皇居の方角へ顔を向けて正座し、三度頭を下げた後、刀を腹に突き立て、副官が介錯したとされています。
栗林兵団長の遺体は大阪山北方にある大木の根元の弾痕内に埋められ、他の多くの指揮官同様遺体が発見されることはありませんでした。
日本軍の生存者は1,033名。少しでも連合軍の進撃を遅らせ、家族のいる日本が守りを固めることで少しでも犠牲を少なくさせるために食料も、何より水もなく、地熱と火山ガスで苦しみながら、戦い続けました。その後も、1年ほど、生存者が現れ、或いは発見されましたが、多くの日本兵は閉鎖された地下壕で死んでいきました。
海兵隊の戦没者は10年後、遺体は掘り出され、それぞれの故郷へと帰還していきましたが、日本兵の遺体の多くは今なお硫黄島の地に眠り続けています。
Legacy of Valor(勇気の遺産)
スミス将軍は後に栗林中将を、
「太平洋における我々全ての敵対者の中で、栗林は最も手強かった」
と評し、とある海兵隊員は、
「これ以上、彼のような者をジャップどもが持っていないことを願うよ」
と語りました。日本軍は36日間の戦いで約22,000名が戦死し玉砕しましたが、栗林将軍は最後までアドバンテージを握り続けた結果、VACの損害はそれを上回る28,696(内戦死6,784名)となり、死傷者の数では栗林将軍の意図どおり、敗北の地となりました。この数字は、作戦参加将兵が三人に一人の割合で死傷したことになりますが、後の分析で、ノーマン・クーパー博士は、こう述べました。
「約700名のアメリカ人があらゆる平方マイルのために彼らの生命を捧げた。フットボール場サイズの全ての土地の平面で平均一人以上のアメリカ人と五人以上の日本人が殺され、そして五名のアメリカ人が負傷した」
前線部隊は例えばウィリアム・T・ケッチャム大尉の第24海兵連隊第3大隊I中隊は、D-day時にライフル小隊三個133名の海兵隊員がいましたが、D+35に中隊の残余が再び乗船したときには、僅か9人でした。フランク・C・コールドウェル大尉の第26海兵連隊第1大隊F中隊は221名の損失を報告しました。戦いが終わったとき、合併した第1と第2小隊の小隊長は一等兵でした。第26海兵連隊第1大隊では、トム・フィールズ大尉が大隊副官と交替するために8日目にD中隊の指揮を離れるのですが、戦いの終盤で彼が中隊に戻ったとき、本来250名いた中隊は僅か17名に減少していましたし、第28海兵連隊第1大隊B中隊は、8度中隊長が交替し、最下位の階級である二等兵二人を含め第2小隊長は12名の海兵隊員が指揮を執っていますが、各師団、各連隊が似たような状態でした。
硫黄島で最大の損害を被ったのは第5海兵師団9,925名。つまり、1日辺り、約275名が死傷したことになります。ちなみに欧州戦線で最大の損害を受けた第3歩兵師団は25,977名の死傷者(捕虜、行方不明含む)を出していますが、513日の戦闘参加日数によるものです。
一方で硫黄島の滑走路は作戦終了以前から価値を示していました。マリアナ諸島に本拠地を置くB-29によって日本に落とされた月当たりの高性能爆弾のトン数は3月だけで11倍に達し、4月7日には第VII戦闘機司令部のP-51ムスタング部隊の80機が硫黄島から飛び立ち、東京の中島航空の発動機工場へ飛ぶB-29を護衛しました。
B-29の緊急着陸は3月4日を初めとし、最終的には2,251機が緊急着陸を行い、24,761名の搭乗員の大半が海で死ぬのを免れたと言われました。あるB-29パイロットの言葉に、それは示されています。
「私が、この島に上陸するときはいつも、私はここで戦った男たちのために神に感謝する」
硫黄島は、戦略爆撃のための重要拠点であり、幾つかの案(毒ガスの利用すら検討されましたが、計画段階で意味がないことと、味方にも被害が出ることが指摘されたためにあっさりと却下)が出された末、水陸両用強襲による正面攻撃のみが唯一の方法とされました。
これにより、海兵隊は日本の絶対防衛圏へと飛び込み、例えどれだけ激しい抵抗を受けようと最後は攻略してみせるという意志を、これまで対決した中で最高の野戦指揮官と評する栗林忠道中将の全ての防衛陣地を36日間に及ぶ戦闘で打ち破ることで示しました。
栗林将軍も自らの生還の可能性を顧みることなく、部隊の掌握と、硫黄島の地形を最大限活用した防衛陣地を構築し、持久戦に持ち込むことで日本本土へのアメリカ軍の侵攻を少しでも遅らせようと尽力しました。
しかし、アメリカにとって硫黄島は父島攻略が候補から外された以上、是が非でも確保しなければならない島でした。逆に日本にとっては絶対に渡してはならない土地でした。
