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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

D+4 2月23日

D-ah a-kha:Ashdla awoh cha Ashi-hi BIn-keh-he,Bi-tsan-dehn:Ah-jad A-woh n-kin n-kin tseedii Dzeh Nakia,taa Has-clish-nih.
Besh-legai-a-la-ic Cha Jeha Dibeh moasi tse-gah gah tkin ah-nah ah-losz klesh Ah-jah Nakia gah tse-nill weh-hes dibeh dzeh be Shi-da Klesh chou ah-jad be-la-sana ah-tad do ye-dzeh-al-tsisi-gi Tsin-tliti a-kha no-da-ih a-chin d-ah Dibeh dzeh bi-so-din ne-zhoni wol-la-chee ah-di neeznaa taa ashdla be-la-sana na-as-tso-si.
第5海兵師団長へ
第3小隊E中隊LT228より
H.G.シュリアー中尉のE中隊は、1035にアメリカ国旗を掲揚し、摺鉢山の安全を確保した。

2月23日、ナヴァホコードトーカーによる摺鉢山の確保と星条旗の掲揚を伝える山頂からの通信

摺鉢山の星条旗

オリジナル星条旗オリジナル星条旗
最初の星条旗掲揚の準備を行うシュリアー中尉たち

 D+4。上陸五日目の2月23日金曜日。

 その日も、寒く雨が降り、海は荒れていましたが、午前に雨は上がり、空には晴れ間が覗き始めていました。

 第28海兵連隊は、早朝に摺鉢山確保の準備を完了。ジョンソン中佐は、54インチ×28インチ(横137.16cm×縦71.12cm)のアメリカ国旗を取り出すと第28海兵連隊第2大隊E中隊第3小隊(増強)を率いていたハロルド・G・シュリアー中尉へ国旗を持たせた伝令を走らせます。シュリアー中尉は、ジョンソン中佐とともにレイダースの一員として戦った旧知の仲であり、花を持たせてやりたいからでした。なお、第28海兵連隊自体、連隊長リヴァセッジ大佐自身が第1強襲連隊長でしたし、その構成員には元レイダース、そしてパラ・マリーンの隊員たちが多く含まれています。

 0800に旗を受け取ったシュリアー中尉と彼の率いる40名のパトロール部隊は登頂を開始しました。摺鉢山の守備隊は、D-2の判断ミスや、その後の爆撃と艦砲射撃、そして海兵隊員たちの火炎放射器と爆薬を用いた攻撃で多数が破壊され、前日までにはほぼ壊滅状態で時たま海兵隊を狙撃してくるものの然したる抵抗を受けることはありませんでした。

 2時間後の1015に部隊は、島の各所から見守られながら、時たま手と膝をついて這いつつ険しい北斜面を用心しながら登った末に山頂に到達。

 シュリアー中尉は星条旗を取り出すと日本軍の集水システムのパイプに結びつけます。

 D-day以来、海兵隊戦闘報道員のカメラマンとして行動していたレザーネックマガジンのルイス・ロワリー二等軍曹が、これらを撮影していきます。

 1025、パイプが持ち上げられ、地面にしっかりと押し込まれました。掲揚者は、ハロルド・G・シュリアー中尉、アーネスト・T・トーマスJr.小隊軍曹、ヘンリー・O・ハンセン三等軍曹、チャールズ・W・リンドバーグ伍長、ルイス・C・シャロ及びジェームズ・マイケルズ両一等兵。


1025、摺鉢山に星条旗が翻った。ロワリー二等軍曹による摺鉢山の星条旗(一枚目)の写真。
左は揚がった直後、右はロワリー二等軍曹がポーズを取らせて撮影。

 星条旗がはためいた瞬間、島の南端で大きな歓声が沸き起こりました。艦船は、彼女たちのサイレンとホイッスルを鳴らし、負傷して横たわっていた者も、その光景を見るために担架の上で身を起こしました。

 この光景を海上から見守っていたフォレスタル海軍長官はホランド・スミス中将へ向け、後に有名となる言葉を発しました。

「あの旗を掲揚することは海兵隊の更なる500年を意味する」

 山頂では、いい的状態なのでさっさと終わらせたい掲揚者たちにロワリー軍曹が指示を出してポーズを取らせていましたが、この撮影直後、それまで沈黙を保っていた日本兵がたこつぼから飛び出し、手榴弾を投げ込み、ロワリー軍曹は火口に転げ落ち、カメラを取り落としますが、本人もカメラも無事でした。

