デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日
洞窟へ火炎放射攻撃を行う火炎放射器チーム
D+13 3月4日 価値
日曜日、D-dayから二週間が経過。
肉挽き器の防衛陣地の中核だった382高地の陥落を初めとして、日本軍の主要な防衛陣地のほとんどを海兵隊は制圧することに成功していましたが、上陸してからの2週間に及ぶ戦闘で、第3、第4、第5の全ての師団が、その戦闘の右翼を半分近くにまで落ち込ませていました。
VACは、0730に攻撃を開始することを決めましたが、硫黄島は低い雲に覆われ、雨が降っていたために艦載機の出撃と偵察機の飛行は中止され、艦砲射撃も誤射の可能性からほとんど行われませんでした。
それでも決行された地上攻撃に先立つこと三時間前。サイパンとグアムの飛行場から、73機のB-29スーパーフォートレスが離陸していくと硫黄島上空を越えて東京へ対する爆撃行へと向かっていました。
第3海兵師団
島の中央部で、夜間、第9連隊と第21連隊の継ぎ目を狙って小規模な日本軍の攻撃が起こりました。この反撃を退けることで夜の大半を費やし、両連隊は激しい接近戦で多数の死傷者を受けただけでなく、師団予備まで消耗させて終わります。
0730、硫黄島を横切る前線の中心部での攻撃開始を命じられたもののスコールに見舞われて前進開始ができたのは正午前のことでした。
第2大隊と第3大隊が攻撃部隊となり、元山村を抜け、島北端の海岸を見下ろすことが可能な最後の高地を抜け、消耗しきり、ずぶ濡れになった海兵隊員たちは重い足取りで前進していきます。
彼らの進んだ硫黄のガスの立ちこめる谷間の視界は50メートルも無く、ここに潜む日本軍からの攻撃に耐えながら、風が吹いて数分間だけでも視界が良くなると前進し、そして雨に打たれ、日本軍の抵抗で停止しました。
1700、両大隊とも僅か90メートルを前進したところで、停止命令が出ました。
夕闇の直前に雨雲の隙間から夕日が顔を除かせ、虹が北東の空にかかりました。
「ちょっとした休息、交替要員、そして好天を一日でも与えてくれれば、我々は波と戯れることができるのに…」と司令部から、この夕日を眺めたアースカイン少将は呟きました。「多分、その時は、我々がこのくそったれな島を引き払って、陸軍に任せることを検討し始めた頃だろう」
第4海兵師団
爆撃の方は悪天候で中止となったものの戦車、ロケット弾と迫撃砲部隊の支援を代わりに受けて、第23連隊と第24連隊は0730に掃討作戦を開始。
ターキーノブと円形劇場、そして南地区からは依然として激しい攻撃が行われ、微々たる戦果しか納められませんでした。
火炎放射戦車やロケット弾部隊が可能な限りの支援を行おうとしましたが、巧妙に隠された日本軍陣地は発見するのさえ難しく、海兵隊員たち自らが陣地に接近し、最終的にはこの日だけで一トン近い爆薬を用いて一つ一つ潰すしかありませんでした。
ただ、逆にその攻撃方法によって、重火器の使用ができなくなり、午後半ばまで前進は無く、1700、ターキーノブと円形劇場に対する15分間の砲撃の後に再び攻撃が始まり、そこで150メートルほど進み、五つの地点を陥落させたところで、戦闘を中止し防衛線を築きました。
戦果はここでも無かったものの、第4師団も第5師団同様に日本軍の攻撃に変化が現れたことに築きました。前日、382高地の砲撃観測所を失ったことで正確な砲撃や迫撃砲による攻撃ができなくなったことで、数も精度も格段に弱まっていました。代わりに接近戦のための銃弾による死傷者の割合が増えていましたが。
ケーツ将軍は、この日に肉挽き器の戦いを終わらせることは無理だと悟りましたが、第4師団が主要防衛線に突入したことで自信も持っていましたが、この八日間の戦闘で、硫黄島守備隊にとっては重要な二つの要衝を陥落させたものの第4海兵師団は既に2,880名の死傷者を生じ、戦闘能力も45%となっていました。
第5海兵師団
西の側面に沿った第5海兵師団は、500名以上の死傷者を被りながら前日に確保した西峰と362B高地に陣取っていました。
そこから北東にある谷と尾根の間で戦闘を開始しましたが、第3師団や第4師団の戦う地形より更に複雑に岩が入り組み、抵抗も激しい場所での戦いとなりました。
ここでも両軍の間隔が接近しているために砲撃も艦砲射撃の支援もできず、シャーマン戦車も狭い通路に巧妙に仕掛けられた地雷に阻まれ、多数の洞窟やバンカーからの銃撃が海兵隊員に浴びせられてきました。
日本軍の陣地を破壊しなければ甚大な死傷者を生じ、その犠牲の割には成果の少ない熾烈な戦闘が続きました。
そして、ローゼンソール氏とともに摺鉢山に登り、二つ目の星条旗が掲揚される映像を撮影したウィリアム・ジェノースト軍曹が戦死しました。再び第28連隊第2大隊に同行していたジェノースト軍曹は、午前中は悪天候で撮影がほどんどできずに過ごしましたが、午後になって雨が更に激しくなると、戦友と共に発見した洞窟へ入り込んだところ、日本軍部隊と鉢合わせし、慌てて逃げようとしたところを撃たれて二人とも戦死。
