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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

第1飛行場と第2飛行場の間で疲れた身体を休める3/27の隊員たち
第1飛行場と第2飛行場の間で疲れた身体を休める3/27の隊員たち

D+12 3月3日

 シュミット少将は、戦闘計画の変更を命じました。

 第3海兵師団は第362B高地の攻撃から外され、硫黄島北部への攻撃に加わり、栗林将軍の残存部隊を東西に分断するのを目的として。

 偵察機は上空を飛び回りながら、日本兵の姿を捜していましたが、見えるのは塹壕やたこつぼにいる海兵隊員の姿ばかり。硫黄島の戦いは、海兵隊員は地上で戦い、日本兵は地下で戦うという奇妙な代物でした。

 この日、硫黄島で最後の戦いが始まりました。

第3海兵師団

 攻撃開始好例の―一人の軍曹が皮肉を込めて、

「ニップどもを叩き起こして、これからお伺いしますと伝える」

 と語る30分間の砲撃の後に362B高地東500メートルの台地―357高地へと向かいました。

 情報では1,000名の部隊がいるとされ、前進する第21連隊は間もなく、その正しさを知り、第1大隊と第2大隊を攻撃部隊として周辺陣地との戦いを開始しました。

 イングリッシュ中佐から指揮を引き継いだ"老兵"パーシー少佐の第2大隊は、第5師団の担当地域の362B高地からも機銃掃射を浴びながらの前進でしたが、砲撃に関して言えば、それほど激しくもなく、情報将校は栗林将軍が戦力を温存していると推測しています。

 戦車部隊の方は、早い段階で防御地点を突破しましたが、進撃の突破口を開くことはできず、例によって歩兵部隊は白兵戦を行いながらの前進を強要されました。

 4時間後、1100頃、パーシー少佐の斥候隊が357高地の麓へ向けて400メートル前進。正午頃に偵察部隊が山頂へ登り、これを合図に第2大隊の残りが歓声を上げて駆け上がり、357高地を奪取しました。

 激しい戦いは継続していましたが、これで第3海兵師団の海への進出を阻む抵抗は亡くなったと戦闘報告では述べられ、言うまでもなく、この推測も外れます。

第4海兵師団

 他の戦線とは違って、第4師団だけは相変わらず肉挽き器での戦闘を継続していました。

 前日から、リドロン大尉のF中隊が382高地の頂上を確保し続け、他の部隊が斜面で洞窟陣地やバンカーを火炎放射器と爆薬で封じる作業を継続していました。

 日本軍の銃撃を浴びながら、頂上にいるリドロン大尉以下約20名の海兵隊員たちの隠れる地面が不意に揺れ出しました。足下を見ると、彼らのいるのは掩蔽壕の屋根の上で、そこから日本軍が三キロ離れた海岸線への砲撃を開始したためで、慌ててリドロン大尉たちは爆薬と手榴弾を投げ込んで沈黙させました。

  この日は奇襲を目論見、準備砲撃なしの攻撃をケイツ将軍は命令。こうしてジョーダン大佐の第24連隊は382高地、ウェンシンガー大佐の第23連隊はターキーノブの制圧を目指して0630に出撃。

 左翼の第24連隊は第4戦車大隊B中隊の支援を受けて前進しますが、間もなく270メートルの縦深陣地に遭遇。戦車も火炎放射戦車も悪路で進出できず、砲兵隊も敵味方が接近しすぎて砲撃できずで、恒例の接近戦が開幕。

 海兵隊は60mm迫撃砲と81mm迫撃砲を日本軍陣地50メートルの至近距離に据え付けて砲撃。

 前日、西尾根を確保したE中隊は再び前線にいましたが、前日、部隊を引き継いだクレシンク中尉が0900頃に負傷して後送。チャールズ・アイランド大尉の到着するまでの間、ライヒ少尉が再びE中隊の指揮を執り、そして90分後、アイルランド大尉が負傷して後送されると、また指揮を執りました。ロバート・オメーリア大尉が前線に到着するとライヒ少尉はまた指揮を譲りますが、数分後にオメーリア大尉は迫撃砲弾で戦死。ここにE中隊は消滅し、ライヒ少尉を初めとした12名の生存者はF中隊に併合されました。

