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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

地雷で破壊され、転覆したLVTの脇を通過する海兵隊員
地雷で破壊され、転覆したLVTの脇を通過する海兵隊員

D+18 3月9日

 刀を振りかざす井上大佐の姿を目撃した日本兵はいました。

 午前三時三十分、井上大佐の従卒は、井上大佐の、

「突撃に前へ!」

 という叫び声を聞きました。呼応するようにあちこちで喚声があがりました。

「突っ込めえ!」

 井上大佐の叫び声に続き、

「万歳、万歳」

 という声が続きました。井上大佐の声が再び聞こえ、そしてそれが最後となりました。五十歳の誕生日まで後五日。井上大佐は戦死しましたが、遺体は発見されませんでした。

 日本軍の突撃部隊は各個撃破されていきました。

 夜明けに海兵隊は戦死90名、負傷257名の損害を受けましたが、日本軍の戦死者は夜襲の最前線となった他の場所も含め、784名を数えました。

 激戦の最中、ジープが前線へ走って弾薬の補給を続けた結果、弾薬不足を訴えたE中隊は翌朝、日本軍最大の反撃を撃退するまでに20ケースの手榴弾(500発)、60mm迫撃砲弾は高性能炸裂弾200発と照明弾200発、そして数え切れないほどのライフルと30口径機関銃の弾薬を使用しました。更に、E中隊と最前線となった他の部隊を照らし出すために海上からは海軍艦船が193発の照明弾を打ち上げています。

第3海兵師団

 前日到達できなかった海岸へ向かうため、何度も繰り返されたように準備砲撃を行った後、第9連隊と第21連隊は前進を開始しました。第9連隊第2大隊と第21連隊第3大隊がクッシュマンズ・ポケットへ。

 そして、第9連隊第3大隊と第21連隊第1大隊が海岸へ。

 第21連隊第1大隊A中隊ポール・M・コナリー中尉率いる27名のパトロール部隊が、クッシュマンズ・ポケットを迂回して前進し、北西海岸へ向かいました。

 前進は呆気なく進み、散発的な抵抗を受けただけで午後には海岸に達していました。周囲に日本兵の姿はなく、ただ破壊された洞窟や掩蔽壕が残されているだけ。それはそれでコナリー中尉に薄気味悪さを感じさせていましたが、部下の中の何人かは無頓着に海へ入り、汚れた顔を海水で洗い、二週間履き続けた服や靴を脱いで海の中を歩きました。

 上陸日に200名いた隊員の中で、これまで無事でいたのは僅か3人。そして補充された24名が北東海岸へ一番乗りを果たしました。

 その間、コナリー中尉は第21連隊副官ジュータス・R・スモーク中佐と連絡を続けていました。海岸線への到達は摺鉢山に星条旗を掲揚したことのような劇的な出来事ではありませんが、硫黄島の制圧には極めて重要な出来事でした。

 これにより、第3海兵師団は日本軍を分断し、孤立化させることに成功したのです。

 海水を水筒に詰めて持ち帰るように命じられたコネリー中尉が、水筒に海水を満たす間、近くでは日本兵が海岸にいる彼らに迫撃砲の照準を合わせていました。

 到達から、10分後。一発の砲弾が7人を負傷させました。負傷者が夜に備えて掘られた塹壕に運ばれ、コネリー中尉は水筒を連隊司令部へ送りました。

 送られてきた水筒を嘗めて海水であることを確認したウィザーズ大佐は、

"検査用、飲み水にあらず"

 という伝言と共に第3師団司令部のアースカイン少将の元へ送りました。

 その頃、第21連隊第2大隊は第5師団との接触を取ろうと右へ向けて断崖の際を進んでいましたが、こちらは成功せず、夜間に備えることとなります。

第4海兵師団

 日本軍の夜襲を撃退した第4師団は、第23連隊第2大隊がその掃討作戦を中央で開始していました。

 南では第23連隊と第24連隊第3大隊がターキーノブ周辺の頑強な抵抗を制圧するために前進を開始しました。

 最初の攻撃は失敗に終わりますが、二度目の突撃は0900に成功し、その日だけで300メートルを前進できました。

 対照的に左翼では、第24連隊第1大隊と第25連隊第1大隊が激しい抵抗で前進を阻まれていました。

第5海兵師団

 夜明け直後、北の鼻から南東に突き出た尾根で守りを固める日本軍の一掃を図って第27連隊第1及び第2大隊は前進を開始しました。

 北西への進撃は日本軍の激しい銃撃と自然の要害に阻まれてほとんど進展せず、午後には第1大隊長のジャスティン・G・デュリア中佐と第2大隊長ジョン・W・アントネル少佐の二人は連れだって前線視察に出掛けました。

 前線視察で二人は日本軍の主要な防衛拠点の見当を付けると歩いて戻り始めました。ディリア中佐が伝令を呼び、その伝令が二人へ歩み出した途端、日本軍が戦車用に埋めていた砲弾を踏んで爆死。更に砲弾の破片がデュリア中佐の左腕を肘からもぎ取り、もう一つが左膝を砕きました。

