デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日
残骸の散らばる海岸を見るホランド・"ハウリンマッド"スミス中将(左)と参謀長ダドリー・ブラウン大佐
D+14 3月5日 第3海兵連隊
B-29の初着陸で硫黄島の価値が示され、海兵隊側は知りようもありませんでしたが、日本軍も主要な防衛陣地を全て失い、各拠点の通信網を引き裂かれ、物資弾薬も今且つし始めていました。しかし、海兵隊側の前線部隊も消耗は激しく、VAC司令官シュミット将軍は各師団に対し、再編成のために短い休息と後退を命じるとともに、何度目かの第3連隊の投入をスミス将軍に要請しました。
こうした中、硫黄島のアメリカ軍の陣地も拡張が進んでいました。千鳥飛行場の拡張工事が続けられ、マリアナとの航空機の往来が頻繁になり、上陸日からしばらくは混沌と化していた海岸橋頭堡も未だに船などの残骸は散らばっていたもののLSTなどの大型船舶が接岸して物資の陸揚げを行っていました。
海軍と沿岸警備隊の上陸用舟艇からの陸揚げ作業。
ガリ版刷りの日刊紙"Iwo Gazette"という8ページのステープル止めの新聞が発行され、野戦病院ではゲーリー・クーパー主演映画や短編物、そしてヨーロッパ戦線のニュース映画も上映されるようになっていました。コックや支援要員たちも前線将兵約15,000名のために数百リットルのコーヒーを沸かし、焼き立てのドーナツとパイやタルトを大きな容器に盛り、そして大量のサンドイッチを作ると、攻撃はまだ始まっていませんが、両軍とも砲弾の撃ち合いは始めており、彼らはその砲弾の落下地点数百メートルという場所に、それらの温かな食事を運んでいきました。
前線で待機する海兵隊員たちが、その有り難い差し入れに喜んでいる間、各連隊長と大隊長は半日を費やして部隊の統合と再編成を行っていました。まだ生きている者には新しいユーティリティが支給され、壊れた武器は回収され、新品のライフルや銃身が弾薬や手榴弾と共に与えられました。火炎放射器も修理が施され、工兵たちは新たな爆薬を補充し、砲兵隊や戦車の搭乗員たちも自分たちの兵器の修復と手入れを行っていました。そこに本国からの郵便配達と共に新たな海兵隊員たちが補充されてきました。これまで各師団は数千人の補充を受けていましたが、前線部隊の間隙を埋めるには不十分な数であったことと、(未だにアメリカ軍はそうしていますが)補充兵を前線部隊にそのまま送り届ける方法は、
「彼らが戦闘に投入される日に、彼らは殺される」
と一人の人事担当の士官が落胆しながら言ったように、最初の48時間以内に、こうした補充要員の多くが失われていました。だからこそ、シュミット将軍は第3海兵連隊の投入を求めたのですが、この協議のために、スミス中将は前線部隊の視察を兼ねて硫黄島へ0830過ぎに上陸しました。
既に個々のやりとりでスミス中将へは言いたいことを言い終えていたアースカイン少将は、この会議では沈黙を貫き、代わって第4師団のケーツ少将と第5師団のロッキー少将が、激論を交わすシュミット少将を支持しました。
沈黙のアースカイン少将もですが、シュミット少将たちも、戦闘を早期に終結させ、少なくとも数百人の生命を救うことができると主張。
スミス中将の反論は、ターナー中将同様、
「島に新たな連隊を受け入れられるだけの余裕がない」
というもので、断固として譲らず、また、既に上陸している部隊だけでも硫黄島の制圧は可能であり、スミス中将自身が予備軍を投入しなければ硫黄島の制圧が不可能と証言しない限りはターナー提督に、第3連隊の投入を認めさせることはできないと述べました。
この判断については、後々まで議論の的になりますが、要請するシュミット少将らも、硫黄島の三分の二を制圧し、島を横断する日本軍守備隊の主要防衛陣地を突破した以上は、現在、島にいる部隊だけで制圧することは可能、という点はスミス中将とターナー中将らと意見が一致していました。
この時点で、シュミット少将たちは知りませんでしたが、スミス中将は第3海兵連隊を温存するつもりでした。沖縄の次に予定されている日本本土上陸はVACの担当であり、その時、先陣を第3海兵師団に務めさせるつもりでした。その際、硫黄島のように、ベテランたちが導くことをスミス中将は願っており、そのためにも無傷のベテランの揃った連隊を残しておきたい意向でしたが、この席でそれを明らかにすることはなく要請を再び却下する形で0900に会議は終了。
