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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日


戦死した日本兵の側を駆け抜ける海兵隊員

D+7 2月26日 地獄の2週間の始まり

 2月26日は第1飛行場に初めてアメリカ軍の航空機が降り立った日となりました。護衛空母ウェーキアイランドを飛び立った二機の海兵観測航空機(L5グラスホッパー)が、第4海兵観測飛行隊(VMO-4)のトム・ロズガ中尉の手によって、今なお、掃射を受けている滑走路に着陸。これまで海上の護衛空母や、LSTに実験的―要するに無理矢理取り付けたカタパルトから射出されていた観測機も、これで地上から飛び立つことが可能となり、火力支援の問題も改善を見せ始めました。VMO-4とVMO-5の観測機14機は、日本軍の激しい銃撃を―地上にいようが飛んでいようが―浴びながらも、600回近い飛行を行い、日本軍の砲撃を制圧するために尽力し、また場合によっては夜間飛行も飛び、三個師団を支援していきます。

第3海兵師団

 0930。第9連隊が600発の準備砲撃の後、第1大隊がピーター、第2大隊がオーボエの両高地への前進を開始しました。航空支援もありましたが、前述のように、海軍は目標の遙か彼方を爆撃することには長けていましたが、指示された目標に命中させるのは得意ではありませんでした。

「この種の支援は、この状況に答えるためには全く不適切なものであった。多くの数の飛行機が塊になって目標に向かっても、ただ歩兵の前進を阻むに過ぎないことを示している」

 第9連隊長"赤毛のケンヨン"大佐は、第1大隊の攻めるピーター高地のまわりに火炎放射戦車を配置し、高地前面の掩蔽壕や塹壕に炎の舌を伸ばして焼き払い、後続の戦車6台が日本軍がいると思われる場所へ砲弾を撃ち込んで粉砕。更に海兵隊の30門が前進する海兵隊員たちの僅か200メートルに砲弾を浴びせ、前進を助けようとしました。

 しかし、これらの攻撃を受けながらも日本軍は耐え続け、前進してくる部隊に向かって迫撃砲弾、手榴弾、そして小火器による銃撃を浴びせ続けました。

 海兵隊員は僅かな遮蔽物から遮蔽物へと飛び込んで行きますが、前進はセンチ単位。日本軍の奮闘によって、第9連隊の5時間に及ぶ前進は、一メートルに満たず(時速約20センチ!)。しかも、戦車11輛を擱座させることにも成功していました。

 この日の連隊日誌には、

「第9海兵連隊は、終日、前進を阻む高地の奪取目指して戦ったが、夜までにほとんど得るところがなかった」

 と記されています。

 この夜、アースカイン将軍は、ケンヨン大佐を師団本部へ呼びました。この席で、アースカイン将軍は、前日取り下げた夜襲計画の再考をケンヨン大佐へ命じます。前日、アースカイン将軍は、ケンヨン大佐に夜襲の準備を始めるように言ったのですが、このとき、大佐は部隊は立派にやるだろうと応じたものの、全員が疲れていることも伝えました。将軍は、第1次世界大戦の自分の武勲を語って命令を遂行するように促しましたが、偵察中隊のラリー・サルゴ大尉が、

「分かりました。行ってきます。それで、どのバンカーを潰せばいいんですか?」

 と応じたことで、この計画を取り止めていました。

※ソアソンで、斥候から帰還したアースカイン少尉は、中隊長から再びドイツ軍機関銃陣地を沈黙させるように命じられ、実際に引き返し、岩を投げ付けて沈黙させた。
※アースカイン少将の所にある地図には、日本軍掩蔽壕は二三カ所しか記されていない一方、その地点に無数の陣地があるのは前線部隊には周知の事実でした。

第4海兵師団

 0800の準備砲撃の後、第4師団も二段岩と玉名山への攻撃を再開しました。

 しかし、二段岩こと382高地は、以前として強固な障害で、ケーツ将軍が日暮れまでに奪取する決意を固める一方で日本軍も、二段岩を死守する決意を固めており、第23連隊の第1大隊と第3大隊が先陣を切りましたが、すぐさま、肉挽き器は以前、その獰猛さを損なっていたいことが明らかとなりました。