 午後遅く、第24連隊の中央が、320メートルの前進に成功。

  一方、右翼の第23連隊も、ターキーノブと円形劇場で苦戦していました。日本軍陣地の鉄筋コンクリート製の要塞は一週間の攻勢に耐え続け、地形を利用して潜む狙撃兵や迫撃砲は接近する海兵隊員を狙い撃ちしていました。

 工兵隊が狙撃されながら、地雷原を除去すると火炎放射戦車と爆破チームが前進を開始し、100メートル先の陣地の爆破に成功。

 午後遅くにはターキーノブ頂上の制圧に成功し、円形劇場まで300メートルほど前進しています。

 しかし、南側は抵抗が続き、ターキーノブ全体の支配権は今も日本軍の手中にありました。

 ともかく、これで肉挽き器の中心であった382高地の制圧は完了し、ターキーノブの頂上も確保に成功しました。

「明日こそ、肉挽き器を店終いさせてやろうじゃないか」

 とケーツ将軍は副官に言うと、髭を剃り、司令所の砂嚢でできたベッドで近くに砲弾が落ちるのにも関わらず眠りにつきました。

第5海兵師団

 この日、師団長ロッキー少将曰く、

「勇気の遺産Legacy of Valor」

 ができあがりました。

 右翼の第26連隊は天山を占領し、東側の第3師団への攻撃を止めさせると、北へ600メートル前進して北海岸に向かいました。

 第28連隊も西尾根の占領に成功します。

 D+12に第5師団は最大の激戦を経験しました。それは同時に硫黄島における最大の激戦でもありました。第5師団は、この日だけで8名の将校と273名の下士官兵を失い、518名の負傷者を出しましたが、一日の戦闘で5名もの名誉勲章受章者を出しています。

 また、アーネトスト"ブーツ"・トーマス軍曹が、この日戦死しました。摺鉢山に最初の旗を打ち立て、スミス中将と握手を交わしたトーマス軍曹は釘付けになった際に戦車を呼ぼうと無線を手にしました。

 その瞬間、彼は頭部に被弾して戦死。

 こうして摺鉢山に星条旗を掲揚して無事でいる者がまた一人減ったことになります。

 3月3日に誕生した名誉勲章受章者は5名。一日における記録としては現在でも破られていません。

 最初の一人、ウィリアム・ハレル軍曹は、夜に部下のカーター一等兵と共に歩哨に立っていましたが、日本軍の夜襲を受けて応戦。カーター一等兵が故障したライフルの代わりを求めてたこつぼを飛び出した瞬間に中に転がり込んだ手榴弾で負傷。

 カーター一等兵が戻ってきたとき、ハレル軍曹が血塗れで倒れながら、カービンに装填している姿がありました。その時、日本兵が白刃を振りかざして現れ、カーター一等兵は銃剣で、これを倒しますが、左手を切り裂かれました。

 ハレル軍曹は拳銃を引き抜くと二人目の日本兵を撃ち倒すとカーター一等兵に後退するように命令。カーター一等兵は救援と共に戻ってくることを約束すると切断されかかった腕を抱えて味方陣地へ戻っていきました。

  直後に、また日本兵が突進してきました。これらの活躍は、

 出血多量によって疲弊していたが、それでも無敵の彼は彼の頭上近くに手榴弾を置こうと、彼の陣地に突撃してきたもう二人の敵兵の挑戦に恐れることなく立ち向かった。彼のピストルによって一人を殺し、彼は彼のまともな右手でパチパチ音を立てる手榴弾をつかむと姿勢を低くした兵士へ向けて痛々しくそれを押しやり、彼は残っていた襲撃者が粉砕されるのを見たが、彼自身の手は爆発によって引き裂かれた。

 夜明けにハレル軍曹は12人の死んだ日本軍の死体によって囲まれた陣地から避難させられ、彼の司令部の献身的な防衛において彼は自分自身で少なくとも5人を撃滅していた。

 と名誉勲章の感状に書かれ、翌朝、救援が駆け付けたとき、両手を吹き飛ばされながらも生きていたハレル軍曹の周囲には12名の日本兵の死体がありました。

 0745に第28海兵連隊第3大隊付海軍衛生官ジャック・ウィリアムズ三等兵曹は負傷した仲間を助けるために前線を駆け回っていました。

 正午までにウィリアムズ兵曹は14名の海兵隊員を救助し、正午過ぎに負傷兵の手当をしているときに腹部と大腿部に被弾。自らの負傷を顧みずに負傷した海兵隊員の治療を終えると、更にもう一人の海兵隊員を治療してから、自らの傷に包帯を巻きました。

