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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

上陸開始まで

硫黄島航空

 サイパン、ティニアン、そしてグアムの陥落により、マリアナ諸島を確保したアメリカ軍は日本軍の散発的な攻撃は継続中でも滑走路の増築を開始しました。

 陸軍航空隊では、新たに戦列に加わったB29を進出させ、1944年11月から日本本土への爆撃を開始しましたが、成果はあがらず、むしろ散々な結果が相次ぎました。原因の一つは、マリアナ諸島から日本までの航空路の中間に横たわる小さな火山島―硫黄島でした。この硫黄島(この段階では、まだIWO JIMAではなくSulfur islamd)に設置されたレーダーはB29の爆撃二時間前には察知することが可能であり、それによって対空砲火による損傷を受けた直衛戦闘機もいないB29は硫黄島から舞い上がる航空部隊にとってはいい鴨で、結局、爆弾を減らして航続距離を更に稼いで回り道をし、追撃できない高々度を飛行するしかなく、その上、硫黄島から飛び立つ爆撃機によってマリアナ諸島のB29基地が攻撃される始末。

 これらの弊害を排除すると共に、B-29の爆撃行を護衛する戦闘機の離発着基地及び損傷したB-29の緊急着陸基地の必要性、そして次に控える沖縄攻略作戦の側面を守ることといった軍事的な意味だけでなく、1942年8月7日に始まった反攻以来、初めて日本の領土―「絶対防衛圏内」に横たわり、そして東京都の一部として統治され、ある日本軍将校曰く、「帝都への門番だ」という場所へ踏み込むという象徴的な意味もありました。

 1944年10月、ニミッツ提督は硫黄島の攻略作戦を計画するように命じ、ここに硫黄島攻略のためのデタッチメント作戦が開始されます。

 遡って1944年6月13日、アメリカ軍が初めて硫黄島の航空偵察を行った、その日硫黄島守備隊司令官として後にアメリカ軍から、

「侍の五代目で、選抜され、天皇によって個人的に賞賛された戦闘経験で培った革新的な精神と強靱な意志を持つ最も手強い敵」

 と証される栗林忠道中将が着任。栗林中将は、タラワからティニアンまでの日本軍の戦いで見られた「水際防御戦術」と「万歳突撃」に栗林中将は価値を見出さず、また日本軍が既に艦隊も航空部隊も枯渇し、多くの助けを得ることはできないことを知る現実主義者でもありました。

 これらの栗林中将の意見も、当初は受け入れられず、守備隊内でも意見が対立しましたが、ビアクとペリリューの防衛における持久戦術と同じように硫黄島の地形を最大限活用した縦深陣地こそ取るべき戦術だと栗林中将は確信していました。

 海岸防御、それによる上陸阻止、そして万歳突撃を避け、長期に渡る消耗戦を強いることでアメリカ軍の戦意を喪失させ、またアメリカ軍に戦いを断念させることができなくても(実際そうでしたが)、次の攻略開始を遅らせる時間稼ぎが目的でした。

 それでも、大本営では、この受動的な方針を快く思っていませんでしたが、ノルマンディの防衛にドイツ軍が失敗したことや、サイパンの陥落なども後ろ盾となり、また栗林中将の人脈を駆使した働きもあり―海軍は相変わらず海岸線に沿った防衛陣地の構築を主張していたものの―認めさせることに成功しました。以降、硫黄島では、島を要塞化するために鉱山技師たちの支援を受け、また守備隊も半数が土木工事に従事し、12月初旬に第7空軍の重爆撃機が島へ対する爆撃を始めたときも、容易に地下へ移動することができるほどになりました。

