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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

夜間の艦砲射撃。海兵隊側の要請に対し、海軍は34時間しか準備砲撃を行わなかった。
夜間の艦砲射撃。海兵隊側の要請に対し、海軍は34時間しか準備砲撃を行わなかった。

論争

 準備砲撃と第3海兵連隊投入問題は、現在もなお硫黄島戦を語る上で議論される問題です。

第3海兵連隊

 上陸開始初日に、第4及び第5師団による予備連隊の投入が行われ、翌日には予備師団であった第3海兵師団も硫黄島に上陸するほどでした。

 摺鉢山陥落までの5日間と、その後の千鳥飛行場の確保、更に後に"地獄の2週間"と呼ばれる北への進撃で上陸部隊は作戦中における損害の3分の2を受けるのですが、これにより前線部隊の補充が指揮官たちの責務となりました。

 しかし、シュミット少将の要請も、第3海兵師団長アースカイン少将の要請もスミス中将とターナー提督の2人は却下し続けました。両将軍の言い分は、硫黄島に一個連隊を新たに投入するだけの余分な空間が無いことと、要請が出された時点で硫黄島にいる兵力で十分作戦目標を達成できるということでした。

  前者について、リチャード・ニューカム氏は、前線なら幾らでも余裕があった、と非難しているように前線部隊の消耗は、投入を望まれる一個連隊を遙かに上回っていました。

 ただ、後者の「現兵力で作戦目標は達成可能」という点ではスミス中将、ターナー提督、シュミット少将、そして各師団長の全員が意見が一致していました。そこでシュミット少将らは、作戦を迅速に終わらせることで、損害を僅かでも減らす、という理由で第3海兵連隊の投入を求めたのでしたが、それだけではスミス中将が、その時、明かさなかった考えを覆すことはできませんでしたし、ターナー提督を説得するだけの材料にはなり得ませんでした。

 この時点で、スミス中将は次の作戦を考えており、そのとき、先鋒部隊の一つは第3海兵師団であり、中でも第3海兵連隊が先陣を切ることになっていました。硫黄島以上の困難が予想される日本本土上陸作戦で、できれば無傷のベテラン部隊を温存しておきたいという思いが、長年、自分の元で参謀長を務めた親友でもあるアースカイン少将直々の願いがあったにもかかわらず、第3海兵連隊は硫黄島に上陸することなくグアムへ帰還しました。

 結果、前線部隊の消耗は補充要員を使い果たしても追い付かず、第4師団では臨時大隊を編制しなければなりませんでしたし、第5師団など第27連隊が事実上消滅する事態にもなり、上陸当時の戦闘能力なら簡単だった最後の掃討作戦を10日間かけてゆっくりと行わなければなりませんでした。このことはスミス中将の悪評を高めることにもなりましたし、その後、シュミット少将らも非難するところとなり、また友人であったアースカイン将軍との関係も以降、微妙なものになったとも言います。

 第3海兵連隊約2,000名が要請どおりに投入されたとして、実際にシュミット少将たちの言うように迅速、かつ損害を少なくして作戦を完了できたかは、それもまたifであり、もし投入され、第3海兵連隊も多くのベテランを失った状態で、日本本土上陸を行えばどうなるかもifとなりました。

 スミス中将は総司令官として次の作戦の損害を僅かでも減らすことを考えて投入を見送り、シュミット少将たちは前線司令官として現在の作戦の損害を僅かでも減らすことを考えて要請を出していた、という立場の違いであり、両者とも海兵隊員の損害を少しでも減らそうと言う点では一致しています。

準備砲撃

 僅か三日の準備砲撃は、明らかに少ないだけでなく、当初計画されていたのも、新鋭の16インチ砲搭載のコロラドやウェストバージニアが諸般の都合(マッカーサーのフィリピン攻略作戦への参加、マッカーサーのフィリピン上陸作戦の遅れ、そしてマッカーサーのフィリピン攻略の遅れ)により、デタッチメント作戦には間に合わず、新鋭のアイオワ級やノースカロライナ級はスプルーアンス提督が高速空母機動部隊の護衛で使用されているために使用不可能。代わりに用いられたのは12インチから14インチ砲搭載の旧式戦艦でした。

