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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

D+1 2月20日


海岸の段丘に伏せる海兵隊員たち

摺鉢山包囲攻撃(第5海兵師団第28海兵連隊)


摺鉢山周辺の日本軍陣地へ81mm迫撃砲チームが攻撃を行う。

 翌日、2月20日。夜の間、死傷者を出し続けた海兵隊員たちは朝から小雨が降り、南からの風で高さ4メートルの波が海岸に押し寄せた状態で夜明けを迎え、活動を再開しました。

 第28海兵連隊は重要な拠点である南端の休火山―摺鉢山へと矛先を向けました。

 摺鉢山守備隊2,000名は、厚地兼彦大佐に指揮され、機関銃陣地、観測所などをトンネルで繋いでいましたが、これまでの三日間で重火器の多くを失っていました。栗林将軍は、摺鉢山がまもなく孤立することを悟り、10日間、できれば二週間持ち堪えることを望みながら、厚地大佐へ指揮権に半自治を与えました。

 摺鉢山の防衛線は麓にある約70のコンクリート製掩蔽壕。更に登山口から最初の30メートル以内に約50の同様な陣地が設けられ、他に無数の洞窟やたこつぼが海兵隊員を待ち構えていました。

 対する第28海兵連隊の指揮官は元オリンピック選手、そして元第1レイダース連隊長ハリー・B"ハリー・ザ・ホース"・リヴァセッジ大佐。第28連隊は、前日、摺鉢山を孤立化させるために約400名の死傷者を出していました。

 第1大隊が予備、第2大隊が左翼、第3大隊が右翼に配置され、第13海兵連隊の105mm砲兵中隊が支援のため、直接照準で摺鉢山を狙いました。

 この間、支援を行う予定の第5戦車大隊C中隊の戦車は弾薬と燃料の補給地点を探してさまよっていました。初日には、補給地点は存在せず、整備するために車両を集結させれば、すぐさま、日本軍はあちこちから砲撃を与えて休む間もなく、結局、朝の大半を整備と補給で費やしてしまい、攻撃開始時刻に間に合いませんでした。

 0830。予定された戦車部隊が到達しないまま連隊は攻撃を開始。すぐに彼らは105mm榴弾砲の砲撃が日本軍の掩蔽壕に何ら損害を与えていないことに気付かされました。前進開始直後から、機関銃と迫撃砲弾が浴びせられる中を海兵隊員たちは進み、午前中かけて50-70ヤード前進。

 1100に、ようやく第5戦車大隊C中隊が到着。しかし、日本軍は戦場に散乱した岩の影に潜んで待ち構え、シャーマン戦車を撃破し、これにより前進は更に遅くなり、奇襲を受けて予備部隊の第1大隊が白兵戦を行うはめになりながらも、この日、火炎放射器で焼き払い、爆薬で吹き飛ばしながら、40の拠点を突破しました。が、日本軍はそれ以上の前進を許さず、200ヤード進んだ1700に停止命令が出されました。この日の第28連隊の損害は死傷者162名(内29名戦死)であり、ほぼ一ヤードに付き、一人が死傷していることになります。

第1飛行場(第4海兵師団第23、第24海兵連隊/第5海兵師団第26海兵連隊)

 第28海兵連隊が摺鉢山を包囲攻略しようとしている頃、海岸で残骸の撤去作業が懸命に行われている頃、第4海兵師団では、第1飛行場へ向けての攻撃を開始しようとしていましたが、0715に第25連隊第2大隊司令部に日本軍の迫撃砲弾が着弾。大隊長ルイス・ハドソン中佐、副大隊長ウィリアム・ケンバー少佐、作戦参謀ドナルド・エリス少佐が重傷を負って後送され、ジェームズ・タウル少佐が指揮を引き継ぎます。