 硫黄島では来るべきアメリカ軍の上陸に向けて島の要塞化が着々と進むのと同様にアメリカ軍も上陸計画立案を進め、ニミッツ提督は、歴戦の第5艦隊司令官レイモンド・A・スプルーアンス提督を筆頭に、遠征部隊司令官リッチモンド・K・ターナー海軍中将、そして攻撃部隊司令官ハリー・W・ヒル海軍少将のチームに計画立案を要請し、更にスプルーアンス提督は掃海作業、潜水破壊チーム作戦と準備段階の海軍航空及び銃砲撃を受け持つ水陸両用支援部隊指揮官にペリリュー/アンガウル上陸のベテランで高い評価を受けているウィリアム・H・P・ブランディ海軍少将を加えました。

 硫黄島攻略において、最初の障害と目されたのは、島そのもので特に"岩のジャングル"と言われた北部は防御側に極めて有利な地形でした。

 しかし、この時点で、マッカーサーという最大の障害が立ちはだかり、マッカーサー大将の悲願であるフィリピン奪還に揚陸艦や上陸用舟艇を割り振る関係から、次第に硫黄島攻略作戦にも暗い影が忍び寄るようになります。まずフィリピン侵攻が悪天候により延期され、更に日本軍の激しい抵抗で作戦完了も遅れ、これにより、当初の予定だった1月20日の上陸が2月19日に延期され、栗林中将に貴重な時間を与えました。


 上の方でニミッツ提督陣営とマッカーサー陣営との、そう密かでもない攻防戦が繰り広げられる中、海兵隊は上陸部隊の編制を開始していました。今回の順番は、VAC(第V水陸両用軍団:V Amphibious Corps)であり、今回は三個海兵師団(第3、第4、第5)が投入され、この海兵隊の歴史上最大の海兵隊部隊を指揮する栄誉を担ったのはハリー・シュミット少将でした。VACは、既にサイパン・ティニアン攻略を実施しており、第3と第4は実戦経験のある歴戦部隊、新鋭の第5海兵師団も構成員の半数が第1海兵師団、1944年に解体された第1強襲及び空挺連隊などの古参兵で占められていました。

 そして、もう一人。遠征軍司令官として、スプルーアンス、ターナー両提督が説得の上、就任させたのが太平洋艦隊海兵軍司令官ホランド・"ハウリンマッド"M・スミス中将でした。スミス中将は、確かに上陸作戦の先駆者でアリューシャン以降の上陸作戦のほとんどに携わってきた人物ですが、既にシュミット将軍には十分な経験やスタッフが備わっている以上、出番があるとは思えず、実際、(海兵隊に言わせると)不当な立場で後にスミス中将は、

「俺の権威も、その時までにはほとんど沈んでいた」
「俺が思うに、連中は何かがハリー・シュミットに起きた場合に備えるためだけに俺を誘ったんだ」

 と皮肉混じりに語ることとなります。このように、実際のところはシュミット少将と同幕僚たちが作戦全体への権限を持っていました。

 上層部の思惑や、指揮官同士の反目はともかく、10月13日にシュミット少将はグアムからパールハーバーへと帰還し、作戦立案を開始します。作戦立案に当たって毎日届けられる航空写真や潜水艦からの潜望鏡写真から、ほとんど姿を消した日本軍に困惑しながらも情報担当官は、サイパンで捕獲した文書などを元に兵力を見積もり、写真分析官が当時は最高機密に属した立体鏡レンズを駆使し、約700の強固な防衛陣地をリストに載せ、雨量調整タンクと平均雨量から、硫黄島の日本軍兵力を13,000名と見積もりますが、実際にはその倍の兵力が硫黄島で守りを固めていました。

 10月19日、作戦計画の最初の青写真が完成。翌日には各上陸部隊指揮官に、役割が通達され、1944年12月23日、VAC作戦計画5-44が完成。そして25日、各部隊に作戦準備の通達が成されました。

 第3海兵師団は、ブーゲンビルを初陣に、サイパン攻略に参加。師団長グレーブス・B・アースカイン少将は、海兵隊では最年少の47歳の将軍で、第1次世界大戦の激戦地ベローの森の戦いでは小隊長としてシルバースターを授与。第2次世界大戦ではスミス中将の参謀長を務め、1944年10月念願の戦闘部隊として第3海兵師団長に就任。