 同じ時、星条旗が翻るのを見ていたジョンソン中佐は、即座に価値を悟りました。

一枚目の旗が降ろされ、二枚目の旗が揚げられる。既に二枚目の旗が揚がっていることに注意。これもロワリー軍曹による写真

一枚目の旗が降ろされ、二枚目の旗が揚げられる。既に二枚目の旗が揚がっていることに注意。これもロワリー軍曹による写真

「あの旗を欲しい奴がいるだろうな。だが、あの旗を渡すことはできない。あれは俺たちの旗だ。別の旗を捜して、あそこに立て俺たちの旗は持ち帰った方がいいだろう」

 フォレスタル長官も旗を欲したとされますが、何より、あれは第28海兵連隊の旗であり、海兵隊の旗でした。ジョンソン中佐は、回収を命じ、代わりの旗がいるだろうということで伍長が代わりの旗を探しに走りました。伍長は、海岸上陸地点にいたLST-799が星条旗を持っていることを知り、アラン・S・ウッド少尉に、星条旗が必要にすることを七分かけて、どうにか説明し、舌足らずの伍長の説明がやっと分かったウッド少尉は、96インチ×56インチの更に大きな旗を手渡しました。

 同じ頃、星条旗を見上げていた一人にAP通信カメラマンのジョー・ローゼンソールがいました。開戦後、志願したものの視力が規定に達しなかったために従軍できなかった氏は従軍カメラマンとして戦場に同行していました。ローゼンソール氏は摺鉢山に登らないかと誘われ、何か撮影する物があるだろうと同行を決意。映像担当のウィリアム・ゲーノスト軍曹と部隊付カメラマンのロバート・キャンベル一等兵とともに頂上へと向かいました。

 一行が山頂に到着したとき、ちょうど二枚目の国旗を掲揚するためにマイク・ストランク軍曹やハーロン・ブロック伍長が準備をしている最中でした。アイラ・ヘイズ一等兵とフランクリン・サウスリー一等兵が手を貸し、もう一人、部隊の海軍衛生官ジョン・ブラッドリー二等兵曹が声を掛けられて手を差し伸べ、伝令として山頂に来ていたレーン・ギャグノン一等兵も手伝うために旗竿をつかみました。

 ローゼンソール氏、ゲーノスト軍曹とキャンベル一等兵の三人は急いでカメラの準備をしました。ローゼンソール氏は、二人の側にあった石に乗り、絞りF8-12、シャッター速度1/400秒に設定したカメラを構えました。

 ブロック伍長が旗竿のパイプを地面に押し込み、他の五人が国旗を持ち上げます。

 ローゼンソール氏が、何枚かシャッターを切った瞬間、海兵隊の新たな伝説が刻まれました。

 自分の写真がどんなものかも、後に様々な波紋を産むことになることも知る由も無いローゼンソール氏は、その後、シュリアー中尉の部隊を摺鉢山山頂で翻る二枚目の星条旗の元に集合させた写真"ガンホー"を撮り、山頂を後にします。

摺鉢山の星条旗
ローゼンソール氏による摺鉢山の星条旗(二枚目)

 ローゼンソール氏は、フィルムを発送しますが、硫黄島の戦いではこれまでとは段違いに報道の伝達事情が発達していました。ロワリー二等軍曹の写真が硫黄島を離れるよりも速くローゼンソール氏のフィルムは、本社へと到着し、現像に回されました。編集長は、その中の一枚を見た瞬間、震えました。報道写真としては、なっていない写真で、6人が誰かすらはっきりしない状態でしたが、戦争写真の最高傑作がそこにありました。
※この写真を、未だ硫黄島にいるローゼンソール氏と話した際、編集部は"摺鉢山の星条旗"のことを質問したのですが、次に撮った集合写真のことだと思った氏は、「ポーズを取らせた」と説明してしまい、これが後々の"やらせ"疑惑の根拠となっています。

