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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

D+8 2月27日

火炎放射器手
前進する火炎放射器手。肉薄する彼らは当然損害も大きかった。

第3海兵師団

 0800、第9連隊の第1大隊と第2大隊がピーター高地とオーボエ高地への攻撃を開始しました。

  エバンス少佐の第3戦車大隊二個中隊が火炎放射戦車を先頭にしたくさび陣形で前進を開始。ケリー・ランドール中佐の第1大隊も、戦車部隊と支援砲撃の合間を縫って反撃してくる日本軍の猛射を受けながら、ピーター高地を登り、11時前に一個小隊が頂上に到達。

 直後から、周辺の防御陣地やオーボエ高地からの猛射を受けて釘付けにされた上に孤立化し、救援が駆けつけるまで堪え忍びながらの二時間をたこつぼの中で待ちました。

 1240に榴弾砲24門による十分間の砲撃が始まり、1250、第1大隊はピーター高地を一気に駆け上って席捲すると、その勢いで反対斜面へと雪崩れ込んだだけでなく、オーボエ高地の麓へ達してからもなおも続いて、山頂に到達することに成功しました。

 左翼のクッシュマン中佐の第2大隊も第1大隊とともに突き進み、アーカンソー出身のウィルソン・D・ワトソン一等兵は、一直線に突っ走り、途中、日本軍の地下壕の一つを開口部から銃弾を撃ち込み、手榴弾を投げ込んで沈黙させ、別な地下壕を発見すると、再び飛び出すと同じ方法で、そこも沈黙させました。

 10分後、気がつけばオーボエ高地の頂上に立っているのは彼ともう一人の海兵隊員だけで、他の部隊は手榴弾と機関銃で前進を阻まれている最中でした。

 それから、30分間、残りの弾薬16発という状態になるまで、そこを死守し続け、部隊と合流してからも、彼は再び突撃を開始して、更に二つの塹壕を破壊したときに迫撃砲弾で負傷。それでも、大尉の命令で後退させられるまで激戦の渦中に身を置き、手当を受けるために後方へ戻った48時間後、再びワトソン二等兵の姿は前線に現れていました。

 これらの奮闘により、グアムへ無事帰還したワトソン二等兵には名誉勲章が与えられることになります。

 こうした奮戦によって、第3海兵師団は三日間の戦闘で、ついに第2飛行場の確保にも成功しました。

 その一方で予備部隊だった第21連隊の第2大隊長で膝を銃弾で撃ち抜かれて負傷しながらも戦っていたロウウェル・E・イングリッシュ中佐は、上陸時に1,200名いた部下も、300名以下にまで減少している状況で、すぐさま、前線へ戻って間隙を塞ぐように命令が出されました。イングリッシュ中佐は不可能だと拒絶したところ、アースカイン将軍は連隊長を通じて非難してきたために、中佐は、

「その野郎に、そこへ行くと伝えろ、ただ私の部下は私の半マイル後ろにまだいるが、私は撃たれて膝を貫かれたぞ」

 と言い返した後、前線へと戻ったように相変わらず後方とは言え、安全とは言えず、また兵力不足も次第に顕著になりつつありました。

第4海兵師団

 第4師団は、正面に立ちふさがる382高地こと、肉挽き器への攻勢を45分の準備砲撃後の0800に五個大隊が前進を開始。

 準備砲撃では、VACの軍団砲兵が155mm榴弾砲で300発を撃ち込んでいましたが、その破壊力に希望を抱く者もすでにいなくなっていました。

 案の定、前進する彼らは、前日以上の猛反撃を受けることになります。ウェンシンガー大佐の第23連隊の第1大隊(ルイス・ブリザード中佐)が高地の左へ迂回して北東から、第23大隊(ジェームズ・スケールズ少佐)が南西斜面から攻撃を行おうと試みましたが、第3大隊の方は高地から丸見えでした。

 このため、第3大隊は尾根からの戦車を含む日本軍の砲撃を浴びせられ、何度も肉薄しますが、戦車が前線に到達できずに支援を受けることのできない彼らはその都度撃退されました。

