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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

D+11 3月2日

BARを撃ち込み、手榴弾を投げ込んで洞窟に潜む日本兵を追い出そうとする海兵隊員
BARを撃ち込み、手榴弾を投げ込んで洞窟に潜む日本兵を追い出そうとする海兵隊員

第3海兵師団

 相変わらず、ターナー中将とスミス中将に、第3海兵連隊の投入を拒絶されているアースカイン少将は苛立っていました。少将自身も、確かに現二個連隊(第9及び第21)でも、防衛線の突破は可能と思っていましたが、無傷の第3海兵連隊の投入によって、より迅速に、そして少ない死傷者で、それが可能になるとも思っていました。

 それでも、命令に従い、0800に362B高地(天山)と東の北飛行場の掃討を開始しました。

 第9連隊第3大隊は戦車を先頭に前進して平野を横切ることに成功。しかし、その後、地下壕と地面に埋め込まれた戦車の砲撃によって進軍は停止。

 362B高地を目指した第21連隊も、直後から日本軍の攻撃によって進軍を阻まれ、攻撃開始から、30分後に先頭を進んでいた第2大隊の大隊長イングリッシュ中佐が迫撃砲弾の破片を受け、負傷。それでも、中佐は前線に止まり続けましたが、1730前に破片が肩を切り裂き、ついに戦線を離脱しなければなりませんでした。

 第2大隊の指揮を引き継いだのは大隊参謀ジョージ・A・パーシー少佐。少佐は47歳と最年長の戦闘指揮官で、元々は株のブローカーとして活躍していましたが、この戦争で自分なりの役割を果たすために海兵隊を志願。普通なら、受け付けられない年齢と太りすぎの体型故に入隊は無理なはずが、主計士官ということで入隊。しかし、本命が戦闘部隊指揮官の少佐は、再三、戦闘任務を志願して上官たちを呆れさせたものの、本人曰く、"元株式ブローカーとしての手腕を発揮して"念願の戦闘部隊への配属を果たしました。そんな少佐は、"ご老体"などと呼ばれていましたが、パーシー少佐は、この後、二度も迫撃砲弾の破片を受けて後送が必要なほどの重傷を負ったにもかかわらず、硫黄島の戦いが終わるまで第2大隊を導き続けることになり、この"戦うブローカー"は周囲の予想を裏切り、戦闘指揮官としての才能も見事に示して見せたのでした。

 けれども、依然として日本軍の抵抗は激しく、前進は容易なものではありませんでした。戦車や砲兵の攻撃支援が三度に渡って行われたものの、日没になっても戦況は変わらず、結局、第9連隊第3大隊の撤退を持って第3海兵師団の、この日の戦いはひとまず終わります。

第4海兵師団

 第4師団は2月25日以来、一週間に渡って"肉挽き器"への攻撃を繰り広げていた第4師団の目標が、ましたが、D+11に、ケイツ少将は作戦を変更し、まず攻撃開始時刻の0800の90分前、0630に第25連隊第1大隊がターキーノブへ夜襲を開始しました。

 最初の20分は順調でした。日本兵がまだ眠っていると思った者もいましたが、実のところは日本軍はミー少佐の第1大隊を待ち伏せするために引き寄せているだけでした。

 0650。周辺の陣地から噴進砲や迫撃砲弾を含めた攻撃が始まり、(今回も)攻撃しに行ったはずが攻撃されまくる事態となりました。この結果、両軍の間隔は僅かで海兵隊は支援砲撃や空爆を受けることもできず、救援に駆け付けようとシャーマン8輌と火炎放射戦車型シャーマン2輌が装甲ブルドーザーを戦闘に前進。迫撃砲や対戦車砲の猛攻に耐えながらの苦闘を繰り広げながらも、どうにか装甲ブルドーザーが切り開いた狭い通路を前進し、臨時編制された機甲部隊は、ターキーノブの麓まで移動し、火炎放射戦車は4,000リットル近い燃料で日本軍陣地を焼き払い、更に200発を超える砲撃が続きました。

 午後遅くになって反対側からターキーノブを登ろうとしていた部隊が50メートルまで間隔を詰めていましたが、こちらの戦線は戦車の支援ができず、1630に撤退命令が下され、ターキーノブの確保はなりませんでした。

