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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

岩石地帯で海兵隊員の支援を行うシャーマン戦車
岩石地帯で海兵隊員の支援を行うシャーマン戦車

D+15 3月6日

 3月5日、物別れに終わった会議の後にシュミット少将は現存の兵力で、どれだけ戦闘が続き、どれだけの死傷者を生じるか、そして、早期に戦闘を終結できる方法と死傷者をどれだけ少なくできるかの策を練っていました。

 海兵隊の取るべき戦術は最初から単純でした。日本軍守備部隊が一掃されるまで各陣地を正面攻撃でしらみつぶしにしていくです。

 その準備も六日には整い始めていました。

 0700、挟撃作戦の総仕上げが地上の砲兵部隊と艦砲射撃の一斉射撃によって幕を開きました。

 11個大隊の保有する全榴弾砲(75mm榴弾砲、155mm榴弾砲合わせて132門)が島の西半分を31分間にわたって砲撃し、東半分に対し、36分。67分で22,500発。
沖合約900メートル以内にいる戦艦一隻と巡洋艦三隻は14インチ砲50発と8インチ砲から400発の合計450発。駆逐艦三隻とロケットランチャー装備の上陸用舟艇二隻が西岸に接近して絶壁と洞窟の陣地に徹底的な砲撃を与え、更に艦載機が爆弾、ロケット弾、そしてナパームの波状攻撃を加えました。

 この上陸直前に匹敵する砲爆撃は、時には海兵隊の前線100メートル前方に着弾するくらいの代物で、前線の彼らに期待を抱かせました。この日の戦闘報告には、

「いかなる守備隊といえども、このような激しい砲爆撃に耐え抜くことは不可能と思われる」

 と書かれましたが、0800に前進を開始した海兵隊員は現実の厳しさを知らされました。

 第3海兵師団第21海兵連隊と第5海兵師団第27海兵連隊が西、一時間後に第4海兵師団の第23海兵連隊と第24海兵連隊が行動を開始した直後、日本軍の猛攻撃が始まりました。

第3海兵師団

 先陣を切ったのは第21海兵連隊でしたが、前進はすぐに阻まれていました。それでも、第21連隊第2大隊G中隊の二個小隊が北部海岸から400メートルほどの場所にある尾根の頂上へ到達することが成功し、海岸の見渡せる光景を指揮官マルビー中尉が報告しますが、日本軍の攻撃が激しく、また正確だったために前進も後退もできなくなってしまいました。

 マルビー中尉は救援を求めるためにジェローム・ラドケ伍長ともう一人の部下に伝令として後方へ走るように命じました。一人は途中で負傷しますが、ラドケ伍長は指揮所に無事に到着。

 即座に火炎放射器班員と爆破工作班員12名が志願し、救援に向かいました。彼らは飛来する銃弾の中、身を屈めながら前進しますが、数分以内に6名戦死、2名が負傷して支援の試みは失敗。

 ラドケ伍長はと言えば、またもや無事にマルビー中尉の元へ到着していました。

 午後遅くマルビー中尉の部隊は煙幕と砲弾の援護の下に死傷者を移送し、二日前にいたたこつぼへと戻りました。

 この日の戦果は45メートルから、180メートル。死傷者数は約200名でした。

第4海兵師団

固定砲台として用いられた日本軍戦車

固定陣地として用いられた日本軍戦車

 第23及び第24連隊の各二個大隊が先陣となって前進。言うまでもなく即座に前進は停止。

 肉挽き器は今なお難攻不落の場所でした。

 特に第23連隊第2大隊E中隊は攻撃開始15分で中隊司令部に迫撃砲弾が着弾して中隊長を含む約10名が負傷。45メートル前進したところで攻撃は中止されますが、ハーマン・ドリジン少尉他13名の隊員たちは後退することもできなくなっていました。仕方なくドリジン少尉たちが迂回したところ、日本軍戦車の前に出ることができ、ユージン・フレデリックス一等兵がバズーカでこれを攻撃し、乗員が飛び出してきたところを他の隊員が撃ち倒し、ハリー・プライス伍長がTNTの束を持って走ると自らも爆風で吹き飛ばされる肉薄攻撃で戦車を破壊(死んではいません。念のため)。

 更に180メートル先にいた戦車にフレデリックス一等兵はバズーカを命中させ、その隙に海兵隊員たちは自分たちの前線まで走って引き返し、フレデリック一等兵とプライス伍長は、バズーカの砲弾を拾い集め、集まった数人のライフルマンたちとともに戦車を埋めて作られた陣地を再び後にしました。