 しかし、硫黄島への事前攻撃は、実のところ、1944年6月から空母の艦載機群によって始められており、以降、定期的な艦砲射撃と爆撃が繰り返され、これは太平洋の戦いにおいて最も長期に渡る物でした。その量も前々回のサイパン攻略では、二日間で合計3,000トン(砲弾2,000トン、爆弾1,000トン)が使用されましたが、硫黄島では5,712トン(砲弾5,000トン、爆弾712トン)が3日間で撃ち込まれており、単純に比較できませんが、サイパンが185平方kmに対し、硫黄島は20平方kmなので1平方kmあたりに用いられた量は太平洋で行われた水陸両用作戦の中でも高い数値になっています。

 結局のところ、海軍の砲撃が期間や量が少なかったから効果が薄かったと言うより、栗林将軍が構築させた各防衛陣地がいかに巧妙に偽装され、そして極めて強固だったかを物語っているように思えます。

 もっとも、次のアイスバーグ作戦では沖縄本島上陸前に海軍はアイオワ級や16インチ砲搭載の戦艦を用いて九日間の準備砲撃を行っています。これについてはスミス中将は、後、友人に対して、

「ニミッツも、スプルーアンスも、ターナーも、恐らく硫黄島で学び取ったことがあるんだろう。彼らは海兵隊が上陸する前に硫黄に与えたときよりも六日間も多い九日間も沖縄に艦砲射撃と爆撃をおこなったんだからな」

 と辛辣に語りました。

日本軍側の事情

 デタッチメント作戦の目的は、硫黄島を日本本土侵攻の中継地点とするだけでなく、B-29の緊急着陸及び直衛戦闘機や夜間戦闘機の発進基地にすることでした。

 前者は結局、終戦によって、その目的で使われることはありませんでしたが、後者については重要な役割を果たし、爆弾搭載量を増やしたB-29の日本本土空襲は激しくなりました。

 これが8月6日及び9日の原爆投下にまで繋がるのですから、硫黄島の喪失は栗林中将の決別の電文にあるように、日本の敗北を意味していました。

 その点では、硫黄島は少しでも戦闘を長引かせて時間を稼ぐ戦場ではなく、真の絶対防衛権として是が非でも確保し続けなければならない戦略拠点でした。

 大本営は、この点について最後まで考えを改めることなく、このため、栗林中将も、防御陣地を巡っての海軍の抵抗に妥協し、また戦いが始まってからも2月17日の海軍砲台の命令無視。3月8日の総攻撃。そして、口約束だけに終わった海軍の支援など、散々悩まされながら戦うことを強いられることとなり、その憤懣は、下記の電文に如実に表れています。


膽参電第三五一号(三・七・二三〇〇)
参謀次長宛 膽部隊長
蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度