 0830、第23海兵連隊が戦車の支援を受けて攻撃を開始。損害を重ねながらも、どうにか800ヤードの前進と、滑走路の確保に成功しました。

 同様に第24連隊第1大隊の増強を受けた第25連隊も攻撃を開始しますが、1100、今度は第25海兵連隊第1大隊司令部に砲弾が命中。6名戦死、7名が重軽傷を負う事態となりますが、このとき、大隊長ホリス・マスティン中佐は前線に出ていたために一日だけ生き長らえることができました。

 第24連隊と第25連隊の隊員たちは、日本軍の攻撃から身を守る術のない採石場を進み、何重にも重なった掩蔽壕の一つ一つで損害を受けながら、前進を続け、崖に沿ってどうにか日が暮れるまでに突破することに成功しました。

 隣の戦線で滑走路へ向かって進んでいた第5海兵師団(1/26及び3/27)も、日本軍の対空砲によるゼロ距離射撃を浴びて多数の死傷者を生じるのですが、午後には北部と摺鉢山を繋ぐ通信線を工兵隊が発見して、これを切断、また滑走路への到達も成功しました。この間に第26海兵連隊第1大隊C中隊長で元パラ・マリーンのロバート・H・ダンラップ大尉は、日本軍の銃撃が浴びせられる中、単独で前進して配置を確認して引き返すと、銃撃に身をさらしながら部下を導き続けました。大尉は2月26日に腰に銃弾を受けて後送されますが、この20日と21日の活躍は大尉に名誉勲章をもたらしました。

 また、第1大隊にいた一人の脱走兵ジャクリーン・ルーカス二等兵は、三人の仲間と前進を続けているときに待ち伏せを受け、目の前に転がってきた手榴弾に覆い被さり、更にもう一つをつかみとって抱え込みました。吹き飛ばされた彼を誰もが死んだと思いましたが、翌年、ルーカス二等兵は自らの手でトルーマン大統領から名誉勲章を受け取っています。
※ルーカス二等兵は、2006年8月現在も存命中です。

海岸地帯

 D+1の朝、明るくなるに連れ、硫黄島の荒波と日本軍の弾幕によって上陸地点の混沌とした光景がはっきりし始めました。

「言葉で言い表せない破壊だった。二マイルに渡って残骸に覆われた海岸に、上陸舟艇がまだ入れる場所は、ほんの僅かだった。数十隻の上陸用舟艇の破壊された船体が、私たちが、我々の兵士たちを上陸させるために支払わなければならなかった価値を表していた。戦車とハーフトラックが粗い砂にはまりこんで損なわれ、横たわっていた。地雷と精密な砲弾の犠牲者の水陸両用トラックは、それらの背後に倒れて横たわっていた。クレーンは貨物を下ろすために陸揚げされたが、異常な角度で傾き、そしてブルドーザーは彼ら自身の道路上で打ち壊された」一人の失望した目撃者の言葉

 上陸二日目、天候は悪化し、強風によって荒れた海によって陸揚げ作業の危険は更に増大していきました。第14海兵連隊第4大隊長カール・A・ヤングデール中佐に至っては、105mm砲を搭載したDUKWが、喫水を浅くするために燃料を減らしたことで8台がエンストを起こして浸水して沈み、更に2門が磯波を受けたDUKWから転げ落ちて海底へ沈んでいくのを眺めるはめになりました。

 それでも、何とか2門の陸揚げには成功し、ヤングデール中佐がそれらを射撃地点へ移動させる一方で、シュミット将軍も軍団砲兵の155mm榴弾砲一個中隊を橋頭堡に揚陸させました。こちらは無事に陸地に到着したのはいいのですが、やはり、砂浜で埋没し、数時間掛けてトラクターで段丘を越えて引っ張り上げなければなりませんでした。

