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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

D-day 2月19日

一 我等ハ全力ヲ奮ツテ本島ヲ守リ抜カン
一 我等ハ爆薬ヲ擁キテ敵ノ戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
一 我等ハ挺身敵中ニ斬込ミ敵ヲ塵殺セン
一 我等ハ一発必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ撃チ斃サン
一 我等ハ各自敵十人ヲ殪ササレハ死ストモ死セス
一 我等jハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン
栗林兵団長によって配布された「敢闘ノ誓」

 1945年2月19日0640。ステーキ、新鮮な本物の卵と牛乳、そしてアメリカ軍にとって最重要戦略物資アイスクリームという豪華でも、縁起の悪い朝食を摂った海兵隊員たちは各自整列するとLVTへと乗り込み始めました。

 0645。理想的な天候のもと、ターナー提督は命令を下しました。

「上陸部隊、上陸せよ」

 0725。第一波上陸部隊を搭載したLVT部隊が集結地点に集合。同時に真珠湾で沈められ、そして蘇ったネヴァダ、1944年6月6日、ノルマンディ上陸作戦を支援したアーカンソーを含めた旧式戦艦と巡洋艦は、主砲を水平にできる2000ヤードまで接近し、彼女たちは砲門を開きました。

 ウェラー中佐と、同僚のウィリアム・W"バッキー"ブキャナン中佐は、H-hour直前に海岸の目標に対する艦砲射撃の「回転する弾幕砲火rolling barrage」を修正し、航空観測員が調整しながら、艦砲射撃の集中を上陸部隊の前進に合わせ、常に400ヤード前方を進めていく案を考案していました。

 砲撃は激しく、栗林将軍も大本営へ、その猛威を伝えていました。

 乗船している船から砲撃を受ける硫黄島を双眼鏡で調査しているケイツ少将には、自分の部隊の右翼(ブルービーチ1に上陸する第25海兵連隊)に、

「もし私が右翼部隊の最も右にいる男の名前を知っていたなら、我々が行く前に私は彼のために勲章を推薦するだろう」

 と不安を持っていました。上陸計画では右翼(ブルー、イエロー)に第4海兵師団、左翼(レッド、グリーン)に第5海兵師団が上陸。最左翼のグリーンに上陸する第28海兵連隊が島を縦断して摺鉢山確保のために南下し、最右翼の第25海兵連隊が"採石場"を登って北部へ向かうための蝶番となり、その間、第23海兵連隊と第27海兵連隊が第1飛行場を確保することとなっていました。
※第4海兵師団第24海兵連隊、第5海兵師団第26海兵連隊はそれぞれ師団予備。第3海兵師団は予備師団

 ブルービーチは、採石場からも右翼の崖からも見下ろされる位置にあり、このため、第25海兵連隊はD-day当日に最も困難な任務を割り当てられていたからです。

 それでも、上陸作戦は進行を続けていました。マリアナ諸島からは第7空軍のB-24リベレーターが飛来し、ロケット搭載艦が海岸近辺の日本軍陣地を叩くために行動を開始。

 0805にミッチャー提督の第58機動部隊の空母から戦闘機と攻撃機が飛び立ちました。

 海軍機が爆撃と機銃掃射を行う中、上陸部隊の海兵隊員たちは、その中に初めて見る自分たちの航空部隊―空母エセックス所属のウィリアム・A・ミリントン中佐率いるVMF124と213の姿に喝采を送りました。

 遠征兵団航空士官ヴァーノン・E・メギー大佐は、

「海岸に腹を引き摺るようにしろ」

  とミリントン中佐に命じ、そしてミリントン中佐の航空隊は、その命令を実行し、低空で海岸を飛び抜け、爆撃と機銃掃射を敢行しました。

 0830。遂に上陸開始の命令が下り、LVT-4及びLVT-2に乗り込み、68輛のLVT-4(A)水陸両用戦車に随伴された第一突撃波380名が時間どおりに、突撃ラインを通過し、海岸へと前進を開始。