 午後に装甲ブルドーザーで進撃路を切り開くとバズーカチームが強襲を仕掛け、進撃を邪魔していた二輌の戦車を破壊に成功。

 工兵隊が経路を切り開いたことによって戦車も到着し、一個小隊が山頂への到達に成功。御多分に洩れず、彼らは孤立化しますが、破壊されたレーダー塔と建物の瓦礫の中で白兵戦を繰り広げながら、今度は逆に行くたびも日本軍の攻撃を白兵戦によって撃退し続け、二時間を持ちこたえますが、ついに弾薬が尽き、撤退を余儀なくされました。

 第3大隊が死闘を繰り広げている間に第1大隊は周辺地帯の掃討を開始しましたが、やはり、激しい抵抗に遭遇。それでも1400までには高地を包囲しますが、伸びきった戦線を支えきれずに、やはり、後退せざるを得ませんでした。

 第25連隊も、第23連隊と同様の戦術で、ターキーノブで戦っていました。午後も半ばには、ミー少佐の第1大隊が南東方面から高地のふもとを半周ほど取り囲んでいましたが、戦車を先頭に立てた突撃も、起伏の多い地形と、そこに潜む対戦車砲に阻まれて退却。

 その後、榴弾砲を持ち込んで85発を発射し、士気の高揚に大いに貢献しましたが、そのおかげで日本軍の砲撃は更に猛烈なものになってしまったとミー少佐は述懐することになります。

 戦艦の38センチ砲にも持ちこたえた要塞に75mm榴弾砲が効果を示せる訳もなく、またメートル単位で死傷者を積み重ねる前進を続けなければならず、ミー少佐の第1大隊と合流しようとしたジェームズ・トール中佐の第2大隊は高地からは完全に露出した場所で5時間の苦闘で100メートルほどを前進しますが、そこで後退を余儀なくされました。

 丘を登る第3大隊は、更にひどい状況でほどんど前進できず、応援に駆け付けた戦車も逆に身動きがとれず、こちらも撃退されています。

 この間、第25連隊長ラニガン大佐は、突破口を見いだそうと自らを382高地の正面攻撃のまっただ中において現地視察をしていたために攻撃中止命令を伝えようとしたケーツ少将が大佐を捕まえられずに一時間近く心配させています。

 この日の第4師団の損失は792名。上陸から作戦が終了するまでの間、海兵隊が一日で受けたい最大の損害となっています。

第5海兵師団

 0800に準備砲撃の後に第5師団も前進を開始。362A高地(田原坂)へ向かうのは、これまでの戦いで疲弊した第26連隊に代わり、トム・ウォーナム大佐率いる第27海兵連隊。

 第27連隊第1大隊ジョン・バトラー中佐が中央、ジョン・アントネリ少佐の第2大隊が西海岸側の左翼。ドン・ロバートソン中佐の第3大隊が右翼。そして、予備に第26連隊第1大隊。

 最初の90分間は順調で抵抗も散発的なものでした。1130までに部隊は362A高地のふもと田原坂まで200メートルの地点にまで到達しました。

 順調だった進撃はそこで止まりました。

 第1大隊は、強烈な掩蔽壕群に遭遇。戦車の支援を要請しますが、現れたのは戦車ではなく、75mm砲搭載のM3ハーフトラックで、掩蔽壕一つの破壊に成功した物の機関銃弾の斉射を浴びて退却。37mm対戦車砲小隊も接近に失敗。火炎放射器を背負った海兵隊員と爆破チームの肉薄が、いつものように唯一の前進手段となりました。

 午後、左翼のC中隊が強力な防衛陣地に遭遇。再び戦車の支援が要請されますが、到着したのは二時間半後で、しかもシャーマン戦車と火炎放射戦車は駆け付けた直後に一輌が迫撃砲弾の直撃で戦闘不能。それでも、残った戦車部隊が埋め込まれた日本軍97式中戦車を含めた防衛陣の破壊に成功。更に180メートルを前進して、1900過ぎに停止しました。

 第3大隊は右翼の第3海兵師団との連絡が取れず、隊列に生じた隙間を埋めるために攻撃を中止。二時間後に攻撃を再開しますが、そのまま偽装された防衛陣地と地雷原へと踏み込んでしまいました。