 第1大隊C中隊に至っては、30分間に戦死17名、負傷26名の損害を被りますが、第3大隊I中隊の方は、倒れたバズーカ砲手の手から、バズーカと弾薬をつかみ取ったダグラス・T・ヤコブソン上等兵は本来二人で運用するバズーカをたった一人で操って日本軍陣地を破壊していき、実に16の日本軍陣地を沈黙させる活躍を示したこともあり、部隊は382高地の麓への到達を成し遂げました(この活躍により、ヤコブソン上等兵は名誉勲章)。

 しかし、頼みの綱の戦車部隊は、この攻撃に合流することができず、更に尾根西側には九七式中戦車も陣取っており、午後遅く、日本軍の攻撃によって再び追い払われてしまいました。

 同時期、右翼の第二五連隊も、円形劇場を攻めたミー少佐(マスティン中佐が戦死した後、部隊を率いていた)の第1大隊も、激しい抵抗にあって前身に失敗。

 1630、ケーツ将軍は、戦闘中止命令を出して部隊の再編成を命じざるを得ませんでした。豪雨の中で部隊は、日本軍が損害を受けた陣地に兵力を補充する気配を感じながら、同じように補充兵と武器弾薬の補充を受けますが、彼らは昼間の激戦地であり、また夜間も相変わらず迫撃砲弾と機関銃の掃射を受けているルートを使って前線部隊に合流するしかありませんでした。それでも、どうにか2100過ぎに陣営を整え直しますが、この日の損失は512名。内戦死119名。どれだけ前進できたかと言えば第23連隊が180メートル。第25連隊が70メートルでしかありませんでした。

「(敵は)頑強な地下防衛を続け、我が軍の空軍基地確保を可能な限り遅らせ、高価な代償を支払わせようと努力するだろう」

 と言うグッダーハム・マコーミック中佐の第4師団の報告は栗林将軍の意図を見事に言い当てていました。

第5海兵師団

 左翼の第5師団は、前日、第3師団の進軍が遅れたこともあり、前進せずに前線の確保に努めていました。この間に武器の更新や補給を済ませた第5師団は、第3師団の前進に合わせてM4戦車とアムタンクの支援を受けての前進を開始しました。

 第26連隊は三個大隊で前進を開始しましたが、リー少佐の第2大隊は日本軍の反撃を受けて1030までに34名を失い、戦車三台が救援に駆けつけましたが、状況は芳しくなく、正午頃には雨も降り出した頃、どうにか23名の死傷者を出して50メートルを進みました。

 硫黄島では、地形が各部隊を孤立化させており、一方で死闘が起こっているのに、別な場所では楽な戦いが進んでいる例はいくつもありました。例えば2/26の左翼200メートルの位置にいたアントネリ少佐の第27連隊第2大隊は逆に地形に助けられていました。ここは遮蔽物がほとんどなく、日本軍も塹壕やたこつぼの構築がせいぜいで45分で400メートルの前進に成功しています。

 1600を過ぎて第5海兵師団は、豪雨によって攻撃を中止し、この日の戦闘を終えました。

 この日の最大の戦果は日本軍の最後の井戸である第4と第5を確保したことで、夜間、天候が回復した頃、日本軍一個中隊が第5師団に奪われた井戸の再奪還を目論みましたが、すぐさま、発見され、艦砲射撃と榴弾砲によって全滅したことで、以降、日本軍の水の供給は雨水と、それを溜めた物だけとなります。

D+7

 7日間の戦闘で、海兵隊は5分の2を占領していましたが、以前、各地では死闘が繰り広げられていました。

 アメリカ陸軍では、陸軍守備隊の司令官で硫黄島占領後の司令官にもなるジェームズ・E・チェイニー少将が第147歩兵連隊の先遣隊と共に上陸し、第506高射砲大隊も、この日、揚陸を終えて西海岸と監獄岩への砲撃を開始。更に航空隊の先遣部隊も到着しました。

 海兵隊の遥か後方では海岸線や千鳥飛行場の増強作業が昼夜を分けず行われ、数千人の補充兵と作業部隊が荷解き作業を行っていました。西海岸ではコロンビア・ビクトリー号から、LVTが砲弾を運び、一部は、そのまま砲兵隊へと直接運ばれていきました。物資貯蔵所は空き地があれば、すぐさま、設置され、東海岸から西海岸へ物資を送るための道路も造られました。

「我が軍は、後数日で、この島を占領する」

 と従軍記者たちへスミス中将はオフレコで語りましたが、その後、退出したスミス将軍はヒル少将とカードをやった(実のところ、スミス将軍のすることはこういうことしかなかった)後に、自室で聖書で祈りを捧げたように、戦いがまだ長引くことは十分理解していました。

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