硫黄島で海兵隊は上陸初日に負傷による死亡も含め550名の戦死者を出しました。一日に生じた死者数としては、それまでで、そして今日に至るまで、これを超えた損失を海兵隊が受けたことはありません。
にもかかわらず、海兵隊は上陸を、そして前進を続けました。水際防御作戦を放棄した栗林将軍は、逆に上陸を待ちすぎたとも言われています。事実、第3波が上陸した時点で約6,000名が上陸して橋頭堡を確保し、D-dayだけで守備部隊を超える30,000名が上陸を果たしていましたし、上陸地点が栗林将軍の予測と僅かにずれていたことから、90分で上陸部隊が西海岸へ到達し、D-2に海軍砲台が命令を無視して発砲したこともあり、栗林将軍の期待した10日間ではなく、5日で海兵隊は摺鉢山を陥落させ(周辺地域の相当は更に数日を要しましたが)、その頂上へ星条旗を翻らせました。
このときのローゼンソール氏の摺鉢山の星条旗は海兵隊の不屈の象徴となりました。皮肉なのは、最初の旗と二番目の旗を掲揚した者たちの何人かは、その海兵隊から不要と―論評では"精鋭の中の精鋭"とされたものの逆にそれ故に有害と言われた強襲連隊と空挺連隊の元隊員たちだったこと、そして、その第5海兵師団自体も、戦後の軍縮によって1946年には活動を停止させられたことでしょう。戦後500年の存続を意味する象徴を築いた出来事は、既に海兵隊から不要と判断された部隊の出身者と、翌年、不要と判断される部隊の者たちによって成し遂げられたのですから。
後にスミス将軍自身は、この戦いについて、次のように述べています。
「それは戦略的にも戦術的にも奇襲の望みはなかった。そこでは戦術的優位性の可能性は僅かだった。事実上、敵の条件で全ての作戦は行われた。敵の防衛の兵力、配置、手段は元山台地の中央彼の準備された陣地の心臓部の主要な突破と、次の側面の海岸へ下り降りる困難な地形における征服を必要とした。島の規模と地形は、あらゆる軍の橋頭堡構築を妨げた。それは作戦の一つの局面と一つの戦法だった。交戦に加わった時から、作戦が完了されるまで、それは現実的に最大限に要塞化された陣地に対する優れた兵団と支援火器による情け容赦のないプレッシャーで維持された前線突撃の問題だった」
戦いが、まだ続いていたとき、第3海兵師団の墓地の開所式で師団長アースカイン少将は、こう述べました。
「勝利は決して疑わしくなかった。代償がどうかだった。我々全ての心で、心配していたことは、終わったとき、我々の墓地に捧げるために我々の誰が残っているか、或いは最後の日本兵射撃手を最後の海兵隊員が倒すかどうかだった」
その一方でガダルカナルの英雄ギャレー中佐は、ガダルカナルの時と比較して、
「その時は、"我々は、確保できるか?"だった。ここ硫黄島での疑問符は単純に、"我々がいつ終わりにすることができるか?"だった」
と語ったように、その後の北部への進撃は、栗林将軍が経験から、持久戦に持ち込むことで多くの犠牲を払わせることで上陸部隊を撃破し、アメリカに厭戦感を起こさせようと意図していたと言われるように、それこそ寸刻みで出血しながらの前進となりましたが、それでも3月頭には硫黄島の占領は確実視され、残るはいつ終わりに、そしてどれだけの犠牲で終わらせることができるかが焦点となっていました。
栗林将軍の誤算は、硫黄島に上陸してきたのは、かつて第1次世界大戦の激戦地ベローの森でドイツ軍の機関銃陣地に何度も撃退されながらも、何度も食らいついていき、その不屈の闘志と正確な射撃で最後には、「悪魔の犬ども」とドイツ兵を震え上がらせた血脈を持つ海兵隊でした。
硫黄島は結局は、B-29の緊急着陸及び直衛戦闘機の発着基地としてのみ用いられ、日本侵攻の前線基地になることはありませんでしたし、1945年9月2日、長かった戦争も終わると硫黄島の戦いは、フォレスタル長官の言葉ではなく、それに対するスミス中将の、
「Once peace comes, it won't matter if there were 500 Iwo Jimas(平和が訪れれば硫黄島戦が500あったとしても関係無い)」
という言葉が正しかったように海兵隊は確かに処遇は以前より良くなったものの、またもや存続をかけた戦いを行わなければなりませんでしたが、ニミッツ提督の有名な、
「非凡な勇気が共通の美徳だった」
が示すように海兵隊員たちは前進を続け、いかなる障害であろうと叩き潰してみせる意志を示し、最大の犠牲を払った第5海兵師団を率いたケラー・ロッキー少将が語ったように、海兵隊は、硫黄島において、新たな伝説を築くと同時に、
「勇気の遺産(Legacy of Valor)」
を築き上げたのです。
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