 これと平行して第24連隊は382高地へ三個大隊を投入し、東側尾根の防衛陣地を排除しようと攻撃を開始していました。

 第24連隊が進軍を開始した0800。382高地西側尾根を確保したE中隊は一晩中日本軍との激戦を繰り広げ、既に二つの尾根の中間地帯へ進出しようとする日本軍を止める力を失いつつありました。

 この部隊の救援と日本軍を分断するために第24連隊第2大隊が正面から前進を開始。

 援護するのはシャーマン4輌とT45自走ロケット弾発射器。ロケット弾の一斉発射は三度行われ、四度目を行う前に日本軍部隊からの攻撃が始まったために部隊は退却。

 こうした支援を受けて、リチャード・ライヒ少尉の小隊が30分かけて頂上へ到達。右に回ったリドロン大尉のF中隊の二個小隊も後に続き、機関銃弾を浴びる中、山頂に取り付き、ここでE中隊のケリー少佐はライヒ少尉のいる砲弾痕へ滑り込み、リドロン大尉も銃弾を潜り抜けて合流しました。三分間の話し合いの末、一個小隊を二台の戦車と共に送り出すことを決め、部隊を糾合させるためにケリー少佐は斜面を滑り降りていきました。

 しかし、道半ばでケリー少佐の身体を日本軍の機関銃弾が捉えました(その後も攻撃が激しく、担架兵が運ぶことができたのは一時間後)。

 パトリック・ドンラン大尉がE中隊の指揮を引き継ぎましたが、1400に彼も迫撃砲弾で倒れ、その後を引き継いだスタンリー・オズボーン中尉が倒れたドンラン大尉の元へ走ったところに迫撃砲弾が着弾。ドンラン大尉の右足を膝から吹き飛ばし、オズボーン中尉を戦死させました。更に二名の将校が負傷した結果、E中隊を率いることになったのは唯一の将校となってしまったライヒ少尉でした。

 リドロン大尉のF中隊も斜面で釘付けにされたままで、当時25歳の大尉は、

「ろくでなしのニップどもめ、今日を俺の人生で最悪の日にするために最善を尽くしていやがる」

 と20歳の小隊軍曹ジェームズ・ベディングフィールドに毒づきながらも、1450についに前進に成功。リドロン大尉は、ロスウェル中佐に無線通信で、

「ほぼ山頂に到達」

 と伝えたものの、そこから通信は途絶。30分後の1527に、再びウォーキートーキーが鳴り出しました。

「F中隊はレーダー丘の頂上にあり」

 ここに丘は制圧されましたが、占領はまだ完了していませんでした。それでも、頂上へ増援と武器が送り込まれ続けました。西尾根の方でも、僅か10時間で5人目の指揮官となったウィリアム・クレシンク中尉(F中隊所属)がE中隊を率いて薄い戦線を維持していました。夜、照明弾がねじれた鉄骨を闇夜に浮かび上がらせ、海兵隊と日本軍の機銃の応射による曳航弾が闇を切り裂き、榴弾砲や迫撃砲、そして手榴弾の爆発が鳴り響く中、彼らはそこに止まり続け、日本軍の攻撃に備えて陣地の補強作業を続けました。対する日本軍も夜を徹して東側尾根の北側の高台に新たな抵抗線を構築。

 それでも、第4海兵師団は610名の死傷者を収容し、207名を埋葬した代わりに382高地北東側尾根上の日本軍陣地全ての破壊に成功していました。

第5海兵師団

チャンドラー・ジョンソン中佐

第28連隊第2大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐

 四日間の再編成と休養の後、第26海兵連隊が第3海兵師団の左翼側に進出。

 グラハム大佐の第26海兵連隊とリヴァセッジ大佐の第28海兵連隊は各三個大隊を並べ、後方に砲兵大隊と戦車大隊を配置して0800に、既に確保した362A高地の両側を抜けて前進を開始しました。

 目指す難攻不落の西尾根(高千穂峡)は日本軍の強固な要塞陣地となっており、西部戦線の進撃を阻止し続けていました。ここが硫黄島で最も複雑で堅固な要塞であることが判明するのは陥落後の話で、波打ち際まで伸びた機関銃や迫撃砲の潜む洞窟はトンネル網で結ばれ、兵員や弾薬の迅速な移動が可能な防御陣地だとは攻撃する海兵隊員はおろか、頂上を確保している海兵隊員も知らないことでした。