 第4海兵師団は、ロイ・ナムール、サイパン・ティニアン攻略に参加。師団長クリフトン・B・ケイツ少将は51歳。第1次世界大戦では、やはり、小隊長としてベローの森の戦いに参加。この際、

「右翼僅か、左翼兵無し。我々はここを死守する」

 と言う伝説の言葉を残した猛者で、第2次世界大戦ではガダルカナルで第1海兵連隊を率いて以来のベテラン。

 新鋭第5海兵師団は、硫黄島の戦いが初陣ですが、その構成員は第1海兵師団からだけでなく、海兵隊側から不要と判断されて解散させられた"精鋭の中の精鋭"第1強襲連隊、第1空挺連隊の一員として数々の戦いを潜り抜けた古参兵が半数を占めていました。

 作戦計画では、第3海兵師団を軍団予備とし、第4海兵師団が右翼、第5海兵師団が左翼に上陸し、元山飛行場、西海岸、そして摺鉢山を確保し、その後、北へと攻撃の矛先を向けることになっていました。

 日本側も、マリアナ諸島の次に、どこへアメリカ軍が攻めてくるかについては、疑問の余地無く硫黄島だと確信し、栗林中将は、古参兵と新兵、そして兵士と水兵の混成部隊を鍛え上げ、全ての防御施設の完成を2月11日に達成させました。各拠点には、「敢闘の誓い」が貼られ、戦死するまで陣地を死守し、一人十殺を命じられました。

 この時点で、シュミット少将もケイツ少将も、これまでの経験から、日本軍の夜襲と上陸部隊の弱点を突く能力の高さは理解していたため、砲兵連隊をD-dayの日暮れまでに揚陸することを決定するのですが、一方で、同じように、これまでの経験に基づき、日本軍は攻撃初日の夜に、いつものように総攻撃を仕掛けてくるので返り討ちにできるという予想もあり、これは、

「我々は反撃を歓迎する。我々が奴らの背後を打ち砕くのが通例だ」

 とスミス中将に言わせたほどでした。こうして両軍とも戦いに向けての準備を着々と進めていました。

 第3海兵師団は、グアムで、なおも抵抗を続ける日本軍の掃討を利用して実戦訓練を行い、マウイでは、第4海兵師団が四度目となる上陸に備えての訓練を終え、第14海兵連隊(砲兵)参謀フレデリック・カーチ少佐(後に第3海兵旅団長としてダナンに上陸する人物)は、

「我々は、負け知らずのベテランの系列を持っていた」

 と回想し、隣のハワイでは第5海兵師団スピアヘッドが訓練を行っていました。こちらも上陸2週間前に第27海兵連隊第3大隊長となったドン・J・ロバートソン中佐が着任早々部隊に実弾射撃演習を実施させたところ、

「彼らはプロフェッショナルだった」

 と感銘させています。

  こうした中、数々の問題も浮上してきました。

 人事の面では、ガダルカナルの戦いで名誉勲章を受章した二人が、本国での任務を命じられたにもかかわらず、強行に前線へ戻ることを主張ていました。一人は第1海兵師団の一員としてガダルカナルの雌雄を決したエドソンズリッジ(血塗れの丘、ムカデ高地)で奮戦したジョン・"マニラ・ジョン"バシローン一等軍曹、もう一人はパイロットとして27機を撃墜したロバート・E・ギャレー中佐でした。名誉勲章受章者が戦死した場合の士気への影響を考えて、軍は説得に当たりますが、結局、失敗し、バシローン一等軍曹は機関銃小隊の指揮のため、ギャレー中佐は航空支援管制部隊の一員として硫黄島にレーダー設備を設置する権利を獲得しました。

