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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日


硫黄島占領宣言式典で揚げられた星条旗への敬礼

硫黄島占領宣言 3月14日(D+23)

硫黄島占領宣言

 3月14日0930。上陸してから、24日目。スミス中将が記者たちに語った予想も、シュミット少将が見込んでいた予想も超えた日に、ニミッツ提督の指令により、硫黄島の占領宣言が行われることになりました。

 依然として、第3海兵師団はクッシュマンズ・ポケットで、第4海兵師団はターキーノブ、そして第5海兵師団はゴージ(峡谷)で死闘を繰り広げており、海兵隊側は後に将軍から二等兵まで占領宣言は早すぎたと批判し、冷笑するのですが(宣言後、更に6,000名が死傷する)。

 ともかく、予定どおり、0930に摺鉢山北約180メートルの地点で勝利宣言と国旗掲揚式が行われました。

 周囲には火炎放射器で焼かれ、爆破されて吹き飛んだ掩蔽壕の瓦礫が散乱している場所で、海兵隊からはスミス中将、シュミット少将、アースカイン少将、ケーツ少将、そしてロッキー少将、海軍はターナー中将とヒル少将、陸軍はチェイニー少将が参列。ニミッツ提督の姿が無いのは、この時期、グアムで沖縄上陸作戦に参加する第1海兵師団と第6海兵師団ら上陸部隊指揮官と最終的な会議を行っていたためでした。

 式典では各師団から8名ずつ、合計24名の選ばれた儀仗兵が、前夜に洗濯したものの酷使されてすり切れたユーティリティを着て並び、VACのデヴィッド・A・スタフォード大佐がニミッツ提督自ら執筆した宣言文を読み上げました。

「私、合衆国太平洋艦隊及び太平洋方面司令官チェスター・ウィリアム・ニミッツ合衆国海軍大将は、ここに宣言する。我が指揮下の合衆国部隊は、ここ及びその他の火山諸島を占領した。これらの占領された諸島において、日本帝国政府の全ての権限は、ここに停止される…」

 この日の航空支援に出撃した第一波攻撃部隊の4機のムスタングが第1飛行場(千鳥飛行場)に着陸し、風の向きが変わって約5キロ離れたクッシュマンズ・ポケットで鳴り響く砲撃音が聞こえて、宣言の朗読が一時中断されました。

「全ての者は速やかに私の権限の下、与えられた全ての命令に従うだろう。占領する部隊に対する違反は厳しく罰せられるだろう。
  この1945年3月の14日、硫黄島は私の手に委ねられた」

 トーマス・カスール一等兵(ニューヨーク出身)が日本軍掩蔽壕の屋根に立てられた80フィートの棹に歩み寄り、アルバート・B・ブッシュ一等兵(オハイオ出身)とアンソニー・C・ユースト一等兵(ニューヨーク出身)が星条旗を棹に結び付けました。ジョン・E・グリン一等野戦楽員がビューグルを吹き、その場にいた全員が一斉に敬礼し、儀仗兵は、捧げ銃を行うと、新たな旗が翻り、同時に、それまで摺鉢山で翻っていた旗が降ろされました。

 遠くでは戦闘の音が未だ鳴り響き、黒煙が立ち上っていましたが、この僅か5分の式典で硫黄島は正式にアメリカの領土となりました。

「これは最悪だったな。ボビー」

 そうアースカイン少将に耳にスミス中将の言葉が聞こえてきました。その時、スミス中将は泣いていました。

師団墓地

 この日は、また硫黄島に海兵隊の墓地の開所式も行われました。

 第4海兵師団の墓地では師団長ケーツ少将の追悼の言葉を述べました。

「私のどんな言葉でも、これらの英雄たちに当然の敬意を表すことはできない。しかし、私は彼らと彼らの愛する家族に、我々が彼らの旗を持って前へ進むであろうことを保証する。我々が生きるために、彼らが誠実に死んでいったことを、我々は忘れないだろう。彼らの御霊よ、安らかに眠りたまえ」

 第5海兵師団の墓地では従軍牧師ローランド・B・ギッテルソーン海軍大尉が、

「ここに将校と部下、黒人と白人、富める者と貧しき者が共に眠る。ここに、プロテスタント教徒、カソリック教徒、そしてユダヤ教徒も共に眠る。ここには彼の信仰ゆえに他者を嫌い、肌の色ゆえに彼を蔑む者もいない。これらの者たちの間には差別はない。偏見もない。憎悪もない。最も気高く、そして最も崇高な民主主義が彼らにはある」

 と追悼の辞を延べ、その後、第2次世界大戦後の世界への希望を続けました。

 第3海兵師団でも、アースカイン少将が墓碑の列を見渡す席で追悼の辞を述べていました。

「このようなときに相応しい言葉を私は言うことができない。時に積み重ねられた賛辞だけが、我々の勇敢な死者に相応しい敬意を表す。遥か後、彼らの身近な人々自身が死んだ後、これらの者たちは国によって追悼されるだろう。なぜなら、彼らは国の損失であるからだ」