感状速ニ上聞ニ達セラレ将兵愈々感奮興起セリ
御懇情謹ンテ御礼申上ク
硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ
小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ
   1 現代艦砲ノ威力二対シテハ「パイプ」山地区ハ最初ヨリ之ヲ棄テ水際陣地施設設備モ最小限トシ又主陣地ハ飛行場ノ掩護二拘泥スルコトナク更二後退シテ選定スルヲ可トス
 (本件因ツテ来ル所海軍側ノ希望二聴従セシ嫌アリ)
  2 主陣地ノ拠点的施設ハ尚徹底的ナラシムルヲ要ス
  其ノ然ルヲ得サリシハ前項水際陣地ニ多大ノ資材、兵力、日子ヲ徒ニ徒費シタルカ為ナリ
  3 主陣地二於テ陣前撃滅ノ企図ハ不可ナリ 数線ノ面的陣地二夫々固有部隊ヲ配置スル縦深的抵抗地区ヲ要ス
  4 本格的防備二着手セシハ昨年六月以降ナリシモ資材ノ入手困難、土質工事不適当、空襲ノ連続等二依リエ事ノ進捗予期ノ如クナラサリシ実情ナリ
 又兵力逐次増加セラレシ為 兵カ部署ハ彌縫的トナリシ怨ミアリ
  5 海軍ノ兵員ハ陸軍ノ過半数ナリシモ其ノ陸上戦闘能力ハ全く信頼ニ足ラサリシヲ以テ陸戦隊如キハ解隊ノ上陸軍兵力ニ振リ向クルヲ可トス
 尚本島ニ対シ海軍の投入セシ物量ハ陸軍ヨリ遥カニ多量ナリシモ之カ戦力化ハ極メテ不充分ナリスノミナラス戦闘上有害の施設スラ実施スル傾向アリシニ鑑ミ陸軍ニ於テ之カ干渉指導の要アリ
 之カ陸海軍ノ縄張的主義ヲ一掃シ両者ヲ一元的ナラシムルヲ根本問題トス
(戦史叢書で省略された問題の部分)
  6 絶対制海、制空権下ニ於ケル上陸阻止ハ不可能ナルヲ以テ敵ノ上陸ニハ深ク介意セス専ラ地上防禦ニ重キヲ置キ配備スルヲ要ス
  7 敵ノ南海岸上陸直後並二北飛行場二突破楔入時攻勢転移ノ機会アリシヤニ観ラルルモ当時海空ヨリノ砲撃、銃撃極メテ熾烈ニシテ自滅ヲ覚悟セサル限リ不可能ナリシカ実情ナリ
  8. 防備上最モ困難ナリシハ全島殆ト平坦ニシテ地形上ノ拠点ナク且飛行場ノ位置設備カ敵ノ前進楔入ヲ容易ナラシメタルコトナリ
殊ニ使用飛行機モ無キニ拘ラス敵ノ上陸企図濃厚トナリシ時機二至リ中央海軍側ノ指令ニヨリ第一、第二飛行場の拡張ノ為兵カヲ此ノ作業二吸引セラレシノミナラス陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ
  9. 防備上更二致命的ナリシハ彼我物量ノ差余リニモ懸絶シアリシコトニシテ結局戦術モ対策モ施ス余地ナカリシコトナリ
特二数十隻ヨリノ間断ナキ艦砲射撃並ニ一日延一六〇〇機ニモ達セシコトアル敵機ノ銃爆撃二依リ我カ方ノ損害続出セシハ痛恨ノ至リナリ
  以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ
何卒御笑覧下サレ度
終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル

 この各所で海軍を非難する文章の中で、5番目に至っては防衛庁編纂の戦史叢書で省略されたほどでした。

 アメリカ軍側からは栗林中将は最後まで部隊を掌握し続けて戦ったと評価していますが、実際には2月17日、UDTチームを乗せたLCIに対し、これを上陸部隊と思った海軍砲台が命令を無視して発砲を始めてしまい、この結果、17日と18日で苦労して構築した摺鉢山と元山の砲台がほとんど壊滅することとなりました。栗林中将の目論見では摺鉢山とで上陸部隊を挟撃する計画でしたが、これも摺鉢山が5日で陥落してしまい元の木阿弥になってしまいますし、そもそも、その挟撃ですら、摺鉢山を放棄しようとして果たせずにしてなった妥協案でした。

 また、同じように海軍との妥協で構築を許した海岸陣地も艦砲射撃と、その後の3日間の戦闘で壊滅。

 更に2週間に渡って第4海兵師団を苦しめ続けた肉挽き器も、3月8日から9日にかけて総攻撃を行って壊滅しました。日本側の資料では混成第二旅団長の千田少将が率いたことになっており、また目撃者(生還する武蔵野中尉ら)の証言もある一方で、海兵隊側は、この総攻撃は摺鉢山奪還を目論見続けた海軍の井上大佐の主導によるものとしています。

 つまり、準備段階、2月17日、3月8日-9日と海軍は従来の戦法に固執したあげく、海兵隊側の味方をしていたことになります。完璧に栗林中将に意向が反映されていれば、戦いは更に長引き、上陸部隊の損害は更に増えたことでしょう。もっとも、それで上陸部隊を撃退できたかと言えば疑問ですが。

 硫黄島の戦いは両軍の指揮官が、揃って味方の海軍に悩まされた戦いであり、また最後は切り捨てられる戦いでもありました。

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