 結局、両者が砲撃を開始したのは夕暮れのこととなりましたが、それでも、歩兵たちにとってはありがたい支援でした。

 また、シュミット将軍は、軍団予備の第21海兵連隊の投入を決めました。二日目に予備兵力の投入という事実は、一部で動揺も産みましたが、それ以前に海上はLVTや上陸用舟艇に乗り込むには、あまりにも荒れていました。何人かが貨物ネットから乗り込もうとした際に海へと落ち、乗船も数時間を要し、いざ出発してからは上陸命令を待ちながら、荒波に揉まれるヒギンズボートで6時間待たされ、結局、上陸するには海上が荒れすぎていることと、海岸に余裕が無いことから第21連隊はそのまま船へと引き返すこととなります。

 この日は、LCTやLSMといった大型舟艇でさえ、接岸するのが難しい状況でした。錨を降ろせば、海底の柔らかい砂に引き摺られて沈みかけ、シーアンカーも役に立たず。

 仕方なくブルーとイエローを閉鎖しておき、その間に、これまで水陸両用作戦に用いる機材として装甲ブルドーザーや仮設道路や臨時滑走路に用いるために折り畳み式マーストンマットを開発実験してきたヒル提督が、それらを用いて補給物資を運搬する道の構築と、そして1944年6月にノルマンディの海岸で成功を収めたマルベリー港を構築させるためにシービーズこと海軍建設大隊(NCB)に作業を命じました。

 が、結果的には自然の勝利となり、繋ぎ止めた金属板の鎖は引きちぎれ、作業員の何人かは重傷を負うか、危うく命を落としかけ、漂い始めた金属板は航行する水陸両用車や上陸用舟艇の行く手を遮り、何枚かは海岸に打ち上げて貴重な空間を埋めてしまいました。

  それでも、揚陸作業は継続され、DUKWはどうにか105mm榴弾砲の輸送を達成し、LVTは海岸から上陸すると弾薬その他の補給物資を乗せて海岸から前線へと向かっていきました。

 1800にブルーとイエローは再び解放されますが、悪天候により、2130に再び閉鎖。残るレッドで24時間の揚陸作業が続けられました。

  夕闇が迫ってからは、これらの車両はLSTに収容をたびたび拒絶され、作戦中、水陸両用車大隊は、硫黄島で148輛のLVTを失いますが、20%が日本軍の砲撃と地雷で、34輛が硫黄島の荒波、そして88輛が収容を拒否されたことで燃料を使い果たし、夜の海へ沈んでいきました。負傷した海兵隊員たちを道連れに。

 海岸に上陸した戦車、ハーフトラック、そして装甲ブルドーザーは、そこで覚悟を決めて進まなければなりませんでした。海岸には避けて進むことが不可能なほど多くの海兵隊員たちの死体が横たわっていたためです。

 次に彼らは地雷原と遭遇しました。対戦車地雷の中には、200キロ爆弾、爆雷、そして魚雷が併用されており、また硫黄島の火山性の地面は磁気を含み、地雷探知機は役に立たない状態でした。何輛かが文字通り吹き飛び、海兵隊員たちは銃剣と棒で銃砲弾の飛び交う中で地雷を掘り出さなければなりませんでした。

D+1

 各前線では、全てが上手くいきませんでした。

 採石場を崖に沿って突破し、休息に入った1/24は、味方の爆撃を受け、11名が死傷。更にとどめとばかりに間違った座標を伝えられた艦砲射撃で90名以上を失って、この日の戦いを締めくくらなければなりませんでした。

 摺鉢山は、完全に孤立化したものの完全包囲には至らず、滑走路も末端を確保したに過ぎませんでした。

 海岸は、死体と残骸が散乱し、海上ではポンツーンの残骸が漂い、何隻かの上陸用舟艇が、これに衝突して船体に穴を開け、上陸した車両は地雷原と日本軍の巧妙な待ち伏せで損害を与えられ続けていました。

 それでも、この日、硫黄島に海兵隊は、初めて郵便局を開設して、郵便物の取り扱いを初め、海上には病院船サンタマリアが到着し、負傷した兵士たちの治療を開始していました。

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