 その後、ウィリアムズ兵曹は負傷した腹を押さえると救援を求めて歩き出そうとしたとき、胸を一発の銃弾が貫き、戦死しました。

 負傷した二人の海兵隊員は日暮れ近くに無事に救助され、その証言から、ウィリアムズ兵曹に名誉勲章が与えられることとなります。

 第26連隊第2大隊のジョージ・ワーレン二等兵曹は既に迫撃砲弾で二度負傷し、何れも重傷で本国送還されるはずでしたが、軽傷だと言い張って前線で治療を続けていました。

  第2大隊は362B高地まで300メートルを一気に前進しますが、そこで釘付けにされました。負傷していく海兵隊員たちの、

「Coprsman!」

  という呼び声に次々と応じていた彼ですが、至近弾に受けて倒れたとき、服はぼろぼろ、医療パックもほとんど空の状態となっていましたが、なおも、一人の負傷兵の元まで這おうとしましたが、そこで力尽きました。

  30分後、駆け付けた仲間は、この勇敢な衛生官を運び出しました。

「君たち汽車に乗り遅れたんじゃないかと思っていたぜ」

 と語った三ヶ月後、グアムの病院でワーレン兵曹は名誉勲章受章を伝えた医者に言いました。

「ちょっとしたものじゃないですか」

 ワーレン兵曹が撃たれた場所の側で、ウィリアム・R・キャディ伍長の部隊は三時間も釘付けにされていました。

  午後4時過ぎに突然、手榴弾が彼らのいる砲弾痕へと投げ込まれました。気がついたのはキャディ伍長一人。彼は躊躇うことなく、手榴弾に覆い被さりました。感状には、こう書かれます。

 常に攻撃的なキャディ一等兵は、 孤立した作戦地区を貫く彼の中隊の決然とした前進中に、大胆に粉砕しようとする日本軍機関銃と小火器の銃撃をものともせずに彼の小隊長と他の海兵隊員とともに前進を続け、そして比較的安全な砲弾痕に得ると、彼の戦友たちとともに一時的な掩護を手に入れた。

 すぐに巧みに偽装した地点からの狙撃手の致命的な射撃によって即座に釘付けにされ、彼は再び前進しようと何度か試みて失敗し、彼の小隊長と合流した時、日本軍の手榴弾が砲弾痕に落下するまで、敵と手榴弾の激しい投げ合いに専念した。

 全ての個人的危機を大胆にも無視して、キャディ一等兵は、致命傷から他者を守るため、彼自身の身体によって爆発による攻撃を吸収するべく、致命的ミサイルの上に自らを躊躇せずに投げ出した。 勇敢で不屈な彼は、彼自身の生命によって彼の仲間の海兵隊員が狂信的な敵に対する厳しい戦いに挑む決意をもたらした。

 0830の攻撃開始以来、第28連隊第1大隊は西尾根の北と西の地形の中、予定されいた航空支援も雨と雲によって中止され、戦車は泥で身動きとれず、視界不良で偵察機も日本軍陣地を発見できず、しかも、ライフルは泥となった火山灰で次々と使い物にならなくなっている状況で、地下に潜った日本兵が物陰から飛び出すたびに撃たれていました。

 午後遅くまでに100メートル。死傷者100名。暗闇が訪れた頃、G中隊のチャールズ・ベリー伍長は野営に備えていました。

  午前二時過ぎに夜襲が始まり、ベリー伍長は仲間を叩き起こすと反撃を開始。そこに手榴弾が投げ込まれるとベリー伍長は仲間を救うために自らの身体で爆風を受け止めて戦死しました。