 輸送に関しては、今回の作戦でターナー提督はガダルカナルの10倍規模の艦船を揃えたのですが、これらの船も乗組員も新人揃いで演習を実施すれば衝突その他の事故が多発。

 新装備では新型TD18ブルドーザーは、中型上陸舟艇LCMより、1インチほど幅が広く搭載不可能。M4A2の変わりに配備されたM4A3は重量増加でLCMの喫水線を危険なほどに低くし、105mm榴弾砲も水陸両用トラック(DUKW)の積載容量を上回り、沈没寸前という状態でした。こうした(事前に気付いても良さそうな)問題を抱えながらも、1月12日から18日にかけて上陸部隊演習がハワイ近郊にて実施され、26日にはスプルーアンス提督が第50任務部隊を編制(但し、硫黄島攻略ではなく日本本土爆撃のため)。

 揚陸を始めた時、どうなるかと計画担当者は頭を悩ませる事情は、取り敢えず気にしないことにしたのか、物資は積み込まれ、第3海兵師団参謀長ホガブーム大佐曰く、

「我々は良い調子で、良く訓練され、良い装備を持ち、そして完全に支援されている」

 という状況で1月27日、上陸部隊のハワイ出発準備が完了し、硫黄島へ向けて出発。2月にはサイパンから、まず足の遅い揚陸艦を中心とした先発部隊が出航しました。

 一方、栗林将軍も、2月13日、アメリカの艦隊がマリアナを出航したという警告を受け、海岸と飛行場近辺に一個歩兵大隊を配置し、守備隊に塹壕を割り当て上陸部隊を待ち構えました。

 この時点では、「X島」と呼ばれる硫黄島へ上陸部隊が出発し始める中、スミス中将を激怒させる問題が生じました。一つは、ブランディ提督の行う硫黄島への事前攻撃の開始と同時に日本本土の目標を攻撃するため、マーク・ミッチャー提督麾下の空母を第58機動部隊から分離させるスプルーアンス提督の決定でした。ミッチャー提督の艦隊には、海兵隊戦闘機航空部隊八個全てに加え、強力な40センチ砲搭載の新型戦艦―要するにアイオワ級とノースカロライナ級が含まれていました。そのうえ、本州爆撃の最大目標が数日前にB-29が爆撃に失敗した中島航空機工場だったことが、爆撃の必要があるからではなく、単なる海軍の空軍に対するライバル意識ではないかと海兵隊は勘ぐり、これが後々―現在にまで続く硫黄島にまつわる論争となります。

 次に―むしろ、こちらの方が海兵隊側には重要でしたが、上陸準備に行う事前艦砲射撃の日数を、スミス将軍も、シュミット将軍も、10日間は必要と主張しますが、海軍側は時間と弾薬の都合から、三日間しか実施できないと反論。一応、サイパンで90分間に撃ち込んだ以上の、タラワで撃ち込んだ四倍以上の砲弾を撃ち込むと同時に第7空軍の爆撃を併用するので三日で十分効果があるというのが理由でした。

 これに対し、FMFPAC/51任務部隊艦砲射撃将校ドナルド・M・ウェラー中佐は、タラワでの大失敗(砲撃のほとんどが外れ、命中しても弾んで島を飛び越えて、ほとんど効果を上げられなかった)の経験から、

「砲弾でも、それらの口径でもない、それどころか時間も重要ではない」

 と堅固な要塞を破壊するためには近距離から、空中管制機によって弾着修正を行いながらの精密砲撃が必要だと反論。どうにか、ミッチャー提督に一任する形で、「状況次第で一日延長も可」という譲歩を取り付けましたが、結局、これは実行されずに終わる空約束に過ぎませんでした。海軍側は、実際に次の沖縄キャンペーンが控えていたこともありますが、海軍独自に日本本土へ砲爆撃を実施するという副次的な作戦によって、本来の作戦がおろそかになるという例の一つとなりました。