 象徴的な星条旗の掲揚は別として、第14海兵連隊は砲弾観測装備を急いで運び上げ始め、工兵は頂上までの登山道の構築を開始しました。

 第28海兵連隊は、500名以上(D-dayの400名含む)の兵力を犠牲にしながら、三日で摺鉢山を確保しました。連隊長リヴァセッジ大佐は、彼の連隊を反対方向―北方へと移動させ始めました。本当の激戦は、これからでしたが、摺鉢山を確保したことは、背後の驚異が無くなったことを意味し、また今後は海兵隊が日本軍を見下ろす形で戦いを進められることを意味していました。

「あれを見ろ!」

 と部下が叫ぶのを聞いて最初の旗が掲揚された瞬間を目撃した第26海兵連隊第2大隊D中隊長トーマス・M・フィールズ大尉の言葉がそれを物語っています。

「ジャップどもが、もう背後から私たちを撃ち下ろしてこないことを神に感謝する」
※この第2大隊の指揮官ジョセフ・P・セイヤーズ中佐は、同日、負傷により後送されています。

 デタッチメント作戦の第1段階は、ここに完了しますが、血塗れのキャンペーンは、まだ一ヶ月を残していました。

ガンホー
ローゼンソール氏の撮影した集合写真"ガン・ホー"

 左から、アイラ・ヘイズ、不詳、ハロルド・シュリアー、フランクリー・サウスリー(後列)、マイク・ストランク(前列)、ジョン・ブラッドリー(ストランク軍曹の影にいる人物)、クラレンス・ギャレット、グレイディ・ダイス、ハワード・シュナイダー、ハンク・ハンセン、フィル・ウォード、フレッド・ウォールスカク、ハロルド・シュルツ、ハロルト・ケラー、トム・ハーマネック、ゲリー・スミス、マイク・ラーソン

第1飛行場及び海岸地帯

 摺鉢山が上陸開始から五日で陥落したことは、栗林将軍にとっては大きな痛手でした(将軍自身は10日間持ち堪えることを期待していた)。硫黄島で最も高い場所を海兵隊が抑えたことは、以降の戦局を海兵隊側に有利に働いていくことになりますが、それでも、八個歩兵大隊、一個戦車連隊、二個砲兵隊、三個重迫撃砲大隊に、5,000名の機関銃手と市丸利之助海軍少将率いる海軍歩兵部隊が健在でした。

 街道長作大佐は元山台地―海兵隊側呼称"ターキーノブ"―の東側中央部の岬で彼の堅固なコンクリート要塞から砲兵隊の責任者として従事し、歴戦の千田貞末少将は第4海兵師団との25日間に渡る死闘を第2独立混成旅団を率いて戦うことになります。

 VACの前進は、十分に武装し、自信に満ちた日本軍防衛部隊の待ち構える中へ飛び込んでいくことであり、また度々、日本軍は海兵隊の確保した地区の奪還、或いは攻撃を混乱させるための―自殺的なものではなく十分な砲撃の後に行われる用意周到な反撃を行いました。

 最初の週で海兵隊は、地理に熟知した日本軍の15センチ榴弾砲と12センチ迫撃砲の砲撃と偽装された二連装高射砲と47mm対戦車砲の攻撃に苦しめられました。

「ジャップどもはそうしたでかい銃で狙い撃ちにすることができた」

 とドン・J・ロバートソン退役中将は後に回想したように、戦闘の最初の三週間における死傷者の大半は高性能爆薬(迫撃砲、野砲、地雷、手榴弾、そしてロケット弾)によるもので、この戦いした。

「彼らは全員可能な限りの暴力で殺された。太平洋戦争のいかなる場所でも、私は、未だ、このようにひどくずたずたにされた死体を見ることはなかった。(アメリカ兵も日本兵も)大半が真っ二つにされていた」時事通信記者ロバート・シャーロッド

 硫黄島場には安全な"後方地帯"は存在せず、日本軍は元山台地の至る所から、海岸や空港へ砲弾を撃ち込み、夜間はそれらに加えて日本軍の浸透攻撃に対処するため、前線から戻ってきた海兵隊員たちは、ヘルメットに満たした水を浴びて、たこつぼを掘って眠りにつく前に武器を直し、弾薬を運ぶことで貴重な時間を費やさなければなりませんでした。

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