 最前線に配置されて、彼が危険な夜の時間中に彼の銃隊の他の仲間と休みなく寝ずの番を彼は継続したので、ベリー伍長は用心深く用意すると共に彼の武器に要員を配置した。

 日本軍が潜入し、彼の地点を通り抜ける試みに夜半直後に奇襲を開始したとき、彼は投げ込まれた手榴弾の対決に従事した。致命的な正確さで塹壕に落ちた物騒な武器である敵手榴弾まで迅速に戻った。彼は彼の戦友を救うことを決心し、深躊躇うことなく自らを犠牲にすることに決め、重傷から他者を守るために致命的なミサイルに飛び込み、彼自身の体で爆発の衝撃の暴力による破片を受け止めた。

 タフな心と不屈のベリー伍長は、彼自身の生命を恐れずに捧げ、彼の同僚の海兵隊員たちへ無慈悲な敵に対する無情な戦いへ運ぶ力を与え、確実な死に直面した際の義務による彼の素晴らしい勇気と躊躇うことのない忠誠は最高の名誉を彼自身と合衆国海軍職務にもたらした。

 翌朝、97名の日本兵の死体が残されていた陣地から、ベリー伍長の遺体は担架兵によって運び出されました。彼の仲間たちは、その死を引き合うものではないと考えていました。ベリー伍長に名誉勲章が授与されたことで多少は慰められたそうですが。

 夜、ロッキー少将は戦況地図の修正を行わせました。全体で100メートルから600メートルを前進していました。

「来る日も来る日も、どうしてあんなに頑張れるのか私には分からん」とロッキー少将は言いました。「海兵隊だからかもしれないな」

D+12

 第3海兵師団は357高地の確保に成功。

 第4海兵師団も、ついに382高地を陥落させました。

 第5海兵師団は天山(362B高地)の大半を制圧しました。

 各師団とも戦闘能力は50%近くにまで減少していましたが、日本軍の損害も大きく、既に主要な防衛拠点のほとんどが海兵隊によって制圧されていました。

 そして、この日の午後、硫黄島の飛行場にマリアナから飛来したR4D(C47)ペグ・オー・マイハート"が初めて着陸しました。機長のクレアランス・ケラー中佐は戦車やブルドーザーなどが舞い上げる埃で確認すらおぼつかない滑走路に、ジープに無線を積んだ管制を受けて着陸。

 この機体から最初に降りたのは女性でした。イギリス人のロイター通信特派員バーバラ・フィンチは後に夫のパーシー・フィンチとともにスミス中将の自叙伝の共著者となる人物ですが、このとき、滑走路に砲弾が落下し始めました。偶然、そこにフィンチ夫妻の友人で、海兵隊報道員として硫黄島にいたジョー・パーセル伍長が居合わせ、伍長は、すぐに、

「君は、こんなところで一体何をしているんだ?」

 と怒鳴って負傷兵が移送を待つテントへ引っ張り込みますが、すぐに軍医の大佐に追い出されて30分後、フィンチ記者は次の輸送機の便でマリアナへ送り返されました。

 この招かれざる客の一件は、ニミッツ提督を激怒させましたが、二三日で忘れてしまいました。何しろ、その頃には海軍の看護婦たちが輸送機で硫黄島とマリアナを往復するようになっていたために。

 ジェーン・ケンドリー少尉はマリアナと硫黄島の往復を旅した最初の海軍航空看護婦となって以来、20名の看護婦が硫黄島へ向かいました。また、硫黄島を訪れた女性の一人には赤十字から派遣されたディッキー・チャペルという記者もいました。彼女は、硫黄島で知り合った海兵隊員とロマンスを実らせ、1962年、ベトナムで彼女が地雷を踏んで戦死し、女性特派員で唯一の戦死者となるまで続きました。

 この日から26日までに平均124名の負傷者が一日に空輸され、2,449名がマリアナへ運ばれ、二機が被弾しますが、すぐさま別の便で飛び立っていくことで、負傷者の生存率は決定的な好天を見せました。

 ペグ・オー・マイハートの次に着陸した輸送機R5(C46)のパイロットのマルコム・S・マッケイ中佐は飛び立つとき、

「俺が見た中で、最悪の島だ」

 と、以前、滑走路が未だ日本軍の射撃場とかしている中でペリリューに着陸した最初の人物は副操縦士へ語りました。

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