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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

炎の舌を伸ばす"ジッポー"こと火炎放射戦車POA-CWS-H1
炎の舌を伸ばす"ジッポー"こと火炎放射戦車POA-CWS-H1

クッシュマンズ・ポケット 3月11日(D+20)-3月16日(D+25)

D+20 3月11日

 東京に続いて名古屋が焼き払われた3月11日。

 第3海兵師団と第4海兵師団は、東海岸における最後の組織的な抵抗を制圧するための行動を開始しました。

 硫黄島では既に終結への動きが始まり、海軍航空隊は硫黄島を去り、海兵隊の航空支援は陸軍第15戦闘機集団のP-51戦闘機が精力的に行っていました。沖合ではタスカルーサとソルトレークシティ二隻の巡洋艦と駆逐艦が艦砲射撃による支援を続け、陸上では軍団及び師団砲兵、そして戦車やハーフトラック、そしてロケット分遣隊による支援が与えられています。

 第3海兵師団は、362C高地(東山)周辺の抵抗を排除するための行動を開始しました。この元オリンピック金メダリスト西中佐の守る最後の防衛拠点は数日に渡って、第9海兵連隊第1大隊と第2大隊、そして第21海兵連隊第3大隊の攻撃をはねのけ続け、第9海兵連隊第2大隊長ロバート・E・クッシュマンJr.中佐の名前から、"クッシュマンズ・ポケット"と呼ばれていました。

 第9連隊第1大隊は前日の3月10日から、第4海兵師団の戦闘地域に取り掛かっており、11日も二個中隊が突撃を繰り返しています。

 3月11日は、第9連隊第3大隊が北東から、第1大隊は東、第2大隊が南東、そして第21連隊第3大隊が南西からクッシュマンズ・ポケットへ攻撃をかける計画になっていました。

 第1大隊は、戦車を盾にして丘陵の洞窟陣地を一つ一つ破壊しながらの前進。

 第3大隊もシャーマン戦車の出動を要請しますが、午後早くに装甲ブルドーザーが道を切り開くまで戦車は到着できませんでした。

 第1大隊と第3大隊が、これらの支援を受けながら抵抗を排除し、合流したのは1515。その後、掃討を完了させると夜間防衛のために沿岸まで後退。

 西からの第21連隊第3大隊はクッシュマンズ・ポケットの南西の際で戦っていました。この地点では洞窟や蜘蛛の巣状の陣地、そして埋められた戦車による防衛陣地が敷かれており、これを排除するため、早朝、第21連隊第3大隊はシャーマンに搭載した7.2インチロケットを日本軍陣地へ浴びせたことで、抵抗を多少は軽減することに成功しました。

 北の戦線では、海岸に沿って第21連隊第1大隊が第5海兵師団と共に北の鼻へと北上を開始。

 第5師団の右翼では、次の四日間、ゆっくりとした前進が行われることになりますが、その右翼を守るために第21連隊第1大隊も北上を続けていきます。

 部隊が前進すると、工兵が掩蔽壕や洞窟を日中の内に破壊していきますが、夜になると日本軍が這い出てきて手榴弾を投げつけてくる状況も続きます。

D+21 3月12日

 第9連隊第1大隊と第3大隊が前進を開始したとき、第3大隊の方は順調でしたが、第1大隊は激しい抵抗に遭遇して速度を落としました。

 一台の装甲ブルドーザーが第1大隊までの道を切り開き、戦車が通れる道を造りますが、荒れた地形は二台以上のシャーマンを動く余地を与えず、海兵隊員はそれらに直接、偽装された掩蔽壕を示して攻撃を行わせました。

D+22 3月13日

 第21連隊第3大隊がは孤立地帯の西からの攻撃を再開。第9連隊第1大隊と第3大隊も東からの攻勢を継続します。

 シャーマンと火炎放射戦車、そして第13連隊の支援を受けて、北側面で第9連隊第3大隊が孤立地帯から切り離した一帯の制圧を完了。第1大隊も日本軍の抵抗を押さえ付けました。

 第9連隊第3大隊は、その後、362C高地の制圧に取り掛かりました。

D+23 3月14日

 硫黄島の占領宣言の出された日にクッシュマンズ・ポケット制圧の最終局面が始まりました。

 この日まで巧みに死守を続けていた西中佐は払暁に一部の拠点を放棄し、北の拠点と合流するために残存兵力三百名とともに銀明水への移動を開始しますが、包囲網の突破に失敗。東山(362C高地)に一部が到達しただけに終わりました。

 これもあって第9連隊第1大隊は朝から攻撃を続け、午後早くに100メートルを確保。1530に第2大隊が最終的な制圧を開始し、第5海兵師団第5戦車大隊から借りてきた火炎放射戦車とシャーマンで点在する防衛拠点を攻撃し、海兵隊員が最後の仕上げを行いました。

 この段階では、上陸日以来のベテラン多数が失われたことにより、こうした接近戦による実地訓練のようなものでした。もし当時の隊員が残っていれば一日や二日で片付いた戦いでした。

 最終的には戦車、火炎放射戦車、そして装甲ブルドーザーとの連携がこうした攻撃を効果的に支援しました。

D+25 3月16日

 夜陰を利用して脱出を図った日本軍部隊が発見され、ほとんどが壊滅しました。

 日本軍の最後の部隊は全長180メートルの谷間に追い込まれ、依然として頑強に抵抗を続けていました。

 重砲の支援攻撃は味方も粉砕しかねないために軍団工兵がロケット弾発射器を乗せた橇を作り、至近距離で10連射(一連射で20発290キロ)を行いましたが、前進開始後、以前のように激しい抵抗が始まり、ブルドーザーが道を切り開き、戦車と火炎放射戦車が陣地を焼き払ってようやく前進が可能となりました。

 1500にクッシュマンズ・ポケットはついに沈黙。

 この"クッシュマンズポケット"の戦いは、

「敵陣地は、洞窟、掩蔽壕、埋められた戦車、石の壁と塹壕の迷宮だった…我々は、全ての支援火器を用い、八日間毎日、この陣地に対してぶつかっていった。中核―地域の主な目標―はまだ残っていた。大隊は疲弊しきっていた。ほぼ全ての指揮官はいなくなり、大隊は350名の交代要員を含め、約400名になっていた」

  と言う激戦でした。それでも、アースカイン将軍は部隊が疲弊しているのを分かっていながら、第9連隊の他の部隊と第21連隊の危機に、予備部隊の代わりにクッシュマン中佐の部隊を使うしかありませんでした。

 同地を死守していた西中佐は脱出の際に重傷を負い、父島に総攻撃の通信を行った後の3月21日、二日前の砲撃で目が見えなくなっていたにもかかわらず、最後の総攻撃を従卒の肩を借りながら率い、武運尽きると銀明水付近で自決しました。

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