 E中隊の不幸はなおも続き、午後にまた中隊司令部に迫撃砲弾が着弾して後任の中隊長が負傷。副官戦死、兵士22名負傷となりました。大隊の情報将校がE中隊を引き継ぎ、12時間で3度、D-day以来、7度目の指揮官交代となりました。

 ドイル・スタウト少佐率いる第24連隊第4大隊は戦車の支援を受けられる幸運に恵まれていました。シャーマン戦車と火炎放射戦車の支援を受けて同大隊は415メートルの前進。

 この夜の戦況報告で、同師団の戦闘能力は40%と記載されています。

第5海兵師団

 0500、アントネリ少佐の第27連隊第2大隊は先陣を務めるために配置についていましたが、0800に前進を開始した途端に激しい迫撃砲弾の雨によって35人が死傷。

「とんでもない日が始まった」

 とアントネリ少佐に呟かせたように日本軍の攻撃は、第5海兵師団が攻勢を開始する暇も与えずに攻撃中止に追い込んでしまいました。

 日本軍の尾根と岩の裂け目を巧みに利用した防衛陣地からの攻撃は激しく、犠牲者を出しながら戦車の火炎放射器と爆破工作班がしらみつぶしに片付けていなければ前進もできない状況で、この日一日を終えました。

D+15

 第5師団の野戦病院にいたエヴァンス中尉は負傷者の傷が砲弾の破片から、機関銃弾や小銃の至近弾に代わってきたことに気付きました。

 高地からの観測砲撃ができなくなったことで、大口径砲と噴進砲の攻撃が減少していたためで、日本軍兵士は目が悪くて射撃が下手だという噂を信じる者は既におらず、日本兵は海兵隊員も認める射撃の名手揃いだと一人の将校は後に語りました。

 こうして死傷した者に代わる補充要員は既に全員が投入済みであり、頼みの綱だった第3海兵連隊も既にグアムへ向けて航行中でした。このため、戦闘要員の補充には本来後方要員だった者を使う以外なく、とにかく銃を手にすることができれば事務員だろうが、コックだろうが楽隊員だろうが投入するしかなくなっていました。

 戦死2,777名、負傷8,051名、戦争神経症による離脱1,102名。合計11,930名が15日間で失われ、しかもまだ戦闘は継続中でした。

 それでも、硫黄島では、この頃になると支援火器の修正は、より効果的に行われ、レッチャー大佐の元に砲兵、艦砲射撃、そして航空支援を軍団レベルで統括した支援火器調整センター(SACC)が組織され、同様にメギー大佐の航空支援管制部隊も十分機能するようになっていましたし、各大隊には、砲兵隊から前線観測チームが派遣されたことで、より迅速に支援を得ることが可能となり、またジョンソン中佐を殺したような味方への誤射も減少しました。艦砲射撃も、海兵隊員が不満どころか怒りすら感じた準備砲撃の頃や、せいぜい、照明弾を打ち上げる程度だった初期の段階とは違って、側面と前線に沿うように派遣され、海岸に接近して隠蔽された日本軍の沿岸砲台から砲弾を浴びせられながら(場合によっては被弾も)、迅速な支援を行うようになっていました。

 そして、3月6日は、海兵隊が熱望していた陸軍航空隊の先遣隊が到着しました。第15戦闘機集団は、B-29の護衛を行うVII戦闘機隊の先遣隊でしたが、これにはP-51ムスタングとP-61ブラックウィドー夜間戦闘機も含まれており、地上部隊への近接航空支援の経験は無かったものの、それをパイロットたちが学ぼうとしている熱意を知ったメギー大佐は、ムスタングが1,000ポンド爆弾まで搭載できることをありがたく思いつつ、三日で彼らの訓練を済ませて戦線へ向かわせました。

 以降、この第47戦闘機航空隊は、護衛空母の艦載機から航空支援任務を引き継ぎ存分に活躍することとなります。

 摺鉢山もシービーズが頂上へ向かう道路の拡張工事を行っており、陸軍の二車線、12メートル幅、全長1マイルという注文を果たした道路を構築した後には、車で登れるようになり、頂上にはレーダーや天候・航行指示装置の設置が行われました。実のところ、摺鉢山にはまだ日本軍の残存兵力が残っていたのですが、夜間に食料や水を探し回る以外の動きは見せませんでした。

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