その後、スミス中将は長年、自分の参謀長を務めてきたアースカイン少将を、
「前線に行ってみようじゃないか、ボビー。そして、どんな出来事が起きているかを見るんだ」
と誘って防御線沿いの指揮所の視察を行いました。何度か、迫撃砲弾が間近に着弾して二人は退避しなければなりませんでした。タラワやアリューシャン列島、そしてマリアナでスミス中将に参謀長として従ったアースカイン少将が、
「昔を思い起こさせますね、将軍」
と言った時、火のついていない葉巻を噛みしめたスミス中将は、その目を涙で潤ませながら黙って微笑み返しました。二人の戦友が、戦場で肩を並べる最後となった、"休息日"の硫黄島の前線視察で目撃した出来事は、他の戦場では、"夜明けから日没までの激戦"と呼べる代物でした。
第3海兵師団
第9連隊と第21連隊の四個大隊がパトロール部隊を北飛行場と元山村北方の日本軍拠点へ進ませ、破壊のために断続的に一日中砲撃戦が続いていました。362C高地からは北部海岸線の道路を見渡せることから、ここの砲兵陣地を潰すための爆撃と艦砲射撃も数度行われています。
第4海兵師団
攻撃は休止中で、肉挽き器の残党を無視して前進することを決定しましたが、同時に第25連隊にエドワード・アスピル少佐を指揮官にした師団偵察中隊、第3大隊L中隊を基幹部隊とし、M4シャーマンなどの車輌部隊を配備した臨時大隊を編成。翌日からの戦闘に備えさせました。
第5海兵師団
第5海兵師団は、情報将校が、この付近に栗林中将の司令部があると判断された地域で、前線の強化に努めていましたが、休息を取る者も、付近のバンカーや洞窟の掃討を行う者も砲弾と迫撃砲に悩まされ続けていました。掃討作戦に参加したシャーマンも二輌が地雷と対空砲の砲撃で擱座。
日本軍の砲撃は相変わらずで、午後になると対戦車砲の砲撃も強化されてきました。それでも、この休息を利用して―例えば摺鉢山に星条旗を掲揚した第28海兵連隊第2大隊E中隊長セヴァランス大尉が部隊を摺鉢山の南へ向かわせ、海水浴をさせるような余裕はありましたが。
第27海兵連隊第1大隊は、元山を突破し、日本軍が数日間粘っていた砂糖工場の側に陣取っていました。大隊長ジョン・バトラー中佐は、部下三人と共にジープに乗って、その前線へ視察に向かう途中、ほとんど視界のない十字路に差し掛かったところで地形を詳しく見ようとジープを止めさせました。
その瞬間―ジープが止まらないううちに、対戦車砲弾が着弾し、中佐の首を吹き飛ばし、二人を負傷させました。
バトラー中佐が硫黄島で戦死した12人目の大隊長となったことを知った連隊長ウォーンハム大佐は、作戦参謀ジャスティン・G・デュリア中佐を呼びました。
「君は、君の大隊に帰りたいな?」
「Hell yes(もちろん)」
連隊長の問い掛けに、キャンプ・ペンドルトンで同大隊を鍛え上げた元大隊長はそう短く答えると戦場へ向かって、四日後の3月9日に地雷を踏んで重傷を負うまで古巣の大隊を導きました。
D+14
日没の一時間前にスミス中将は南の橋頭堡へアースカイン少将と向かうと、固い握手と敬礼を交わし、ヒギンズボートに乗り込みました。
この日、一部の者が、ふと気付くと洋上から第5艦隊旗艦インディアナポリスの姿が消えていました。同艦は沖縄侵攻のために午後にグアムへ向かって出発していました。インディアナポリスは、その後、数奇な運命をたどることになります。
スミス中将とシュミット少将が激論を交わしている間に、第3海兵連隊を乗せている輸送船の姿も消えていました。これにより、第3海兵連隊の投入の可否については硫黄島を語る上で避けることのできない論争を産んでいくことになります。
戦闘が無い休息日。にもかかわらず、約400名の損失が生じていました。
一方、栗林将軍は北地区に海兵隊の攻撃の重点がおかれると判断し、海兵隊側が攻めてこない合間を利用した東地区の部隊を移動して防備を強化させ、西中佐の戦車第二十六連隊に東地区の確保を命じるなどの再配置を行っていました。
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