 アントネル少佐も地雷で負傷し、二人を搬出する際、一発の銃弾がデュリア中佐の左足を切断しました。

 アントネル少佐と、大隊長になって四日目のデュリア中佐はそのまま運ばれて戦列を離れました。

 既に数少ない上陸日以来の大隊長アントネル少佐が後送された第1大隊所属のジョセフ・ジュリアン小隊軍曹は尾根から機関銃と迫撃砲を撃ち込んでくる日本兵の制圧を指揮していました。

 彼は上陸日以来、精力的に活躍していましたが、この日は攻撃開始15分で前進を阻止されていました。地面を這いながらジュリアン軍曹は爆薬と白燐手榴弾を投げ込んで砲座の一つを破壊したとき、別な方向から機関銃が狙ってきたためにカービンで反撃して、その陣地も制圧。

 尾根の斜面からの銃撃が始まるとジュリアン軍曹は単騎突撃を再開するために一端弾薬を取りに戻り、今度は部下を引き連れて洞窟陣地を更に破壊。

 その直後、機関銃弾でジュリアン軍曹は倒れますが、ジュリアン軍曹はバズーカで反撃してこれを破壊。

 戦死するまでの活躍は、ジュリアン軍曹に名誉勲章をもたらします。前日のラベル一等兵についで二日間で二人目の受賞者でした。

 彼の中隊の前進を止めようとする命懸けの努力において恐ろしい機関銃と迫撃砲の弾幕が浴びせられた左翼前線上の日本軍兵士の占有する塹壕と要塞陣地を突破しようと部隊が決意したとき、ジュリアン小隊軍曹は迅速に戦略上重要な支援陣地の彼の小隊の銃を配置に付かせ、そしてそれから、彼自身の自発性によって行動し、近くの掩蔽壕へ単騎突撃を実行して大胆に前方へと進んだ。
 単独で前進した彼は砲座の中へ致命的な爆薬と白燐手榴弾を投げ、敵兵2人を殺し、そして隣接した塹壕システム内に残っている5人を追い出した。捨てられたライフルをつかむと彼は塹壕の中へ飛び込み、そして彼らが逃げ切る前に5人を殺した。
 全ての抵抗を相当する意志で、彼は更に多くの爆発物を手に入れると、他の海兵隊員を同行させて、再び敵の要塞へ突進し、そしてもう二つの洞窟陣地を叩き潰した。
 その直後、彼は敵軍の銃撃の激しい集中射撃によって致命傷を負って彼が倒れる前に助けを借りることなくバズーカ攻撃を開始し、残った一つの掩蔽壕の中に四発の砲弾を撃ち込んで、完全にそれを破壊した。
 勇敢そして不屈のジュリアン小隊軍曹は全ての自身の危機を絶えず顧みず、彼の大胆な決断力によって先頭の重要な局面の間、大胆な戦術と絶え間ない闘争心は日本帝国のこの獰猛な前哨防衛地点の克服に向けて駆り立て続け、彼の中隊の継続的な前進と彼の師団の作戦の成功の一因となった。
 彼の際立った勇気と苦しい闘争を通じての揺らぐことのない自己犠牲の精神は合衆国海軍の最高の伝統を維持し高めた。

 0700に第26連隊は、第2大隊(軍団予備から3月8日解放)も含めて前進を開始しました。しかし、前進は上手く行かず、第28連隊の前進を待って待機。1530に第28連隊が横に並ぶと再び前進を開始しますが、結局、日本軍の小火器による銃撃に阻まれ、P-51の近接航空支援を受けたにもかかわらず、1メートルしか前進できませんでした。

D+18

 第3海兵師団がクッシュマンズ・ポケット、第4海兵師団は肉挽き器、そして第5海兵師団もそれらに匹敵する"峡谷"と呼ぶ激戦地へ入っていきました。

 各師団とも極度の消耗状態に陥っていましたが、日本軍はそれ以上の損耗を受けていました。それでも、なお各地の抵抗は激しく、この日の戦果は前夜から早朝にかけての夜襲で主力部隊が壊滅した肉挽き器を除けば全く進展がありませんでした。

 しかし、この日、エル・ドラドで作戦指揮を執っていたケリー・ターナー中将は艦隊のほとんどを引き連れて硫黄島を後にし、グアムへと向かいました。海軍の役割はほとんど終わり、今度は17日後のアイスバーグ作戦への参加が決定していました。

 ターナー提督は、硫黄島の海兵隊員どころか、スミス中将にも別れの言葉をかけずに出発し、後任はハリー・ヒル少将となります。もっとも、既に二人ともやることはなくなっていましたが。

 硫黄島沖合にはソルトレークシティ、タスカルーサの巡洋艦二隻と駆逐艦数隻が残り、エンタープライズも護衛空母6隻と共に沖縄へと去っていきました。

 以降、航空支援は陸軍航空隊のP-51が行うこととなり、彼らは航空支援任務は初めてだったものの精力的に務めていきます。

 また陸軍第147歩兵連隊2,000名も上陸し、作戦終了後の硫黄島の守備と掃討作戦を開始する準備を始めています。

 そして。

  この日の夜。月が煌々と光る硫黄島の上空8,000メートルをマリアナから飛び立ったB-29爆撃機325機が全長約100キロの編隊を組んで、これまで受けていたような妨害を受けることなく通過していきました。

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