LVT-4

集結地点へ進むLVT-4。

突撃波

海岸へ進む突撃波。この時点では、何ら問題は生じなかった。

 0857。随伴したLVT-4(A)アムタンクが海岸から400ヤードの地点で砲撃を開始。

 0902。突撃波は海岸へと到達し、海兵隊員たちは後部ハッチから飛び出していきます。二分後には第二波、五分後までに第四波が海岸に到着。この間、損失はアムタンク一輛。海岸に飛び出した通常で25キロ、迫撃砲手で65キロの装備を身につけている海兵隊員たちは、第4海兵師団のエドワード・ハルトマン伍長曰く、

「砂は非常に柔らかく、それは緩いコーヒーの地面の中を走っているようなものだった」

 という火山灰の黒い砂浜で足を取られ、前進するのも容易ではなく、日本軍の標的としては絶好の状態でしたが、守備隊からの攻撃は散発的なものでした。

「午前9時、水陸両用戦車に導かれた数百隻の上陸舟艇が巨大な津波のように海岸に押し寄せてきた」上陸を目撃した日本軍観測員の報告

 日本軍側は沈黙を保っていたことで、この時点での障害は硫黄島の砂浜そのものでした。海岸は切り立って狭く、黒い砂は水陸両用車の腹をつかえさせ、上陸用舟艇から発車したトラックやジープは、そのまま砂浜にはまって動けなくなり、接岸したボートは荒波にもまれて座礁し、瞬く間に海岸は難破船の庭と化しました。

 第28海兵連隊は、この状況に簡単な報告を行いました。

「ろくでもない地形で、中程度の抵抗」

 数分以内に6,000名の海兵隊員が上陸を果たしていましたが、第一波到着から28分後の0930に日本軍の攻撃が開始し、一気に海岸は地獄と化しましたが、海兵隊側はこれに関しては、

「栗林は待ちすぎた」

 と言う点を指摘しています。実際、30分間の日本軍の沈黙は上陸部隊にとって幸いだったことを指摘してるように、接近しての弾幕砲火と妨害を受けずに順調に行われた上陸によって第一波の突撃部隊に内陸へ前進するだけの十分な時間を提供することになります(前日の海軍の独断専行で摺鉢山と元山の陣地が壊滅状態に陥っていたこともあります)。

 第28連隊以外の三つの連隊は、海岸線の台地を越えて、第1飛行場へ進もうとあがいていました。機銃掃射が行く手を遮り、砲弾、迫撃砲弾、そしてロケット弾が海岸には降り注ぐ中、第27海兵連隊は正午までにどうにか第1飛行場の南に到達。

 イエロービーチの第23海兵連隊も、日本軍の攻撃に耐えながら、前方にある二つの掩蔽壕への攻撃を開始していました。しかし、その二つを突破した海兵隊員たちは、また同じような日本軍陣地が控えていることを知るのですが。

 ブルービーチの第25海兵連隊も、ケイツ将軍が懸念していたとおりの状況に落ち込んでいました。マスティン中佐の第1大隊は最初の30分間で、どうにか300ヤードの前進に成功していましたが、H-hourの15分後に上陸した第3大隊のジャスティン・チェンバース中佐は最右翼で最大の攻撃を受けていました。

  1000。LSMが戦車の揚陸を開始したことに合わせたように日本軍の攻撃は最高潮に達し、海岸の橋頭堡へ砲弾が降り注ぎ始めました。その効果的な攻撃に第14海兵連隊のカーチ少佐は、

「それは戦争で最悪の血の代償の一つだった」

 ジョセフ・L・スチュワート中佐は、

「日本兵は優秀な砲兵であり…彼らが発砲するつど、誰かに命中していた」

 と賞賛することになりますが、そんな中、第28連隊第1大隊B中隊第1小隊(フランク・J・ライト少尉他4名)が、あっさりと700ヤード前進して島を横断し、1035に西海岸に到達してしまいました。実は栗林将軍の想定していた上陸地点と海兵隊が実際に上陸した上陸地点にはずれがあり、このためグリーンビーチに対して再配置が必要となり、その間、日本軍右翼の側面をついた形となったライト少尉の部隊は日本軍の死角を進むことになったためでした。しかし、他の部隊は前進を阻まれ、夕暮れまでにライト少尉には後退が命じられました。

