デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日
D+10 3月1日 掲揚者たちの死
日本軍陣地へ向けて突撃する第28連隊第3大隊
3月1日の夜。日中の激戦はどこへやら、第5師団のいる前線は奇妙に静まり返っていました。あまりにも静かなので、軍用犬のシェパードやドーベルマンが寝ないようにするのに歩哨任務に就いた隊員たちは駆け回らせなければならないほどに。
しかし、その静けさも午前2時過ぎに終わりを遂げました。最初は狙いもいい加減に思われた日本軍の砲撃が、次第に千鳥飛行場西端―補給品や弾薬の貯蔵庫、砲台、トラックやジープなどの車両が並び、数千の海兵隊員がたこつぼで眠り一帯に降り注ぎ始め、0215に、その内の一発が第5海兵師団の弾薬庫に命中して爆発炎上。0238に、これを空襲と勘違いして空襲警報が発令され、弾薬庫の黄燐爆弾の爆発はガス攻撃と勘違いしてガス警報まで出されました(これは十分後に解除)。
第5海兵師団の工兵たちは、火災現場に駆けつけると弾薬庫へと突っ込み、爆発していない弾薬類を運び出す作業を開始する傍ら、第13海兵連隊(砲兵)の司令部部隊要員が消火に努めます。が、ほとんど鎮火したと思われた0500頃に105mm榴弾砲の砲弾が誘爆し、一発が砲兵指揮所に落下。不発でしたが、通信線を切断。また電話線集積所も炎上し、こちらは完全に破壊。これにより、全島の105mm榴弾砲が操作不能。更に貯蔵量の20%以上を失った第5師団は24時間に渡って弾薬不足に悩まされることになります。
0700頃に工兵がブルドーザーで現場に砂をかける決死の消火活動で、ようやく火災は鎮火しました。幸い、死者は出ませんでした。
18時間に及ぶ手術で疲れ果てた第5師団の軍医E・グラハム・エバンス中尉は、翌朝、自分のテントが砲弾の破片でズタズタになり、いたるところに弾薬や砲弾が散らばる光景にもかかわらず、死者が出なかったことでたこつぼの偉大さを知るのですが、当の本人は、何が起ころうと起きない決意を貫き通し、そのズタズタになったテントの中で眠り続けていました。
※弾薬庫が爆発したことで発せられた空襲警報でしたが、0245に本当に日本軍機が駆逐艦テリーに魚雷を発射。テリーは速度を上げて、これをかわしますが、逃げた先が日本軍の海岸砲台の射程内であっという間に死者11名、負傷者19名を出し、硫黄島から真珠湾へとエンジン一つで帰還する羽目になりました。
第3海兵師団
夜明け一時間前に起床したアースカイン少将は、ヒギンズボートに乗り込むと沖合3.2キロに停泊しているオバーンへ向かいました。前日、却下された第3連隊の投入を司令官スミス中将と直接話し合うためでした。
アースカイン将軍は、自分の第3師団が、第4や第5師団と違って二個歩兵連隊しかいない反面、担当地域が両師団より広大であることを理由に第3連隊の必要性を説きました。
しかし、VAC司令官シュミット少将の指示があったにもかかわらず、この点ではスミス中将も、仲が悪いことで知られるターナー中将(その割にタラワ以来のコンビ)も意見が一致していました。前線に一個連隊を従事させる余裕がないというものでした。
※ロバート・ニューカム氏は、「一カ所存在していた、その混み合っていない場所は前線だった」と記しています。
アースカイン将軍は、長年の付き合い―タラワ以降、スミス将軍の参謀長を務めていた―から、勝てるとは思っていませんでしたが、それでも自分の意見を述べて激論を交わしますが、結局、自前の部隊で当分の間、行動するように命じられ、スミス中将は怒る少将をなだめようとしましたが、怒りの収まらないアースカイン将軍は無言で上陸用舟艇に飛び乗ると29分後に海岸に到着。