艦砲射撃担当区域
艦砲射撃担当区域
BB36ネバダ
BB36
BB35テキサス
BB35
BB43テネシー CA27チェスター
CL86ビックスバーグ
CA37タスカルーザ
BB33アーカンソー
BB33
CA24ペンサコラ
CA25ソルトレークシティ
CA25
BB42アイダホ
BB42
BB34ニューヨーク
BB34
CL=軽巡洋艦
CA=重巡洋艦
BB=戦艦
 戦艦6隻が艦砲射撃に加わっていますが、全て旧式戦艦で、より強力な主砲を搭載していたノースカロライナ級やアイオワ級は日本本土攻撃のために参加しませんでした。
砲爆撃量
合計5,712トン(砲弾5,000トン、爆弾712トン)
準備砲爆撃評価
第1優先目標
沿岸砲
65門
50%
重対空砲
35門
50%
軽対空砲
228門
20%
第2優先目標
小要塞
46個
25%以下
掩蔽野砲・対戦車砲
91門
25%以下
バンカー
450個
25%以下

島の形が変わるとまで言われた猛砲爆撃にもかかわらず、
破壊できたのは合計915個(全体の僅か22%)

 

 結局、1945年2月16日に始まった砲撃は18日に予定どおり終了。しかも、この間、悪天候などに悩まされ、VACの参謀長ウィリアム・W・ロジャース准将は、

「我々は利用可能な日中の34時間の間、およそ13時間の価値ある支援砲撃を受けた」

 と皮肉を言うことになります。

 海兵隊は、艦砲射撃には不満でしたが、それでも準備砲撃中(D-2)に水中破壊工作チーム"UDT"を乗せた12隻のLCMの接近に対し、兼ねてから栗林将軍の方針に反対していた海軍が命令を無視して発砲を開始。

  砲弾が降り注ぐ中、UDTチームは果敢に海へと飛び込んでいきます。33名の海兵隊及び海軍の潜水夫が海中の障害物を除去するための作業に取りかかろうとしますが、硫黄島の海岸には障害物を設置する余地はそもそもありませんでした。

 その間、各LCIの状況は最悪となりますが、内一隻のLCIの錨が切断されて海底へと落下していきました。このLCIの機関長は、偶然にもあのペリー提督の子孫であり、これにより、同船は、

「戦争が始まってから、初めて日本の領土へ錨を降ろした」

 と主張するようになりましたが、状況はそれどころではなく、無事に任務を終えて帰還した潜水夫たちも乗船した船の被弾によって次々と死傷。この悲惨な状況に戦艦ペンサコラを含め、戦艦と巡洋艦が駆け付けますが、摺鉢山の砲台がペンサコラに対して15センチ砲弾を見事に命中させて撃退。しかし、更なる砲弾を撃とうとした、この砲台も砲が砲床から外れて砲撃は不能となり、また他の砲台も発砲により、位置を露呈。

 この海軍の命令無視により、上陸部隊を挟撃するという栗林将軍の目論見の一つは潰えました。

  二日間の砲撃にもかかわらず、日本軍の目標が未だに無傷のままだという事態を心配したブランディ提督は旗艦で会議を開き、この席でウェラー中佐は本来の計画を破棄し、艦船を海岸地帯へ集中させることを提案し、これを受けてブランディ提督はD-1と当日の朝、それなりの戦果をあげ、栗林将軍が予測したように、帝国海軍側が主張した水際防御に用いる予定だった陣地のほとんどが破壊されました。

  もっとも、元山台地を初めとする主力防衛線は無傷のままでしたが。

ブリーフィング
ブリーフィング。
予定では遅くとも2週間で作戦は完了予定だった。

損害見積
第1日目 全部隊の5%
第2日目 全部隊の5%
第3日目 全部隊の3%
第4日目 全部隊の3%

合計見積全部隊の31%

実は、この見積もりは実際の損害にほぼ合致。

 その夜、旗艦で行われた記者会見で、スミス将軍は、多数の―もしかすると15,000名もの死傷者が生じるかもしれないと述べました。

 次に、階級章をつけないカーキシャツの人物が立ち上がりました。以前より、存在が噂されていた海軍長官ジェームズ・V・フォレスタルでした。

「武器の力によって、品位と勇気によってそれを確保するために除外しなければならない」

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