海岸で釘付けになる第4海兵師団の海兵隊員たち

 しかし、海岸で釘付けにされた部隊の状況は、一時間後に矢継ぎ早に前線部隊から行われた、

 10:36(25海兵連隊より報告)「採石場全てが地獄に囚われた! 重迫撃砲とマシンガンによる攻撃!」
 10:39(23海兵連隊より報告)「我々を狙った迫撃砲によって、死傷者多数を生じ、しばらく動くことができない」
 10:42(27海兵連隊より報告)「全ての部隊が敵の砲撃と迫撃砲によって釘付けにされている。死傷者多数。前進するために早急に戦車の支援が必要」
 10:46(28海兵連隊より報告)「激しい砲火によって前進を阻まれた。機関銃と大砲の激しい射撃が確認できる」

 という報告からも伺えます。この間、ウェラー中佐は、何とか海岸近くの重砲陣地を艦砲射撃で潰そうと躍起になっていましたが、重砲陣地から撃ち下ろされていた第25海兵連隊第3大隊の砲撃観測班は既に一掃されていた後でした。

 この日、一人の伍長がヘルメットも靴も脱ぎ捨て自作の機関銃スティンガーを抱えて前線と後方を頻繁に行き来していました。前線では墜落した航空機の機銃を改造したスティンガーを撃って味方を救い、弾が切れると負傷者を抱えて後方まで連れて行き、弾薬を抱えて前線へ舞い戻る。何度か日本軍の銃弾がスティンガーを伍長の手からもぎ取りましたが、彼は諦めることなく自らの仕事を続けました。この勇気ある行為により、この伍長―トニー・スタイン伍長には名誉勲章が与えられることとなります。

 射竦められた海兵隊でしたが、それでもパニックを起こすことはありませんでした。航空管制官は日本軍陣地を発見すると効果的な艦砲射撃を誘導し、また艦載機がナパーム弾を投下しました。

 また、第4師団第23連隊第1大隊B中隊の機関銃班班長ダレル・S・コール軍曹は、ガダルカナル以来のベテランでしたが、この戦いまではビューグル手でした。しかし、再三、機関銃手としての配属願いを出し続け、再三、拒絶されながら、ロイ・ナムルでもサイパンでも、なぜかビューグルではなく愛する機関銃を手に前線で戦い、遂に念願叶って伍長昇進と供に機関銃班に配属され、硫黄島では班長として機関銃班を率いていました。コール軍曹は部隊の前進が停まると拳銃と手榴弾を手に、前進を阻む日本軍陣地二つを手榴弾で破壊。更に三つをたった一人で拳銃と手榴弾を手に破壊しました。最後の突撃の後、日本軍の手榴弾がコール軍曹の命を奪いますが、この活躍は元ビューグル手で機関銃を愛した海兵隊員に名誉勲章をもたらしました。

 一方、頼みの綱とも言うべき戦車部隊はLSM(中型上陸用舟艇)に乗せられ、海岸へ向かいましたが、海岸は上陸の混乱に日本軍の攻撃が拍車を掛け、残骸が散乱していたために降車させる場所を求めて右往左往するはめになり、揚陸しようと錨を降ろせば海底の砂は固定するには柔らかすぎ、結局、海岸で破壊されたLVTにケーブルを繋いで急場を凌いでいました。ところが一隻のLSMは止めとばかり、しかもよりにもよって先頭車両がエンストを起こして後続車両が降りられなくなっていました。他のLSMから海岸へ降りた戦車も海岸の砂にはまりこみ、どうにか海岸の段丘を越えれば正確無比の対戦車砲の砲撃や地雷で破壊されていきました。それでも、どうにかこうにか上陸してきた戦車を海兵隊員たちは歓迎しました。…午後なる頃には、戦車を発見すると日本軍が集中砲火を浴びせて来る事実を皆が悟り、誰も近寄ろうとしなくなりましたが。