7時頃にケンヨン大佐とウィザーズ大佐に会談の失敗を告げ、二個連隊のままの攻撃を指示しました。
0830に艦砲射撃も空爆もなく、砲兵連隊の15分の砲撃のあと、第21連隊の第2及び第3大隊、そして第9連隊の第3大隊が飛び出しました。目標は元山を抜けての北飛行場の奪取。
この攻撃は、これまでと違ってほとんど抵抗も受けませんでした。正午までに500メートルも前進し、飛行場の大半を第3師団は確保することに成功し、1230に砲兵部隊が砲撃を開始すると戦車部隊も前進を開始、午後半ばまでに更に300メートルを稼ぎます。
しかし、この頃から、抵抗も激しくなり、1600にアースカイン将軍は攻撃中止を命令。第3海兵師団にとって、これまでで最高の成果でしたが、それでも200名近い損失を受けています。
その後、第3師団は362Bと362C高地の麓に塹壕を掘って野営に入りました。
第4海兵師団
0530に、ウォルター・I・ジョーダン大佐の第24連隊が第23連隊と交替。そして、0830に45分の準備砲撃を行い、382高地を奪取するべく、左翼の第24連隊(第1大隊と第3大隊)と右翼の第25連隊が攻撃を開始しました。
既にパターンと化したかのように、日本軍の抵抗の前に、瞬く間に立ち往生しましたが。艦砲射撃、ナパーム弾の投下、155mm榴弾砲の砲撃で三時間後に、これらを沈黙させたものの以前として382高地とターキーノブからの攻撃は健在で、第2大隊のF中隊は150メートル前進して釘付けとなり、G中隊も中腹で同様の状態。
結局、これまでと同様に白兵戦で寸刻みの前進となりました。
午後にG中隊は洞窟の入り口を爆破し、残存拠点を火炎放射器で焼き払い、ついに382高地の頂上に到達。海兵隊員たちが二つの尾根のある山頂の西尾根に塹壕を掘り始めると、日本軍は僅か100メートルほど離れた東尾根に陣地を作り、そこから重機関銃による掃射を浴びせてきました。
ここから日没まで両軍互角の戦闘が繰り広げられ、日本軍(第三一〇大隊)は西尾根を守りきり、海兵隊も東尾根を確保し続けました。この攻防戦を見た第2大隊長ロスウェル中佐はE中隊(ローランド・E・ケリー大尉指揮)に山頂守備を任せ、翌日の計画を立てるために斜面を降りていきました。
第1大隊のトレイテル中佐と第25連隊の方は、382高地の麓とターキーノブの制圧を試みていましたが、こちらはそれほど成功せず、機関銃の掃射と迫撃砲弾の弾幕を浴びせられ、結局、退却を命じられました。この後退が更に激しい攻撃を呼び起こし、負傷兵の収容と戦列の立て直しも煙幕を張ってようやく可能になったほどでした。
第4師団は、死傷者374名。この11日間での損失は5,595名。戦闘能力は55%にまで減少していたものの、やっとの思いで382高地の頂上を確保に成功したことで、ケーツ少将は以降の戦いを有利に進められることを確信していました。
第5海兵師団
摺鉢山の掃討終えて以降、予備となっていた元オリンピック選手で、レイダース連隊長だったリヴァセッジ大佐率いる第28海兵連隊は、初めて北部戦線の戦列に加わりました。
第28連隊は第5師団の先鋒となり、0830に攻撃を開始。ネヴァダ、ペンサコラ、インディアナポリス各艦の艦砲射撃を受ける362A高地(田原坂)へと、第28連隊は摺鉢山攻略の経験を生かしつつ、ジャクソン・バターフィールド中佐の第1大隊と摺鉢山に星条旗を掲揚したチャンドラー・ジョンソン中佐の第2大隊が並んで前進し、チャールズ・シェパード中佐の第3大隊が別の谷間へと登っていきました。