 前進開始後、まず地雷原と対戦車壕で戦車部隊は阻止され、海兵隊員たちは二方向―しかも正面の西尾根と後方の362A高地からの攻撃に応射しながらの前進になりました。

 グラハム大佐の第26連隊は尾根正面まで僅かに前進して、そこで停止。

 リヴァセッジ大佐の第28連隊は、ジョンソン中佐の第2大隊を先頭にし、武器中隊から重機関銃チームと迫撃砲チームを進出させて362A高地北側の制圧を図り、戦車部隊は日本軍の肉弾攻撃を受けながらも、装甲ブルドーザーと側面に鉄板や厚さ十センチの木の板を取り付けた戦車ドーザーで対戦車壕と地雷原の処理に当たりました。

 一メートルごとに死傷者を積み重ねながらも、執拗に正面攻撃を繰り返すことで寸刻みながらも第2大隊は前進を続けていきます。

 ジャクソン・バターフィールド中佐の第1大隊は後方で西尾根正面の谷間で抵抗を続ける日本軍の掃討を強烈な十字砲火を浴びながら続けていましたが、第2大隊に比べれば少しはましでした。

 午前に迫撃砲弾が第2大隊正面に着弾。ピクリン酸と思われるガス攻撃で、激しい嘔吐と目の痛みや頭痛をもたらしましたが、拡散せずに終わったためにそれ以上の被害はありませんでした。

 寸刻みの前進を続けながら、着実に進む第28連隊に向かって日本軍が飛び出してきたのは午後も早い頃。しかし、この150名の突撃を撃退した第2大隊はついに西尾根正面麓に取り付くことに成功しました。

 摺鉢山に星条旗を掲揚したE中隊のセベランス大尉は麓で塹壕の構築を開始。ジョンソン中佐もいつものスタイル―鍔を丸めたぼろぼろの帽子を被り、ユーティリティのポケットにハンカチで包んだ拳銃を入れて前線へ向かいます。

 1400過ぎ、前線に現れたジョンソン中佐は、疲れ切って休息する部下たちの間を歩き回っていました。一人の隊員が30分ほど前にバズーカで開けたドアの奥から見付けた自転車を乗り回し、何人かは砲兵隊が37mm対戦車砲を据え付けるのを眺めていました。

 そんな部下の姿をニコニコと旅行者のように歩き回っていたジョンソン中佐が、砲弾痕に近付くのを見ていたリチャード・ウィラー軍曹を初めとした第2大隊の海兵隊員たちは、自分たちの敬愛する大隊長が次の瞬間にバラバラになって飛び散る姿を目の当たりにしました。

 ジョンソン中佐の身体を四散させた砲弾は味方のものでした。

 第2大隊の前進は、ここで止まりました。第2大隊を引き継いだのは、第2大隊副官トーマス・B・ピアースJr.少佐。少佐は、ジョンソン中佐のような陽気さや派手さは持っていなくとも、ニュージョージアやブーゲンビルで三つの勲章を授与された―つまりは少佐も元レイダース隊員―経験を持ち、指揮官としての信頼は申し分なく、その後の戦闘でそれは証明されていきます。

 第2大隊は前進を止めましたが、代わって第1大隊が前進を開始しました。ジョンソン中佐を含め、第5師団は212名の戦死者(内将校4名)を出しましたが、日没までに68の洞窟を封鎖し、362A高地を沈黙させることに成功していました。

D+11

 第3海兵師団と第4海兵師団が、それぞれの高地を攻めあぐねる一方で、第5海兵師団は362A高地の制圧に成功。

 栗林将軍は総司令部を北飛行場東側の陣地から、北の岬の洞窟陣地へ移動。海兵隊の損害も甚大でしたが、日本軍の方も同様でした。

 海兵隊の後方では、海軍が物資を次々と陸揚げし、道路が構築され、道路標識も建ち並び始めました。後方では、車両や通信線があちこちを走り回るせいで混乱も起きていました。そんな中、第5師団のパン焼き所が開所。前線へのドーナツの配布も始まっていました。

 翌日、最大の激戦、そして最後の戦いが始まります。

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