 上空をアースカイン少将の第3海兵師団が戦うクッシュマンズ・ポケットと第5海兵師団が戦うゴージの支援のためにムスタング戦闘機の編隊が飛び、砂塵を巻き上げました。

「ここに前例の無い犠牲、そして前例の無い勇気の我々自身の歴史における偉大な戦いの偉大な歴史を伝えよう。これらの言葉こそ相応しいにせよ、これらは時期尚早だ。この礁湖は十分に調査されていないからだ。我々の死者の物語が少しずつ明るみに出るとき、硫黄島の戦いを記述する歴史家の用いる言葉や表現でさえ、十分ではない。
 勝利は決して疑わしくなかった。代償がどうかであった。我々全ての心で、心配していたことは、終わりに我々の墓地を捧げるために我々の誰が遺るか、或いは最後の海兵隊員が最後の日本兵の砲と射手を倒すかどうかだった。
 世界に我々の十字架を数えさせよう。彼らに繰り返し、彼らを数えさせよう。ここでは名前、階級、身分、そして部隊の称号をともに捨てよう。志願兵、徴集兵、ベテラン、新兵、古参、補充兵という言葉も捨てよう。それら助手の飽き飽きする語彙にだけ属する分類された言葉は空虚だ」

 アースカイン将軍は一度言葉を区切ると続けました。「ここにそれだけが横たわる」

 もう一度、将軍は言葉を区切って最後の言葉を述べました。

「海兵隊員だけが(Only marines)」

 ここに墓地の開所式は終わると戦闘任務に就いていない海兵隊員が、少人数で戦線から墓地に現れ、長い間、戦場にいたことを示す汚れ、すり切れたユーティリティを身につけた彼らは、墓地に埋葬された戦友の名前を捜し始めました。

後方地区

 墓地の側ではブルドーザーが作業を続け、墓地の増設を行っていました。

 この日も、戦死者は続き、第5海兵師団では更に二人が名誉勲章を受章しています。

 一人は、ジョージ・フィリップス二等兵(第5海兵師団第28海兵連隊)。ゴージの戦いで手榴弾に覆い被さり、仲間の命を救って戦死したことに対するものです。

日本軍兵士の進入に対して、彼の分隊の他の隊員たちが激しい手榴弾戦を行った夜の後に休む間、たこつぼ監視に立ったフィリップス二等兵は、彼らの真ん中へ敵の手榴弾が投げられたとき、彼の部隊へ警告を発するただ一人の隊員だった。
すぐに警告を叫ぶと、彼は彼自身の身体で爆発の粉砕する激しい威力を吸収し、そして彼の戦友たちを大怪我から守るために躊躇うことなく致命的なミサイルへ彼自身を投げた。

 もう一人は、フランクリン・シグラー二等兵(第5海兵師団第26海兵連隊)。2月19日に上陸した数少ない生き残りであるシグラー二等兵は指揮官のいなくなった部隊を率い、負傷を顧みず、戦友三人の命を救いました。

 分隊長が死傷したとき、彼のライフル分隊の指揮を自発的に執り、シグラー二等兵は恐れることなく、数日間、彼の中隊の前進を食い止めていた敵の銃座に対し、大胆な突撃を導き、そして他の者より先に陣地へ到達し、手榴弾で砲座を襲撃し、そして自分自身で全ての要員を全滅させた。
増加した日本軍兵士が偽装したトンネルと洞窟を越えて発砲を始めたとき、彼は迅速に攻撃している銃まで先導して岩を登り、激しい一騎駆けで敵を奇襲し、そして交戦でひどい傷を負ったにもかかわらず、彼はゆっくりと彼の分隊拠点まで這い戻ると彼は避難を断固として拒絶し、日本軍の洞窟出入り口上へ激しい機関銃とロケットの弾幕を粘り強く指揮し続けた。
激しくなる戦闘中敵軍の容赦ない銃撃の雨にも怯まずに、彼は医療処置のために退くよう命じられるまで再開する決意とともに戦いを続けるために戻り、そして前線の背後へ無事に三人の負傷した分隊員を運び、死傷者を助けるために彼自身の痛む傷を無視した。
勇敢な、そして極度の危険に直面しての不屈のシグラー二等兵は彼の用心深い自発性、躊躇うことのないリーダーシップ、そして重要な局面における大胆な戦術によって敵の銃撃から彼の包囲された中隊の解放をもたらし、そして獰猛に戦う敵に対し、極めて重要なそれ以上の前進を与えた。

 この日の夜、後方では野外劇場が三カ所設けられ、映画の上映が始まっていましたし、給湯設備も整えられました。

 千鳥飛行場は夜間は夜間でP-61ブラックウィドウが離発着を行い、大阪空襲から帰還したB-29の緊急着陸も行われていました。

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