海兵隊の報道員は、最初の一週間で2名が戦死し、13名が負傷していましたが、この36歳で海兵隊を志願し、サイパンで負傷、海軍十字章、シルバースター章、そしてパープルハート章を受賞したジェノースト軍曹と、もう一人の遺体は回収できず、仕方なく爆破班が火炎放射器で洞窟を焼き払った上で爆薬で封鎖しました。
この日の損失で、第5海兵師団は第26連隊1,644名(50%)、第27連隊1,319名(40%)、そして第28連隊にいたっては大隊長ジョンソン中佐を含む1,952名(60%)となりました。
D+13
D+13の戦闘結果は、「事実上皆無」でした。1700直前、各師団司令部のテレタイプが動き出すと次の指令が打ち込まれました。
「明日、我が軍の総攻撃は行わない。各師団は陣地の一部整備を除き、3月6日の戦闘の再開に備え、休養、修復及び再編成のために一日を利用されたし」
この命令が示すように上陸以来の二週間の戦闘は海兵隊の歴史においても前例のない犠牲を払ったものとなっていました。既に11名の大隊長が戦死或いは負傷したのを初め、約3,000名の戦死者と、13,000名の負傷者という壊滅的な損害を受けていました。
しかし、対する日本軍も同様で、各級指揮官の三分の二が戦死し、砲も戦車もほとんどが失われ、守備部隊は各地で孤立した戦いを強要されていました。この時点で栗林将軍の把握できた兵力は約4,100名。主要陣地の全てが海兵隊によって奪われていました。
もっとも、本来なら、D+1に達成しているはずでしたが。
ただ、この日の午後、硫黄島の価値と、彼らの勝利を意味する出来事が起こりました。
3月13日は、天候不良で艦載機の離発着は行われず、午後、護衛空母オバーンの通信兵はレシーバーを救難信号を受信するように設定すると、後はクロスワードパズルで当直時間を過ごしていました。
それより前。1130を過ぎた直後、東京上空ではサイパンとグアムを飛び立ったB-29の編隊が爆撃態勢に入りました。最初の編隊の一番機ダイナマイトは今回が三度目の日本本土出撃でしたが、爆弾を投下するまで同機は順調でした。
しかし、爆撃を終えて機首を返したとき、開いた爆弾倉が凍り付いて閉じなくなるトラブルに見舞われました。
爆弾倉が閉じないため、ダイナマイトは速度が出せず、更に強い向かい風を受けて編隊からはぐれ、硫黄島まで20分のところで主翼の燃料タンクの計器が赤信号が点灯したために予備タンクのスイッチを入れました。が、バルブは作動せず。
飛行時間30分。機長のフレッド・マロ中尉は不時着水か、硫黄島への不時着かの選択に迫られました。
オバーンではJ・ウィリアム・ウェルシュ通信兵が、クロスワードパズルを解き終えたとき、無線から、機体が損傷し、燃料も尽きかけていることで救援を求める半ば嘆願のような声を聞きました。
「ゲートポスト、こちら第9ベークケーブル。我々は進路を見失った、現在位置を知らせてくれ」
「第9ベークケーブル、こちらゲートポスト。そちらは何者か? 起きた問題は? 救助は必要か?」
「我々はモンスター、燃料が残り少ない。硫黄の方位を知らせたし。島への着陸は可能か?」
「了解。そちらの位置と滑走路が使用可能かどうかを確認して知らせる」
当直の通信将校バーテリング少佐が暗号表から、それがB-29であることを確認するとオバーンの乗組員に警報を発しました。
摺鉢山東部にいたカタリナ飛行艇が万が一に備えて離陸。
ヒル提督は、すぐさま、硫黄島への輸送機の接近を中断させ、B-29との交信に用いる周波数の使用を禁じました。
「IFFをつけろ。そちらの現在位置は硫黄島北方30マイル。北島が見えるか?」
「見えたぞ! ゲートポスト! 見えた!」
「了解。硫黄島へは28マイル、進路167度。沖合に不時着水するか、それとも滑走路への着陸を試みるか?」
「着陸を希望する」
「了解。君たちのためにブルドーザーで滑走路を片付けておく。しかし、敵の対空砲火と迫撃砲には注意されたし」
10分後、オバーンの艦橋は、この記念すべき出来事を目撃するべく乗組員で溢れかえりました。
「そちらは硫黄が見えるか?」
「こちらからも硫黄が見える」
雲の中から巨大な銀色の爆撃機が姿を現しました。
マロ中尉は滑走路への最終的な進入路を検討しながら、その上空を二度通過。地上では依然として戦闘が続いているのが認められました。
B-29は摺鉢山上空を旋回し、千鳥飛行場へと機体を降ろしていきます。
二回機体は弾み、停止するまでに電話線の柱をなぎ倒し、残り50メートルで機体を停止させると同時に日本軍の攻撃が始まりましたが、機体は無事で数百人の海兵隊員と設営部隊は地上滑走を終えてエンジンを止めたダイナマイトへ喝采を浴びせながら駆け寄りました。
硫黄島に着陸した最初のB-29ダイナマイト
フレッド・マロ中尉と10人の乗員は、
「泊まっていけ」
というありがたい申し出を丁重に断りながら、30分でバルブの修理を済ませて予備タンクを利用できるようにすると、その燃料で銃撃の中を滑走し、海兵隊員の声援を受けながら、ティニアンへと飛び立っていきました。
6週間以内に、4月12日に再び緊急着陸を行ったダイナマイトとともに硫黄島に残ったブラケット軍曹以外の全員が戦死しますが、3月4日と4月12日、硫黄島は彼らを救いました。
延び延びになっていた第2飛行場の修復作業も、ようやく始まり、以降、B-29の緊急着陸場としての役割を十分果たしていくことになります。
前へ |