午前中には死傷者も出さずに頂上まで進撃し、高地の包囲にも成功。
待ち構える日本軍は西尾根の新たな陣地へ移動していました。頂上に到達した第28連隊へ向かって、これらの攻撃が一斉に始まり、攻撃続行のために第1大隊と第2大隊は頂上に部隊を残して下山し、362A高地の左右に第1大隊のA中隊とB中隊が左右に分かれて進軍。上陸初日に硫黄島を横断したウィルキンス大尉のA中隊は東端沿いに前進することを決めましたが、僅かしか前進できず、大尉は20名の選抜隊を前進させることを決めます。
やはり、上陸初日、手製のスティンガーを抱えて戦場を縦横無尽に走り回って活躍したトニー・スタイン伍長が志願し、19名の部下を率いて飛び出していきました。生存したのは9名。そして、スタイン伍長の姿はそこにありませんでした。
そして、D-day以来の唯一の生存者していた中隊長ウィルキンス大尉も迫撃砲弾を受けて、三人の隊員たちと共に戦死。
ロバート・ウィルソン大尉のB中隊は反対側からの迂回を試みていましたが、これも挫折しました。30分間の猛射を受けた後、ウィルソン大尉は砲弾の破片で重傷。僅か1時間で二名の中隊長が失われたのでした。
西尾根正面の362A高地西側で戦う第2大隊も状況は大差なく、一メートルの前進ごとに死傷者を積み重ねていきました。
その中には摺鉢山の星条旗を掲揚した者も含まれていました。まず、最初の星条旗を掲揚した一人のリチャード・リンドバーク伍長は腕と胸に貫通銃創を負って倒れ、戦線を離れました。
この数分後にE中隊の先頭に立って部隊を率いていた二番目の旗を掲揚したマイク・ストランク軍曹は他の4人と共に孤立し、孤独な戦いを続けていましたが、部下に自分たちの位置を知らせるために誰かを送ろうとジョー・ロドリゲス伍長に話したところに砲弾が落下。ロドリゲス伍長が気付いたときには、この元レイダース隊員でブーゲンビルを戦ったベテランは戦死していました。
※この砲弾は、日本軍の迫撃砲弾とされています。一方でジェイムズ・ブラッドリー氏は味方の駆逐艦の誤爆と、その著書で述べています。
ストランク軍曹の後を引き継いだのは、やはり、ローゼンソール氏の写真に写るハーロン・ブロック伍長でした。
午後1時過ぎ頃に、最初の星条旗を掲揚したヘンリー・ハンセン軍曹が突然崩れ落ちました。狙撃を受けて倒れたハンセン軍曹を、二番目の旗を掲揚したジョン・ブラッドリー二等兵曹が穴に引きずり込んだところに、日本兵が突撃してきました。これを撃退した後、ハンセン軍曹は息を引き取りました。
そして夕方頃に、今度はハーロン・ブロック伍長も砲弾を受けて吹き飛ばされ戦死。
こうして星条旗を掲揚した者の何名かが死傷した3月1日の日没。第5師団は362A高地の麓を包囲し、頂上を確保することに成功していました。
D+10
この日は、生き残った日本軍の砲兵が、海上の駆逐艦カルホーンとテリーに砲撃を浴びせて死傷者を生じさせるなどの被害は受けており、一度など、カマ岩と監獄岩からの砲撃が弾薬を積んだ輸送船コロンビア・ビクトリーに集中し、それを見ていた全員が肝を冷す場面もありましたが、日本軍も損害は甚大で、砲撃は次第に弱まり、第2飛行場では散発的な狙撃を受けることはあっても、これまでのような砲撃が浴びせられることはなくなっていましたし、栗林将軍も島の中央部を離れ、北の地下司令部へ移動していました。
とはいえ、3月1日までに、各師団は多大な犠牲と、進捗定かではない戦闘を繰り広げてきましたが、やっと硫黄島の半分弱を確保したに過ぎませんでした。
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