 どうにか第3海兵師団との合流を果たした第3大隊は再び戦線を押しだし、G中隊の一個小隊30名が果敢に突撃して尾根へと駆け上りましたが、三方面からの攻撃を受けて後退。しかし、このままの後退は被害を大きくするだけと判断したウィリアム・G・ウォルシュ一等軍曹は、部下に武器を点検させると逆に反撃に打って出ました。

 二度目の突撃で頂上に到達できたのは僅かに6名ほど。そのとき、手榴弾が投げ込まれ、彼らの伏せる砲弾痕へ転がり込みました。ウォルシュ一等軍曹は躊躇うことなく手榴弾の上へと覆い被さり、そして戦死しました。

 救援部隊が到着する二時間を、彼の部下たちは孤独な戦いを続け、戦線が突撃地点から500メートルのあたりで安定したときには薄暮れが訪れていました。ウォルシュ一等軍曹の遺体は夜間に後方へと運ばれ、第5海兵師団墓地に埋葬され、そしてウォルシュ一等軍曹には名誉勲章の栄誉が授けられました。

 第1大隊と第3大隊同様、第2大隊も狙撃兵の潜む地雷原へと踏み込んで前進に失敗したものの、第5海兵師団は460メートルの前進に成功しました。

D+8

 第25連隊の隊員三名が、洞穴の一つをのぞき込んだとき、そこに一人の日本兵が寝ているのを発見しました。銃剣でつつかれて目覚めて飛び起きた日本兵は逃げようとしましたが、手にしていた海兵隊の靴下で作った白旗を振って降伏。以降、海兵隊の降伏勧告に協力することになりますが、これは特異な例で相変わらず各地では、そしてアメリカ軍が既に確保した場所でも日本軍の抵抗は続いていました。

 この日、公式報告で日本軍の戦死者は5,483名と見積もると同時に、これまで14,000名と見積もっていた日本軍兵力を20,000名に修正(特に海軍部隊5,000名を追加)。それでも実際に日本兵の姿を見るのは生死を問わずほとんどありませんでした。

 後方地帯では偵察機の着陸以外にも、航空面では進展がありました。マリアナから飛行してきた輸送機がパラシュートで5トンの医薬品を千鳥飛行場と西海岸へ投下。そして海軍のPBMカタリナ飛行艇もマリアナから飛来して摺鉢山沖200メートルに停泊する補給整備換算席と共に配置につき、硫黄島にB-29が着陸できるようになるまで不時着水した同機乗員の救援に当たることとなります。

 日本軍はと言えば、栗林将軍は既に兵力の把握が不可能になっていましたし、増援部隊の望みもありませんでした。それでも、周囲から突き上げられたのか、取り敢えずなのか、一応、輸送機部隊が派遣されました。しかし、途中でレーダーに捕捉され、三機が撃墜。生き残りは物資の投下に成功しますが、すぐに海兵隊の知るところとなり、物資を確保しようとした日本兵は艦砲射撃などの餌食となるだけでした。そして、これが空中投下の唯一の試みでした。

 連合艦隊の全面支援も行われました。護衛空母アンチオから飛び立った艦載機が硫黄島の西32キロで、イ三六八潜を撃沈。更に翌日、父島西三二キロでロ三四潜を撃沈。駆逐艦フィネガンは、硫黄島南方100キロでイ三七〇潜を撃沈。何れも回天を搭載していたとされています。他の潜水艦は確認されませんでしたが、結局、海軍の全面支援はこれで終わりました。

 島の三分の一を海兵隊は確保し、西海岸沿い道路と内陸部を結ぶ交通路を構築したシービーズは、ついでに発見した温泉を利用した共同シャワーを作り、食堂も構築。以降、西海岸からも物資の揚陸が始まりましたし、東海岸では郵便局も開局しました。海軍野戦病院も西海軍に設置されて、他にも大手術も可能な野戦病院が設けられ始めました。

 それでも、スミス中将の、

「後、二三日で、この島を取るつもりだ」

 と言う言葉は外れるのですが。

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