 この状況に、ロッキー少将は、正午頃、予備の第26連隊の投入を決定。同様にケイツ少将も第24海兵連隊第2大隊に1400に上陸するよう命じていました。

 また予定どおり、砲兵連隊の上陸も始まりました。しかし、貴重な105mm榴弾砲4門が、荒波を受けたDUKWが転覆したことや揚陸したものの、そのまま海中へ転げ落ちたりして失われたように陸揚げ自体が一仕事でした。無事に陸揚げしても、次には砂から掘り出さないとならず、海兵隊曰く、

「その作業だけで長編歴史物語」

 幸い軽量の75mm砲の揚陸は順調でしたし、歴史物語も夕暮れまでにはどうにか終えることができました。

 この日に起きたもう一つの事件は、伝説の"マニラ・ジョン"バシローン一等軍曹の戦死でした。第27海兵連隊第1大隊で機関銃小隊を率いていた際、日本軍の迫撃砲弾が隊の真ん中で炸裂し、英雄として本国で安全な宣伝活動を行うより、例え危険でも仲間と共にいたいと願った海兵隊員は戦死しました。

  もう一人の名誉勲章受賞者ギャレー中佐は四散していたレーダーユニットを掻き集めていました。中佐は、この戦いを生き延び、後に朝鮮戦争やベトナム戦争にもパイロットとして従軍することとなります。

 午後、ドン・J・ロバートソン中佐の第27海兵連隊第3大隊がブルービーチに上陸を開始しました。第3大隊は銃撃の中を死傷者を受けながら、前進し、中佐を感嘆させました。そして、中佐はと言えば乗っていた上陸用舟艇のランプが故障して司令部要員共々、舷側をよじ登って海に飛び込む、幸先がいいとは言えないスタートを切りました(ロバートソン中佐自身は無事にこの戦いを生き延びますが)。

 採石場では、高所から日本軍の効果的な攻撃を受けながらの苦しい戦いが続いていました。チェンバース中佐とジェームズ・ヘッドリー大尉は第3大隊の生存者を導きながら、22名の将校と500名の海兵隊員を夕暮れまでに失っていました。

 日本軍の砲撃は海岸へと浴びせられ続けていました。たこつぼを掘ろうにも砂地は掘る側から崩れ、大した意味もありませんでした。

 その光景を見ながら、かつてタラワでも、D-dayに上陸した唯一の将官だった第5海兵師団副師団長レオ・D・ハームル准将は上陸する決意を固め、1430に上陸し、予備部隊と砲兵部隊を集結させ、予想される日本軍の夜襲に向けての準備を行わせました。

 この日、上陸した海兵隊の死傷率は8%。タラワやサイパンの初日に比べれば、実のところ、そうひどいものではありませんでした(それでも、一日の戦死者数は現在でも第1位)。海兵隊は硫黄島へ、既に約30,000名を上陸させ、目標の達成はできなかったものの橋頭堡の確保には成功しました。損害が予想の半分以下だったことで、硫黄島の戦いは一週間以内に終わると未だに思われてもいました。

 D-dayの夜、海兵隊員は寒さに震えながら、日本軍の夜襲に備えましたが、小規模な潜入部隊が情報収集のために現れ、一部は西海岸から逆上陸を試みて第28海兵連隊に阻止された程度で、暗闇の中からそれ以外の日本兵が現れることはありませんでした。

 代わりに日本軍は夜間も砲撃を続けてきました。

 その内の一発が第23海兵連隊第1大隊司令部に着弾。その場にいた者をなぎ倒し、大隊長ラルフ・ハース中佐を、これから続く大隊長戦死者の列の最初の一人としました。

第1日目の損失
戦死
負傷
行方不明
戦闘疲労
548名
(内負傷後死亡47名)
1,755名
18名
99名
戦車損失
アムタンク
LVT/舟艇
野砲
13-15両
10両
100隻以上
4門
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